1-17 私だけの英雄
『澱』は言った、この存在は英雄に成る筈だった人々の『総意』である、と。
まさに言葉の通り、この暗闇を構成しているのは、人々の『総意』そのもの。
数え切れない無数の人々の存在が、四方八方から、目に見えない手を伸ばしてくる。
恐らく、現世でトアを拘束していた影の正体は、この澱だ。
万全の力を発揮出来なかったからとはいえ、あのトアでさえ逃げ切ることが出来なかった澱を相手に、しかも完全な相手の手中で、相性の悪さも相まって……そもそも善戦が、出来る筈がなかった。
「ぐ……く、ぁ……ッ」
最初は肌を軽く撫でる感覚に全神経を注ぎ、辛うじて回避することは出来ていたが……一度に数十、数百と拘束の手が襲い掛かってきては、どうしようもない。
あの時のトアと同じように指先一本動かせないまでに、凄まじく強い力を発揮する影に拘束されてしまい、無防備な姿を澱の中で晒されていた。
そこへ、今や完全に行方を見失ってしまった本体の声が、空間全体に反響してくる。
「澱トハ、空間ソノモノ。空間トハ即チ、澱ノ世界……汝ニ、世界ヲモ破壊スルダケノ、『力』ヲ示セルカ?」
「ち、から……?」
「何ト、脆弱ナコトカ、惰弱ナコトカ、薄弱ナコトカ……『フィーネス』トイエドモ、所詮ハ人ノ子。人デハ、世界ノ改変ナド夢ノマタ夢……」
「ぎッ……!?あ……ァ、ぁ、ァ……ッ!!」
「ナレバ、覚悟モ、信念モ、全テヲ放棄シ、『澱』ノ深淵ヘト堕チルガイイ」
これで終わりにしてやる、と言いたげな言葉と共に、自身の身体を拘束する影に更に力が加わっていく。
指先が、腕が、顔面が、胸が、腹が、脚が……。
ミシミシッ、と何かが切れるような音と共に……。
千切れそうになって、折れそうになって、潰れそうになって……あまりの激痛のせいで悲鳴すら上げられなかった。
ただ、人間は自らに危機が迫ると、不思議と減らず口を叩けるようになるものだ。
「そんなに、リノのこと、が……怖いの……?」
「……?」
「澱だけを、遣って、自分は闇の中で、コソコソと、隠れている、なんて……案外、臆病者、なんだね……あなた、は……」
「……我ノ手デ、殺サレタイカ?」
「……ッ!?う、ぎぁ……ッ!!」
「ナラバ、望ミ通リ……直々ニ、始末シテヤロウ」
突如、喉を締め付ける強さが爆発的に膨れ上がり、身体から一気に空気が漏れ出た。
これは……何者かの手で、首を鷲掴みにされているのか。
どちらにせよ、このままでは本当に絞め殺されてしまう。
このままでは、このままでは……。
……。
…………。
………………。
やりたいというならば、好きにすればいい。
主様はそう言って、自分がヨウ=イルアウマーに挑むことを了承してくれた。
〔属性〕間の相性が最悪であること、勝率は限りなく零に近いこと、それらを全て理解した上で。
当然、それを聞いていた日野原ゆちからは反対の声が上がる。
勝率が無いに等しい戦いに挑むのは、無駄死以外の何物でもない愚行ではないか、と。
だが、トアの本体が何らかの形でヨウに隠されているのは、彼女とのやり取りから察していた。もしもトアが自力で脱出することが出来ず、意識を失った状態であるならば……それを強制的に起こす方法を持っているのは、自分だけだ。
ただ、ヨウがそれを黙って見過ごすわけがない。
問題となるのは、トアを救出する隙を作り出す為に、あの〔英雄〕の進撃をほんの一瞬だけでも完全に止める必要がある、ということだ。
恐らく、並大抵なことでは彼女は倒れない。
それこそ、決定的な一撃を、確実に彼女に叩き込まなくては……。
そこまでは、事前の相談の中で予想し得た事実。
ここから先が、未知数の領域だ。
主様、明示録の所有者である日陰舘雅人が言うには……。
