1-12 ターニングポイント
この程度、大陸樹北部にある噴火寸前のイモルト山の火口で、『樹神教団』の副団長を相手に死闘を繰り広げた時に比べれば軽いモノである。
ただ、火災現場で一番人体に悪影響を及ぼすのは、火ではなく煙だ。
今は気休めにしかならないだろうが、ポケットに入っていた小さな手拭いで口と鼻を塞ぎ、火の迷宮と変わり果てた店内を迅速に探し回っていく。
「ケホッ、ケホッ……一階には、誰も居ない……二階……早く、行かないと……」
売店から奥へと入って廊下を進み、階段のある場所に到達すると、木造の階段は踊場ごと既に焼け落ちており、上へと昇る手段が無くなっていた。
そこで、二階の廊下を覗き見て、火の手が少ないことを目視で確認。
一呼吸置いてから、床板を蹴って飛翔……ひとっ跳びで二階にまで到達した。
二階は比較的被害の少ないが、相変わらず安堵出来るような状態ではない。
燃え盛る炎が行く手を阻み、立ち上がる煙が視界を遮る。こんな大の大人でも参ってしまいそうような状況下で、何の力もない人物が生き残っていたとしたら、それはもう奇跡としか言いようがないが……。
「……た……け、て……っ」
「……っ!」
今、微かに……何者かの、か細い声が何処から聞こえたような気がして、瞬間的に直感と集中力を研ぎ澄ませる。
方向は、右。場所は、一番奥。恐らくは、突き当たりの部屋。あの辺りにあるのは、この店の倉庫……。
後は、半ば反射的に駆ける。
倉庫の横開きの扉が半開きになっており、間違いなく誰かが中に入っている、ということを確信。
最早黒炭になりかけている扉を足で無理矢理押し開け、中に突入すると……倉庫の奥に、炎に取り囲まれて縮こまっている一人の少女が、涙で顔をぐちゃぐちゃにした顔を上げる。
「けほっ、お姉ちゃん……助けて、けほっ……熱い……熱いよぉ……っ」
「もう大丈夫、掴まって下さい……!今、外に……!」
炎の間を避けながら少女に寄り添い、彼女の傍で屈んでその小さな肩に手を置く。
相当怯えている様子で小刻みに震える彼女は、すがるようにこちらの身体にしがみついてきた。
これで、目的は半分達した。
後は少女を連れて外へ逃げ出すことが出来れば、それで万事解決だ。
少女の身体を抱き寄せて、その場で立ち上がろうとした、次の瞬間……。
「うぁっ!?」
突如、まるで背中を斬り付けられたかのように、鋭い痛みと熱が走った。
何が起こったのか瞬時に判断できず、少女の身体をぎゅっと抱き締めながら、フラついた足取りで後ろを振り返る。
そこには────これまで、ただの一度も見たことがない、異常現象が巻き起こっていた。
「え……火、が……!?」
比喩表現とか、そんな想像上の話ではない。
まるで、お伽噺が、そのまま現実世界と成ったかのように。
目の前で燃え盛る炎が────人の形を成し、不気味に笑いながら、歓喜するように踊っていたのだ。
『────エヘッ、エヘヘッ』
その手には、紐状の形をした炎の鞭が握られており、それが床や天井を打ち付ける度に激しく火花を散らす。
恐らくはあれが、自分の背中を打ち付けたのだろうが……ふと痛みの残る背中を手で探ってみても、斬り傷や火傷どころか、衣類の損傷もない。
一体、この不可解な物体に“何をされたのか”……それすら理解することが出来なかった。
「く……っ……ケホッ、ごほっ、ごほ……っ!なに、急に……胸、が……げほっ!げほっ!」
ここで、忽然と最悪の事態が訪れる。
まさか、こんな状況下で限界に達してしまったのだろうか。
途端に咳が激しくなり、まるで肺の中で何かが暴れているかのように、胸元辺りが急激に苦しくなってきた。
視界が一気に霞み、意識が朦朧とする。
身体を起こしていることすら辛くなり、その場で膝が落ちると……遂には、立ち上がる気力すら失せてしまった。
(マ、ズイ……これ、は……絶対に、マズイ……ッ!!)
