1-2 殺害予告
「あなたは卑怯者だね、お姉ちゃん」
穏やかなそよ風が静かに大地を撫でた。地平線の彼方まで広がる草原の中で、青々とした草花が楽しげに踊る。のどかで、しかしながら賑やかな草原の中心にある丘の上。
そこに一本だけ佇む華奢な木の根本で、一人の少女が微笑みながら呟いていた。
────あなたは、誰ですか?
彼女の前に立つ私は、首を傾げて問い掛ける。
不思議な感覚だ。
確かに少女は目の前に立っている筈なのに、その容貌は酷く掠れて見え、まるでそこには何も居ないように感じる。
視界が霞んでいるのか、もしくは自身で見ないようにしているのか……自分の抱いている感情すら、今だけは理解に及ばなかった。
「それは、お姉ちゃんが一番良く分かっている筈だよ」
少女は手を後ろで組み、面白がったように笑っていた。
彼女の佇まいに、警戒心はない。
しかし、逆に気の緩みもなく、真っ直ぐに私のことだけを見つめている。
彼女は……私に対して、何らかの強い感情を指し示しているように感じた。
────私が、一番知っている?何故?
私の問い掛けが、一陣の風となって少女の髪をなびかせる。
その様を見て、本能的に直感した。
正確には、私はここに居ない。
私の意思だけが形を成し、風となって、少女の元へ言葉を届けている。
そして、そんな不可思議な現象を前に、少女も驚く素振りすら見せず……まるで神様であるかのように、全てを察した卓越した様子で言葉を交わしているのだ。
「一つ、教えておいてあげるね。お姉ちゃんは、私から逃れらない。お姉ちゃんが何処へ行こうと、何をしようと、その運命だけは……決して変えられない」
そう宣言した少女はきびすを返し、丘の上から立ち去ろうとする。
それを引き留める術を持たない私は、慌てて彼女の後ろ姿に向かって声を上げた。
────変えられない、運命…………待って下さい!私は、何を忘れているのですか!?あなたは、何を知っているのですか!?
駄目だ。
どれだけ声を荒げても……“自分の感情が分からない”。
気持ちが悪い。まるで、自分の意識と、自分の身体を、それぞれ別の存在が、それぞれで操作しているような……そんな感覚だ。
最中、少女は立ち止まる。
肩越しに不敵な笑みを浮かべながら、こんなことを口にした。
「用心した方がいいよ、お姉ちゃん────脅威は、既にお姉ちゃんの身近にまで迫っている」
“そんなことは分かっている”。
分かっているからこそ、行動に移そうとした。
自分の手で全てを変えようと、尽力したつもりだったのに。
それなのに、どうしてだ。
どうして。
どうして……。
どうして…………?
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「相輪さん?」
「……っ!」
「わっ!?」
誰かに耳元で呼び掛けられて、反射的に顔を上げた。
どうやら、昼休み時間中に机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。辺りを見渡してみれば、そこは羽間中央高等学校の教室。真隣で開け放たれた窓からは穏やかな気持ちいい風が入り込み、夢の中で見た光景を微かに思い出させる。
あれは……果たして、本当に夢だったのだろうか。
「急に起きるから、ビックリした~。次の授業は体育だし、そろそろ着替えて行かないと遅れちゃうよ?」
そう言ってクスクスと笑う少女は、この世界に召喚されてから初めて出来た友達、鈴木莉乃だ。
赤みの掛かった黒髪ショートに、もみ上げが兎の耳のように長く垂れ下がっている。血色の良さを物語っている淡い小麦色の肌は、まるで南国で生まれ育った姫君のようだ。自分と比べて小柄な体型で、服越しには胸元も平坦に見えるが、以前に服を着替える際にサラシを巻いているのを目撃してしまったので……正確な大きさは不明である。
宝石を連想させるようなエメラルドグリーンの瞳と、とても綺麗に整った可憐な容貌から、彼女を呼称する時に『美』の代名詞を付けられるのは、目に見えて明らかだろう。誰もが気を許してしまうような朗らかな性格をしており、どんな些細な物事でも大袈裟に反応する無邪気な人柄は、言葉を交わしていて心を和ませてくれる。
そんな彼女に促される形で慌てて机から立ち上がり、机の横に掛けられた、体操着の入った包みを手に取る。
「あ……ご、ごめんなさい、今支度しますね」
「相輪さん、大丈夫?具合悪いの?保健室、行く?」
「いえ。大丈夫です、莉乃。行きましょう。あなたまで、遅刻させる訳にはいきませんから」