〔英雄〕という最上級属性が相手だからこそ、リノリス=トラントの持つ〔属性〕は、相性が最悪であると同時に────一方的な有効性を示すことが出来る、と。
………………。
…………。
……。
「────こ、こ……だァッ!!」
「ッ!?」
小細工だとか、策略だとか、そんな小難しい考えは、何も要らない。
この射程距離……即ち、自身の放つ雷撃が、最も力を発揮する立ち位置まで本体が近付いてくれれば……後は、渾身の力を放つだけで、確実に捉えることが出来る。
《真器》顕現────《紫電猛兎》。
全身から迸る紫色の稲妻が一点に集中。
それは、一体の獣と成り、一本の鋭利な槍の如く────澱の本体を貫いた。
「ガァァッ!?アァ、ァ、ァ……ッ!!?」
〔英雄〕はフィーネスに付与される属性の中でも最上級に分類する属性であり、それとタイマンで勝負をして互角の力を発揮出来るのは、同じ最上級属性しか居ないだろう。
だが、最上級属性以外の数多く存在する属性の中で、ただ一つだけ……。
“最初の一撃に限り、属性間の相互関係を逆転させられる”〔属性〕が存在する。
それは……。
「────〔奴隷〕。リノの属性は、最下級に当たる属性だけれど……現世において《革命》の意を忘れたことは、これまで一度もないんだ……ッ!!」
主様の教えてくれた通り……ここまで極力攻撃を与えないように配慮し、ここぞというタイミングで渾身の一撃を叩き込めることに成功したのが、最大限の効力を発揮したらしい。
全身を拘束する影が一斉に解け、暗闇の空間が歪むように波立つ。
地面に着地した場所には、澱の本体……ヨウ=イルアウマーと思われる人物が、地面に転がってもがき苦しんでいた。
「ギィ、アァァァァァ……ッ!!ヒッ、ィッ、ィ、ィッ……イ、ギィィィィィィイイィィィィッ!!!」
「ハッ、ハァッ……絞め殺されるところだったけど……まだ、まだ、動ける……よしっ、よしっ……後は……ん?」
先程と比べて、若干の光を帯び始めた視界の中で……微かに、澱の中に浮かぶ『何か』を捉えた。
当初、『それ』が何なのかは分からなかったが、改めて目を凝らして見てみると……思わず、自分の目を疑った。
それは、『人』だ。
澱の影に縛られて宙に吊るされており、意識が無いのか、グッタリと全身の力が抜けて項垂れている。
だが、これまでの予想が正しければ……澱に捕らえられている人物は、一人しか居ない。
そう、見つけた……。
遂に、見つけたのだ……。
偽物でも、精神体でもない、正真正銘、本物の『彼女』を……。
「────『トア』さん……ッ!!」
もう、迷いは要らない。
悲鳴を上げる身体を奮い立たせて、トアが捕らえられている場所へと、全速力で走る。
元々燃費が悪い身であるが故に、先程の一撃のせいで稲妻と成って移動することは出来ないが、遮る者さえ居なければ問題はな…………。
その時だった。
持てるだけの力を全て振り絞り、ここまで思惑通りに進んだ為に、ほんの少しだけ気を緩めてしまったのかもしれない。
────唐突に、予測だにしない事態が起こった。
「────サッ、セッ、るッ……かァァァァァッ!!!」
「!?」
背後から強烈な気配が近付いてきたと思ったら、後頭部を鷲掴みにされて……そのまま凄まじい力で、地面に押し倒される。
何が起きたのか分からず、真っ白になった思考の中で、顔面に走る激痛を堪えながら、『そいつ』の顔を目撃した。
確実に……確実に、再起不能にまで追い込み……今しばらくは、立ち上がることすら出来ない筈の────ヨウ=イルアウマーの姿が。
「う……そ……なん、で……ッ!?」
ヨウは痛みを堪えるような歪んだ表情で荒い息を吐きながら、歯が痙攣するようにガチガチと噛み鳴らしてまでも、確かな意識を持って言葉を発する。
その精神力と執念は、最早、人間の域を……いいや、フィーネスの域すらも、遥かに超越していた。