炎が燃え盛る倉庫の中、得体の知れない異形の目の前で、こんな無防備な姿を晒してしまっては……自分から、殺してくれ、と言っているのも同然だ。
思い切り目を瞑り、歯を食い縛り、残る体力を駆使して、全身全霊で立ち上がろうと尽力する。
だが。
炎の化身は、一切の躊躇も見せはしなかった。
「お姉、ちゃ……っ!!」
「……ッ!?」
少女の甲高い悲鳴が耳元で響いたと思ったら────既に、炎の化身は腕を振り上げて、襲い掛かっていた。
途端に身体の奥から込み上げてきた苦痛と、全身を包み込む不快感を抱えながら、もう一度あの一撃を喰らうのは……絶対にマズイ。
一度意識を失ったら、二度と脱出することは叶わない。
だが、この身体を動かすことすらままならない状態では……。
今、自分に残されているのは最早────絶命への道、ただ一つだった。
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もう、頭の中で思考している暇は、一秒たりとも残されてはいなかった。
重要なのは、今、この瞬間。
トアが火事に巻き込まれて消息不明に陥るか、もしくは奇跡的に生還するか……どちらに転ぶかによって、大陸樹の命運が決定される。
全ての事象が過去の出来事通りに流れようとする再現世界では、最終的な滅亡の運命は変えられないというが……だが、だが、せめてこのターニングポイントさえ覆してしまえば、何かが変わるかも分からないではないか。
死力を振り絞るのは、今だ。
例え、万全の力が発揮出来なくとも、例え、相手の方が格上の力を持っていたとしても────やるしか、ない。
『エヘッ?』
問題となる火災現場の真ん中。
人の形を取った炎の化身の背後に、右手の拳を引き絞って立つ。
その両足、左腕には、それぞれ矢が突き立てられており、本来ならば動かすこともままならない。
文字通り、満身創痍。
だからこれは、再現世界と、トアと、主様が向かう未来へ、この半身が懸けた、最後の一撃。
「────さッ、せッ、るッ、かァァッ!!」
《潜質放出》。
半身に残されたエネルギーを最後の一滴まで絞り出し、右手の拳に全ての力と、想いと、覚悟を乗せて……。
────炎の背中を、殴り貫く。
一瞬だけ、その拳から迸る稲妻が収束し、一つの巨大な光線となると。
炎の化身を丸々呑み込み、店の屋根を瓦礫ごと勢いよく吹き飛ばし……光の速さで空の彼方へ飛んでいったのだった。
「はッ、はッ……危、なかった……ッ」
残されたのは、未だ燃え上がる炎を除けば、静寂。
だが、脅威が過ぎ去った今ならば、少し耳障りな背景音楽程度にしか感じられない。
何にせよ、これでターニングポイントは乗り越えた。後は、トアの脱出を手助けして、外へ出るまでを見届ければ……。
「────はーい、そこまでっしょ」
「ッ!?」
あまりにも速い来襲。
耳元で囁きかけるのは陽気な声色。
普通に走っては決して追い付ける筈がない速度で振り撒いて来たのに……もう、追い付かれた。
ヨウ=イルアウマーが発する凄まじいまで存在感に気圧され、慌てて振り返ろうとしたところで────ようやく、自身の手足が動かなくなっていることに気付く。
「きゃっ、ん、ぐぅっ!?」
周りで燃え盛る炎が縄のような形を成し、次々と身体に巻き付いて拘束していく。
それどころか、残された体力は先程の一撃で全て使い果たしてしまった為……もう、抵抗が出来ない。
後は、ただ成すがまま。
身体を縛り付ける炎の縄に凄まじい力で引っ張られ、その場で跪かされると……。
「健闘したとは思うよ?だけど、支配権の加護もない状態じゃあ、ここらが限界ってところっしょ」