「え?私のことは気にしなくても良いのにー。やっぱり、相輪さんは優しいね。昨日も、危ない所を助けてもらっちゃったし」
「……優しい、ですか……私が……」
莉乃にとっては何でもない言葉だったのだろうが……『優しい』という単語を差し出された途端、不気味な違和感が頭の中を渦巻く。
昨日、莉乃を不良たちから助け出した時も同じだ。
だから、自分でも分からない内に、こんな感情が芽生えるのだ。その言葉は……果たして、本当に自分に相応しい言葉なのだろうか、と。
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「体操着の上から透けて見える下着……そそる」
「唐突に何言い始めてんだ、お前」
グラウンド脇の石階段に腰掛けていると、一段上に座っていたクラスメイト、露原悠希が唐突に真剣な眼差しで、卑猥な発言を口にし始めた。
五時限目と六時限目は男女混合の体力測定。
目の前のグラウンドでは男子は勿論のこと、女子も一緒になって、五十メートル走やら、立ち幅跳びやら、ソフトボール投げやら、色々な種目に挑んでいた。
誰かとつるむことなく、一足早く全ての種目を終えていた雅人と悠希は、偶々二人揃ってグラウンドの隅で休憩していたのだが……。
「純白の肌から滴り落ちる汗……動く度に揺れ動くたわわな胸……乱れる息遣いと、紅潮する頬……はぁ、学校って最高だよなぁ、マジヘブン」
「黙っとけイケメン変質者。露原さんよお前、隣のクラスの女子を相手に、『胸を揉ませてくれないか?』とか言って、先生の前に警察呼ばれそうになったのを忘れました?」
「そこは持つべきものは友達って奴だ。まっちゃんが間に入ってくれて、本当に助かったって……だけどさ、あれ?あの時警察に通報しようとしたのって、まっちゃんじゃなかったっけ?俺、マジで人生終わったかと思ったんだけども」
「変質者を警察に突き出すのに躊躇なんて要らなくない?」
「いやいやいやいや、俺たち、マジ友よね?」
この男、身長も高くて、顔立ちも良く、同年代から見れば理想的な容貌をしている為に、学年問わずに女子からの人気は限りなく高い。誰から見ても話しやすい気さくな性格をしており、普通にしていれば、普通に好青年な人物だ。
しかし、一度口を開けばこの通り……その正体は、良くも悪くも根っからの変態である。
だが、勘違いしてはならない。
彼は何も悪気があって欲望を爆発させている訳ではない。ただ、女の子の存在が好きで、女の子の身体のパーツが好きで、性格も、佇まいも、言葉遣いも、香りも、吐息も……何もかもが好きなだけなのだ。
「それにしても良い眺めだぁ……特に、数日前に転校してきた相輪冬香。あいつはハッキリ言って特上。つーか舐めて味を堪能したい」
「辞めとけ、終わるぞ人生。というか、俺が責任もって終わらす」
「そこに責任を持っちゃうんですかッ!?」
(まぁ、認めるけども……実際、可愛いし、綺麗だし……)
勉強も運動も出来る、文武両道で容姿端麗。
人間の女性として何もかもが優れている、理想像をそのまま顕現させたかのような人物だ。
最近だと、全国模試で学年一位を取ったとか、全国レベルの男子バスケ部を相手に勝ったとか、男女問わずに一日の内に数回告白されたとか……召喚されて一週間と経たぬ間に、どうやればそこまで出来るのか、と疑ってしまう程の伝説を築き上げている。
実際は『英雄』とも称される超人なので……もしかしたら、彼女にとっては造作のないことなのかも知れない。
「転校して来てたった数日で一躍学校の有名人。それを自慢げにひけらかすこともなく、物静かに過ごしているってんだから、末恐ろしいことこの上無いよな。俺やまっちゃんみたいに、秀でた才能が無い奴等とは大違いだ」
「その通りではあるけども、敢えて声に出して言われると腹が立つな」
「ところで、まっちゃんは最近その相輪冬香と一緒に帰っているって話だけど?」
「帰り道が同じ方向だから、そう見えただけなんじゃないのか?」
「そっかそっか、なら良いんだけど。ほら、あの相輪とよくつるんでいる鈴木莉乃って居るだろ?あいつが昨日、不良に襲われたって話なんだよ!」
「へぇ、それは恐ろしい話だな……」
露原はそういった噂話には目がない人物だ。
実際にその目で見た訳ではないだろうが、まるでこちらの反応を期待するかのように、話を誇張させて語り始めた。