「はーッ……!はーッ……!属性間の相性に、こんな関係性があったなんて……知らなかった……ッ……危うく、死ぬところだったっしょ……ッ……だけど、意識さえ……意識さえ、保っていられれば……あたしは、何度でも、立ち上がってやる……ッ!何度でも、この身を懸けて戦ってやる……ッ!!」
「そん、な…………ぎぁぁぁぁッ!?」
トアに向かって伸ばした手に、猛烈な激痛が走る。
辛うじて視線を向ければ、ヨウが手にした刀弓が手の甲を貫いていた。
それを躊躇なく引き抜いたヨウは、こちらの身体に馬乗りになったまま、刀弓を大きく上に振り上げる。
マズイ……次で、本当に……トドメを刺すつもりだ。
「ぐっ、ぐぅぅ……っ!や、やめ……ッ!」
「確かに、あんたは強かったっしょ……それは、認めてあげる……ッ……だけど、トアだけは、渡さない……ッ!絶対に、渡さない……ッ!!何があっても……トアは、あたしが守らなくちゃならないんだよ……ッ!!」
やはり、勝てないのか……。
侮っていた訳ではない、ただ想像を遥かに上回ってきた……この〔英雄〕の底力と信念に限っては、属性間の相互関係すら上塗りする程の物だった……。
もう、策は残されていない。
《汎現》も使えない……身体に力が入らない……一度きりの〔奴隷〕の特性も通用しない……。
後はもう……ただただ、トアへ向けて、すがるように手を伸ばすことしか……。
そして。
「も、すこ、し……もう、少し、なのに……ま、た……こん、な……こんな、ところで……ッ…………イ、ヤ……っ」
「終わりに、してやる……この勝負、あたしの勝ちだ……リノリス=トラントォォォォォッ!!」
文字通り、決着の時が訪れる。
ヨウの持つ刀弓が振り下ろされ、リノリスの身体を無惨に貫くのだった。
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
もし、万が一にも、『そいつ』が召喚されてしまった場合……離元空間を扱う術を持っている自分ならば、何とか足止め程度は出来ると思っていた。
無理だとか、不可能だとか、他者から嘲るように言われたことも、乗り越え続けてきた。
今回も、その寸前までやって来れたではないか。
だが……折られた。
たった一振りの斬撃で、大陸樹を真っ二つにした、馬鹿げた力を目の当たりにして……乗り越える気迫すら、掻き消された。
顕現した離元空間の壁が────“無残に破壊される”様と共に。
壁の強度が幸いしてマリドナの方は重傷を負わなかったものの……その衝撃があまりにも強かった為に先程から右腕の感覚がなく、指先から血が滴り落ちている。
何にせよ、間違いなく言えることは……次にもう一度、目の前であの矛を振られたら……防ぐ手立ては無い、ということだ。
「……明示録の持ち主、か。黙示録の産物である是の初撃を、その程度で済ますとは……」
(その、程度……?右腕、ピクリとも動かなくなっちゃたんだけどもなぁッ……?あぁ、クソッ……!気持ち悪いし……何か、吐きそう……ッ)
右腕の損失から成る全身の気怠さが秒刻みで増幅していき、息が乱れ、視界が霞み、マトモに立っていることすら辛い。
今だけは、傍らで気を失っているマリドナが羨ましく感じてきた。
それに、何より……怖い。
ヤクザ、格闘家、犯罪者……いいや、大型動物、猛獣、恐竜……いいや、そんなモノが可愛く思える程に、得体の知れない『何か』を前にした恐怖心が、更に心を抉ってくる。
目を合わせただけで、殺されるかもしれない。
言葉を発しただけで、殺されるかもしれない。
同じ空間に居るだけで、殺されるかもしれない。
何もしていないと、あまりの恐怖でバイブレーションのように震えが起こり、呼吸することすら困難になる。
ただ、そんな時は……決まって、いつも通りに偽った自分を演じるのだ。
言動は気丈に、心は横暴に、独裁的な『支配者』のように振る舞う……そうすれば、皮肉にも恐怖心は薄れていく。
「大した力だな……お前、何者だ?」
こんな上から目線で口を利けば即座に殺される恐れもあったが……彼女は少し考えるように空を眺めながら、意外にも素直に答えた。
「……是の名前は忘れた。もう、何も覚えていない……名前も、故郷も、何もかも。だが、そんなものは是の役目に比べれば、些事なこと」
「些事……?」
「そう。是の役目は、“滅亡をもたらすこと”。『かの理』に基づくと、この地の現状は極めて異端。だから、滅亡させる。人も、土地も、命も、世界も、全て……何故ならそれらは、『かの理』に比べれば些事に過ぎないからだ」
(駄目だ……説得を素直に聞くようなタイプじゃないよな、こいつ……)
具体的に言えば、宗教信者を相手にしているというよりも、彼らが崇める神々そのものを相手にしている……そんな感覚だ。
この場合の神とは概念そのものであり、足元の虫ケラ程度の言葉に耳を貸すことは有り得ない。
彼女を止める為には、説得や話し合いではなく、物理的な力で捩じ伏せるしか他に方法はないだろう。
だが……一体、どうやって?
「素晴らしい……実に素晴らしい力だ……ッ!!我々は今、人類史に類を見ない、前人未到の奇跡を目の当たりにしている……ッ!!」
(あの野郎……無駄にテンション高いんだよ……)
ある意味で流石は埃と言うべきか。
地面が真っ二つになって地盤沈下が起きても、平然とした表情でそいつの斜め後ろに現れたヴーズダットは、歓喜した様子で声を上げる。
「さぁ、我が黙示録に至る『Aを冠する者』よッ!今こそ、大陸樹ごとその鬱陶しい羽虫を殺せッ!未曾有の天災を象徴する力を持ってして、我らに歯向かう愚かな人間に圧倒的な絶望を思い知らせてやれッ!!」
黙示録……メグドーラ・レイ……今までに見たことも聞いたこともない名称だ。
ただ、彼らの互いの位置関係は、明示録を持つ自分達と似たようなモノ感じさせる。
召喚者とフィーネス……明示録と黙示録……まるでコインの裏表のようだ。
そこへ、後ろで歓喜する彼とは相反して静かに佇むメグドーラは、こちらの方だけ見てこう問い掛けてきた。
「例え空間の壁を用いようと、次の一撃で其は確実に死ぬ」
「……ッ!」
「故に、其に問おう。何故、そこに居る?何故、逃げない?虚勢を張り、恐怖を抑え、気を失う寸前だというのに……これ以上、何を堪える必要がある?」
(全部、見抜かれているし……ッ)
心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えて、思わず歯を噛み締める。
こうやって精一杯に嘘を重ねて、我慢を続けている状態において、アッサリと心情を見抜かれる程に辛いことはない。
圧倒的な力だけでなく、その洞察力も超一流、ということか。
「それとも、それをも些事とする『何か』が、其にはあると?まだ其は、圧倒的な戦力を見せ付けられて尚……是に勝つことを諦めていないのか?」
「…………」
例えば、これがゲームのラスボス戦だとして、その相手がどれだけ強大な存在であろうと、勝つことを諦める主人公が居るだろうか。
そう、諦める筈がないのだ。
何故なら、その物語の主人公にとって、ラスボスとは“倒さなければならない敵”なのだから。それはきっと、何がなんでも“勝たなければならない戦い”なのだから。
もし、それが当然の真実なのだとしたら、次に自分が、日陰舘雅人が口に出すべき言葉は────一つに決まっている。
「「────勝てなくても、いい」」
「あん、た……ッ!まだ、生きて……ッ!?」
自分が勝つ為に、命を懸けた訳じゃない。
自分が勝つ為に、無謀な戦いに身を投じた訳じゃない。