「だろ?相輪を狙っている奴は腐るほどに居るらしいからな……相輪と仲良くしているのを気に入らない奴が、鈴木を襲ったか、襲わせたか……とにかく、関わりを持つならそれなりの覚悟を持った方が良いってことだ。下手したら、殺されるかも知れないぜぇ?」
「だったらお前も殺されないように気を付けときな」
「…………え?どゆこと?俺、何かした?」
(……まぁ、あの不良共に鈴木莉乃を襲わせたのは、間接的に俺なんだけれど)
元々から超人染みた力を持つ彼女の手に掛かれば、そこらの不良どころか、滅多な軍隊相手位ならば難なく返り討ちにしてしまう気がする。
今更、彼女の身の回りを心配するのはお門違いも良いところだ。むしろ、そんな怪物に命を狙われている、今後の自分の身を案じるべきだろう。
せめて、『目的』を果たす時まで……それまで、自分の身が保ってくれれば良いのだが……。
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離元空間の特性を用いて世界と世界を接合し、本来ある筈がない繋がりを両者の間に形成。その繋がりを釣糸になぞらえて引き揚げることで、半ば強制的に他者を異世界に召喚させる……これが、日陰舘一族特有の召喚術らしい。
その『繋縁』と呼ばれるモノに繋がって召喚された者は、“元の世界と異世界の双方の常識に沿った概念”を植え付けられる。
つまり、常識も知識も、あくまで一般的な人格者に作り替えられる、ということだ。
だから、現代がネット社会であることも知っているし、スマートフォンの使い方も分かる。ガスや電気の構造もある程度理解出来るし、学生の体力測定に、男子は千五百メートル走、女子は千メートル走、という違いがあることも知っている。
「はっ、はっ……相輪、さんっ……速、すぎ……っ」
二百メートルトラックを五周してゴールに辿り着いた途端、最初から最後まで並走していた鈴木莉乃がペタンと座り込み、今にも死にそうな顔で呼吸をしながら呟いた。
どうやら彼女は短距離は得意とするものの、長距離は大の苦手のようだ。
「そうですか?『イモルト山』の崖を素手で登った時の方がよっぽど……」
「え……?レト、ルト……?カレーの話?」
「いえ、何でもありません。さっ、次に行きましょう」
「はひゅ~……もう限界だよぉ……」
異世界の住人であることは、部外者に知られてはならない。
それを話した所で簡単に信じる者は居ないだろうが……そもそも、二つの世界が結び付くこと自体が特異的な事態。なんでも、異世界の常識を別世界に拡散することは、少なからず世界の流れを乱すきっかけになってしまう、ということらしい。
あの日陰舘当主が一体何処まで真実を語っているのかは分からないが、判断材料に乏しい今は、大人しく話を聞くしか他に方法はない。
それはさておき。
次に測定するのは、ハンドボール投げ。その名の通り、ハンドボールという手のひらよりも一回り大きなボールを投げて、どれだけの飛距離を飛ばせるのかを測定するもの。
確か、高校生女子の平均記録が十四メートル程度だったと聞くが……。
「……“また”ですか……困りました、ね……」
莉乃が意気揚々と測定している姿をバックネットに背中を預けて眺めながら、誰にも悟られないように、口元に手を当てて小さく呟く。
別に測定すること自体に問題はない。
ただ、二つの世界の常識を持ち合わせている以上、頭の中で両方の常識を比べることも簡単だ。つまり、どこまでやれば一般的で、どこを越えてしまえば異常なのか……その境界線も、ハッキリと想像出来てしまう。
故に、もどかしい。
特にこういった自身の実力を測る場で、“極端に他者に合わせなければならない”、という状況は。
「力をセーブするのは難しい、か?」
「……!」
少しだけ俯き加減で難しそうな顔をしているトアの隣で、彼女と同じ様にバックネットを背を預けて立ち、ポケットに手を入れながらそれとなく声を掛ける。
すると、彼女の口からは相変わらず敵対心剥き出しの言葉が返ってきた。
「授業中に何か用ですか、日陰舘?」
「いいや?そんなに溜まっているなら、一度発散してみるのも良いんじゃないかと提案しに来ただけだ」
「そうですね。この場であなたを殺すことが出来れば、私の心も晴れるのですが」
どうやら、順調に自分に対する嫌悪感を蓄積していっている様子だ。
こちらの顔を見てもいないのに、度の過ぎた殺気だけがヒシヒシと伝わってくる様は、ハッキリ言って気持ちが良いモノではないが……押し負ける訳にはいかない。
心を鷲掴みにされるような鮮明な恐怖心を押し殺し、無理矢理不敵な笑みを浮かべて、敢えて彼女の気迫と真っ向勝負を仕掛ける。