ただそこに、この世界の希望を……この世界の誰もが待ち望んで居る筈の願いを……自分の手で届けることさえ出来れば……。
────負けても、構いはしない。
「醒めよ────第二属性・〔■■〕」
「!?」
元々、最下級に値する〔奴隷〕の属性を持ったリノリス=トラントは、戦闘向きのフィーネスという訳ではない。
言うなればペットと同等であり、愛玩の為に生まれた脆弱な存在といったところだろう。
だがその反面……自分には、もう一つの属性が授けられていた。
〔第二属性〕。
それを解放した途端、全身から稲妻が迸る……いいや、“自身の身体そのものが迸っている”のを感じた。
誰にも認知できない光の速度で、〔英雄〕の反射速度すら飛び越えて……。
瞬時に────“澱の全域を駆け巡った”。
「なッ、に……ッ!?」
厳密に言えば、それは『攻撃』ではない。
ただ、澱という凝り固まった概念に、ほんの少しの『異変』を促しただけ。
例えるなら、心肺停止した人間に電気ショックを流し、心臓に『衝撃』を与えるような物だ。
身体を刀弓で貫かれ、消滅は目と鼻の先。
だが、その消滅までの、ほんのコンマ一秒の時間さえあれば、『衝撃』を行き渡らせるには充分だった。例え、この〔第二属性〕の解放が、残された全ての『潜質』を使い、身体の消滅を確実にするモノであったとしても。
そして────“届く”。
これまで澱の中に隠され、時空や次元を越えて、静かに眠り続けてきた……一人の『英雄』の元に。
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
────『英雄を実行する』……ヨウ、この言葉って、そもそもどういう意味で使っているんですか?
────おぉ?なになに、トア。マリドナの口調を真似た次は、あたしのことも真似してくれんの?いやぁ、なんだか照れますなぁ~。
────その気持ち、わたくしも分かります!若干の羞恥心もありますが、何より可愛い妹のことですもの。これ以上に喜ばしいことはありませんよね。
────あの、二人とも、あまりからかわないでくれませんか……?
────にひひっ、ごめんごめんっしょ。まぁ、うーん、そうだなぁ……『英雄』とは何だろうって考えた時、優れた才知や力の持ち主だったりとか、誰も成し遂げられないようなことを成し遂げてしまうみたいな、誰から見ても凄い人、ってイメージが強いっしょ?
────その点、ヨウは普段から気楽過ぎる気もしますけど。
────ふふっ、間違いありませんね。
────これでも結構考えているもんねっ!気楽に見えるのは表面だけだしっ!ま、まぁ、それは置いといて。つまり、英雄というのは人々にとって、“普通なら出来ないことをやってくれる存在”ってこと。己の理想や希望を、自分に代わって実現してくれる者。そんな自分勝手な妄想に過ぎない代物を、人々は英雄って呼ぶんだよ。
────何だか、途端に悲しくなってきました。
────ヨウっ!トアを苛めたらわたくしが怒りますよ!
────横暴だぁ!?話は最後まで聞くっしょ!確かに、英雄とは人の欲望が押し付けられた結果で生まれた、可哀想で哀れな存在なのかも知れないよ。だけどそこには紛れもない自分自身の、希望があって、夢があって、理想があるんだ。それをどうして、“他人に押し付ける必要がある”?
────あ……!そういう、ことですか……!
────そう!あたしたち人間は、妄想を抱く生き物だ!希望を、夢を、理想を描かずには居られない、自分勝手な存在だ!だけど、それを恥じる必要はない。誰に批判されようが、否定されようが、自分勝手に妄想を行動に移してやるべきなんだよ!それが、『英雄を実行する』ってこと!要は、“自分のやりたいことなら徹底的までやってやる”、という決意表明って訳っしょ!
────……ヨウの場合、もう少し欲を抑えた方が良いです。
────英雄剥奪の決断が下されましたよ。
────ちょっとさっきから二人ともさぁ!?一体あたしのアイデンティティーを何だと思ってんのかなぁっ!?
────でも……素敵です、とっても。
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
「…………トア……」
「……ヨ……ウ……?」
心暖まる夢の後、心なしか弱々しく感じる呼び声を聞いて、ふと目が覚める。
ゆっくりと目蓋を開いた視界の先には、疲労困憊した様子のヨウが立っていた。
こちらの様子に気付いて歩み寄ってきた彼女は、まるで赤子をあやす母親のように、その冷たくも優しい手つきで頬を撫でながらこう語り掛けてくる。
「大丈夫……無理して、起きる必要はないっしょ……また、眠ろう?ここでゆっくり夢を見ていよう?三人で一緒に過ごしていた、あの頃みたいにさ……だから、これからも、ずっと、永遠に……」
「……夢、ですか……確かに、暖かくて、優しくて……私にとってこの『澱』は、何よりも心安らぐ地だった気がします……」
「ト、ア……?」
きっとこの『澱』は、檻だったのだろう。
だけど、あの鉄と孤独の冷たさは一切感じさせない、我が家のような温もりと居心地の良さがあった。何故ならここは、『英雄』の概念が凝縮した空間であって、ヨウが自分の為に用意してくれたということは、何となく直感していたから。
だけど……だからこそ……。
「やっぱり私は────ここには居られない」
英雄として、誰かの助けになることも、苦痛を抱えることも……人間として、悩み考えることも、誰かに優しくすることも……全てが、自分の生き甲斐だ。
この『澱』では、それが出来ない。
そんなものは生きているとは言わない……死んでいるも同然ではないか。
だから、出なくてはならない────この、何よりも優しい檻の中から。
────ハッ、だったらさっさと出るぞ。それが、私の自分で選び望んだ道ならば、な?
目の前の鉄格子を掴むと、頭の中に何者かの声が流れ込んできた。
だが、今さら驚きやしない。
『概念』は、ずっと『良心』と共に居たのだから。どんな時でも、どんな場所でも、決して相容れることも無く、決して離れることも無かった。
だけど、今なら……よく分かる。
二つの意志が何よりも望んでいた形は、互いに突き放すことでもなく、共に寄り添うことでもない。
「えぇ、行きましょう。これから先、私たちの歩む道は、踏み出す足跡は────ただ、一つだけです」
そして、目の前に立ち塞がる鉄格子を力業で抉じ開ける。
すると、今まで焦点が合わずに多重にブレて見えていた自分の朧気な姿が、たった一つの鮮明な身体にまとまって、降臨した。
外見にさした違いは無かろうが、それこそ、『良心』でも、『概念』でもない、本来はそうで在るべきだった……トア=ラィド・イザベリングの本当の姿なのだろう。
久方ぶりに地面に足を付けた感触を噛み締め、目の前で立ち尽くすヨウの脇を通り抜けると……息も絶え絶えで倒れるリノリスの傍で膝を付いて、その小さくも勇敢な身体を抱き上げた。
「……ト、アさ……」
「リノ……もう少し、もう少しだけ頑張って下さい……あなたには、見守っていて欲しい。これから先の未来を、“最後まで”」
「……ん…………っ」
リノリスは小さく笑って、短く言葉を返すと、そのまま眠るように気を失ってしまった。
もしも、あとほんの少し早く、鈴木莉乃の正体が彼女だと気付いていたら……危うく、本気で手を下すところだっただろう。そんな危惧もあっただろうに、自らの危険も顧みず、ここまで必死になって救いの手を差し伸べてくれた彼女には感謝してもし切れない。
これまで、彼女から貰った沢山の恩を返す為にも、次はこちらから『行動』で指し示そう。
心に決めた本物の覚悟と、自らの進む方にある真実の未来を。