「だったら殺してみたらどうだ?出来るものならな」
「そんな簡単なこと、私に出来ないとでも?」
「それが出来ないと分かっているからこそ、こうしてほくそ笑んでやっているんだがな。英雄様とあろう者が、駄犬のようによく吠える」
「……せめてこの場に居る時くらい、放っておいてくれませんか?一分、一秒でも、あなたと同じ場所には居たくない」
「……」
これは、珍しい光景だ。
いつもは果敢な姿勢を断固として崩すことがない冬香が、視線を前髪で陰らせ、まるで懇願するように呟いていた。
彼女らしくない弱々しい態度に思わず良心が反応し、言葉を詰まらせそうになるが……ここで一度気を効かせてしまえば、今までの辛抱が無駄になってしまう。彼女には徹底して、自分のことを嫌って貰わなくてはならない。
そうでなければ『明示録』に書き記された運命は、彼女に容赦なく牙を剥く。それを免れる為には……典型的なヒロインを救い出す主人公、みたいな安直な関係を築く訳にはいかないのだから。
「良いのか?俺から目を離したら……鈴木莉乃は、どうなると思う?」
「……っ!」
トアが驚愕した様子で顔を上げ、目蓋を引き裂きそうな勢いで見開かれた瞳が、ギロリとこちらを睨み付けた。
「着々と親交を深めているようだな。何よりじゃないか」
「次、彼女に手を出したら……ッ」
「何だ?」
「……どうして、彼女まで巻き込むのですか……?関係ないじゃないですか……これは、私とあなたの問題でしょう……?」
明示録によれば。
トアという英雄は広い友好関係を築くような人物ではないが、一度親密的になった相手は、例え自分を投げ捨ててでも守ろうとする、お人好しな一面を持ち合わせているという。
自分がそうするように差し向けたとはいえ、鈴木莉乃との親密関係は、この短い期間の中で着実に深くなってきている。そんな中、彼女でも手に負えないような人物が、鈴木莉乃を盾に取ったらどうなるのか……それは、今の彼女の反応を見れば明らかだろう。
「鈴木莉乃と仲良くなったのはお前の意志。俺は、ただそれを利用しているだけだ」
「……」
「なんだ、もう反抗するのは辞めるか?」
「……あなたの操る離元空間は、世界の境界線そのもの。例え異能を用いたとしても、それを破壊することは出来ない……間違いありませんね?」
自分を落ち着かせるように短く息を吐いたトアは、足元に転がるハンドボールを拾い上げながら、そんなことを尋ねてきた。
「唐突に、どうし……」
「────」
「ッ!?」
一瞬、トアの腕が消えたかと思ったら……。
鼻の頭を何かが掠め、少し離れた場所にある電柱で強烈な衝突音と破裂音が響く。
その音に反応した周りのクラスメイトが驚愕してあちこちを見渡す中……その電柱は、前後に大きく揺れ、根本にはハンドボールの残骸が張り付いていた。
昨日の時と同じだ。
並みの身体能力を大きく上回る、トアの超人的な力。
もし、たった今トアが投げたボールが直撃していたら……果たして、怪我で済んでいただろうか。
「『養素』、と私たちの世界では呼んでいました。『果々』から授かった『養素』を糧にして、一時的に身体能力を上げることが出来る力……どうやら、こちらの世界でも作用されるようですね」
ある世界では……マナと呼ばれる神秘的な力より派生する『魔法』……または身体に及んだ突然変異により発生する『超能力』……もしくは『霊力』、『神通力』、トアの言う『養素』等……異能力に関しては様々な名称が存在するが、明示録はそれらの異能力を総じて……。
────《汎現》、と名付けた。
人の内に秘められた不可視の物質、『潜在物質』を利用し、身体能力向上、超常現象発生等を引き起こすことが出来る……人が有する必然的な可能性を具現化したモノの総称だ。
偶々この世界では、全人類が汎現の具現性に覚醒することはなかった。
しかし、明示録に書き記された異世界では、ほぼ全ての人々が汎現を扱えると考えて間違いないだろう。もしかすると、そうやって異能力が過剰発達したことが、世界滅亡のきっかけに繋がってしまったのかも知れないが……どちらにせよ、真実は定かではない。
「私からもお礼を言っておきます。これで、“準備は整いました”」
「……準備?」
「今日の放課後も、迎えに来てくれるのですよね。早く来てください────待っていますから」
「……“待っている”……?」
結局その後、トアの真意を確かめられないまま、体力測定中に彼女と顔を見せることは一度もなかった。
ただ彼女が、何らかの形で一歩足を踏み出したことは間違いない。