「トア」
「!」
背後から呼び掛けられて振り返ると、そこには何処か物寂しげな表情のヨウが立ち、こちらのことを真っ直ぐに見下ろしていた。
ただ、敵意が無いことだけは分かっていた為、リノリスを抱えて膝を付いたままヨウへと向き直り、静かに彼女の言葉を待つ。
「…………あんただけの『英雄』……見つけられた?」
「えぇ。これから先は、『それ』に従って生きていきます」
「……そっ、か……そう、なんだ……」
「だから……共に行きましょう、ヨウ。マリドナもきっと待っています。私たちが再び一つに集う、その時を」
ヨウに向けて手を差し出し、平和と幸せで溢れていた日々を思い出す。
楽しい時も、苦しい時も、辛い時も、彼女たちと共に過ごし、共に乗り越えてきた。
それは、かけがえのない、宝物だった。
失うなんて有り得ない、そう信じていた、宝石のような日々だった。
元に戻すのは、簡単なことじゃないかも知れない……だけど、きっと戻してみせる。だって、自分たち三人の中でそれを望まない人は、誰一人として居ないのだから。
こちらの呼び掛けに、ヨウは少しだけ驚いたように目を見張ると……ゆっくりと、手を伸ばしながら、歩み寄ってくる。
彼女と自分、二つの手が触れ合う距離にまで近付いた瞬間────。
「…………そうだね。だったら────これで、お別れだよ」
「え…………あ……っ!」
彼女の手は、自分の手と交差し……こちらの肩を軽く“突き飛ばした”。
それによりバランスを崩した自分は、リノリスを抱えながら後ろへ……いいや、『澱』の外へと落ちていく。
その中に、優しげな微笑みを浮かべるヨウを、たった一人だけ取り残したまま。
「フィーネスってのは本当に、一抹の夢だったよ。この『澱』には最初から肉体は無く、精神しか存在しなかった。だとしたら、『澱』の外へ出るのは……“あたしよりもあんたの方が相応しい”っしょ?」
「……ッ!!ヨ、ウ……ま、さか……ヨウ……ヨウ……ッ!!」
彼女の名前を呼びながら、どんどん離れていく彼女へ向かって必死に手を伸ばす。
自分と、ヨウと、澱……。
それらが取り巻くたった一つの『真実』を直感した瞬間……思わず、涙が溢れ落ちた。
(『卑怯者』……ベリュジードの言った通りだった……私、卑怯者だ……)
自分はヨウの手で、『生きた状態』のまま、澱に匿われていた。
だが、メグドーラの手で“殺されたという認識”だけは、本物だ。
もしもそれが────自分ではなかったとしたら?
あの時、メグドーラが振り下ろした最後の凶刃が、最後の最後に貫いたのは……いいや……。
自分のことを、身を挺して守ってくれたのは……。
ようやく、“思い出した”。
現世でヨウの姿を見た時、無性に恐ろしく感じたのは……本能的に、彼女の真実を思い出すのが怖かったからだ。
自分の無責任な言動を受けても、愛人であるタツミの目の前で嘘を付いてでも、ヨウは、自分という存在を匿い続けてくれていたのに……。
だが、最早その真実を否定した所で、悔やんだ所で、過ぎ去った過去は変えられない。
自分に出来ることは……現実を受け入れることだけだ。
歯を噛み締めて、伸ばした手を引き、少なくとも命を懸けて自分のことを守ってくれた、誇り高き親友へ……か細くも、最期の言葉を投げ掛ける。
────ありがとう、ごめんなさい、と。
「……ううん、今更そんな言葉は要らないっしょ。何処へ行ったとしても、何に成ったとしても……あたしは、トアのこと……ずっと、ずっとずっと、信じているから」
そして。
誰にも頼ることなく、この瞬間までずっと一人で戦い続け、受け皿として全てを支え続けた孤高の英雄……。
彼女が見せる穏やかな笑みを最期に────『澱』は閉じ、そこに在った概念は……安らかに消滅していく。
その命と覚悟と信念を犠牲に、小さくも確かな希望の灯火を残して。
あたしがあたしじゃなくなっても────大好きだよ、トア。