そう確信付けた自分の脳裏には────彼女がすれ違い際に残した、不敵な笑みが強く焼き付いていた。
ちなみに、トアがハンドボール投げで叩き出した記録は、測定不能。こうしてまた一つ、彼女の元に新たな伝説が刻まれたのだった。
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
嫌な予感を覚えていた。
それは、五時限目の体力測定が終わった後のこと。その時の彼女、相輪冬香は……今までと、何かが違っていた。
────あなたは必ず、私が守る。これ以上、あなたを危険な目には遭わせないから。
いつもの優しさだろうと、そう思った。
庇い立ててくれているのだろうと、そう思った。
だけど、その時の彼女の瞳を見た瞬間────思わず、悲鳴を挙げ掛けた。
何故なのかは分からない。ただ、そこに見えたものを、敢えて言葉にするならば……『闇』のようなモノだったから。
どす黒い色が、グチャグチャに入り交じって、歪みに歪んだ、狂気の感情……少なくとも、こんなにも優しい言葉を掛けてくれる人が見せるような、理性的な瞳ではない。
あまり言いたくはないが、具体的に表現すれば……頭のイカれた犯罪者を前にしている……そんな感覚だった。
「……相輪さん……どうしちゃったの……?」
それにしても、ある意味で異様な光景だ。
今、他のクラスメイトが誰一人として居ない静まり返った教室で、日陰舘雅人と相輪冬香の両者が、背中合わせで対談している。
出会った当初から、あの二人は徹底して顔を合わせようとしない。
冬香は雅人に対して敵対心を剥き出しにして、雅人もそれを改善しようとする気配を見せない。
他のクラスメイトは気づいていないようだが……まるで二人揃って、“それでも一向に構わない”、と断定しているかのようで……何だか怖くなって、口を挟むことは出来なかった。
「……せめて、何も起きなければ、良いんだけどな……」
今は、出来ることが頭に思い浮かばない。
そんな歯痒い思いと恐怖心を噛み締め、教室の外で声を潜めて、静かに彼らの経緯を見守るのだった。
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
「何故、私が『英雄』と呼ばれているのか……あなたには、分かりますか?」
夕暮れ、穏やかな橙色の光が差し込む窓際で立ち、外の景色を眺めている冬香……いいや、トアがそう尋ねてきた。
彼女に背を向けて椅子に腰掛けて足を組み、教室内の暗闇をボンヤリと見つめながら、彼女の問いかけに対する答えを無言で考えてから口を開く。
「……お前が、『英雄』の名前に相応しい技量と器を持ち合わせていたから……そういうことじゃないのか」
「“その通り”です。私は、『英雄』らしく在る為に、英雄に相応しい器として形作られた。そうやって生まれたのが、トア・ラィド=イザベリングという『英雄』なのです」
「形作られ、生まれた、か……」
何やら含みのある言い方に眉を潜めると……窓からそよ風が差し込み、なびいたトアの後ろ髪が自分の頬を微かに撫でた。
まるで、今は黙って聞け、と促されているかのように。
「そう。私は、どうしようもない位の英雄です。英雄で在り続けることでしか、私を保っていられない。常識として正しいのか?間違っているのか?いいえ、“そんなことはどうでも良い”。私にとって、何よりも重大なのは────私が英雄で在り続けること、その一点のみです」
理論的だと思えば賢く聞こえるが……その実態は、自分の我が儘を貫こうとする、自分勝手な主張に過ぎない。
何だか彼女らしくない傲慢な言い分に、思わず眉を潜めて、少しばかり感情が込められた言葉を投げ返す。
「……その為なら人殺しも厭わない、か?そんな幼稚な言葉がまかり通らないことは、異世界の住人であるお前も分かっている筈だがな」
「そんなもの、価値観の違いでどうとでも言える。それに、あなたは言いましたね、日陰舘。私の周りの者が巻き込まれるのは、私の責任だと。確かに、納得しました。だからこそ、私は……私が巻き込んでしまった人の為に、私の存在意義を守る為に────私自身の、『英雄』を実行します」
「……!」
(近っ……!)
トアは背後からこちらの両肩に手を置き、耳元に限りなく口を近付けて、妖艶な口振りで囁き掛けてくる。
その時、彼女が放った一言は、間違いなく……『狂気』の色に染め上げられていた。
「待っていて下さい。今夜九時────あなたを、殺しに行きますから」