「ん、ゥぅッ!?」
背中から、数回。
間髪入れずに、強烈な衝撃が突き刺さる。
ヨウが放った正確無比な矢の応酬は、半身体の命に────紛れもなく、トドメを刺した。
最早膝立ちですら上体を保ってられず……薄れていく意識と共に、この朧気な身体を火葬するかのように、炎の中へと沈める。
「リノリス=トラント。〔英雄〕を相手にここまで食い下がった者の名前、覚えておいてあげる。多分、もう二度と会うことはないだろうけれどね」
「……ッ……ッ……」
信じたくなかった。
しかし、背後から投げ掛けられる残酷な言葉は、敗北の事実を突き付けていた。
目の前で小さな女の子を抱き締め、唖然とした表情を浮かべるトアの方へどれだけ手を伸ばしても……もう、届くことはない。
残されたのは、嘆きと嗚咽だけ。
(どうして……リノは、いつも、いつも……ッ)
そして、ターニングポイントを目の前にしながら……何よりも守るべき主を残して……リノリス=トラントの全身が、光の塵に包まれると。
────炎の中で朽ちるように、無惨に消滅するのだった。
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本当に厄介な獣だった……倒してから改めて思い返すと、つくづくそう感じる。
埃の支配下にある世界で力を抑制されている上に、本体から切り離した半身体であるにも関わらず……ターニングポイント一歩手前まで、食らい付いてきた。
願わくば、もう二度と事を交えたくはない。
特に、こうやって互いに何かを取り合う争奪戦において、ああいう精神力が突出しているタイプが相手では一番やり辛い。
だが、それもようやく終わった。
後は自分達の土俵で、じっくりと滅亡(その時)を待つだけだ。
「トア。折角助けて貰った所に横槍を入れちゃって悪いけれど……ここは大人しく眠っていてよ。大丈夫、直ぐにまた、夢の中へ帰れるから」
その為に、トアには一度眠って貰わねばならない。
リノリスが消滅したのを目の当たりにして、少女を抱くことすら忘れて硬直する彼女を見ながら……彼女の脳天を狙って、刀弓の弦を引き絞り……そして、放つ。
「────お休み、トア」
油断も、遠慮もない、稲妻さえ捉えた射撃は、真っ直ぐにトアへと飛来。
その間、コンマ一秒にすら満たない、超高速射撃が……彼女ですら認識出来ないまま、その脳天を貫いて……。
「…………誰ガ、こんなことヲ……?」
「!?」
だが。
一度、バシンッ、と何かを叩くような音が響くと……こちらが放った矢は、トアの手に掴み取られていた。
驚くのも束の間、彼女は傍らの少女にも目をくれずにフラついた動作で立ち上がり、ギョロリと血走った瞳を動かすと……。
「私ハ、『英雄』……“誰ノ為”ノ……?“誰ノ為”ノ、『英雄』、二……オ、ォ……オ、オ、オ……オ、ォォォォォ、オオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
恐ろしい雄叫びを上げながら、迫る。
そこまで認識していた時には……既に、その強烈な拳が、的確に鳩尾へと、抉るように叩き込まれていた。
「ぐッ、ぅぅァァァッ!?」
激痛と吐き気と眩暈が、目まぐるしく一斉に襲い掛かった。
頭の中にあった意識が一瞬で吹き飛びそうになるものの、辛うじて、辛うじて堪え切り、霞む視界の中で、何とか目の前のトアに捉えようとする。
その一撃を、マトモに喰らって直感した。
彼女は本気で、一切の躊躇もなく────こちらを殺しに来ている、と。
「────コッ、ろッ、スッ」
「ちょっと、待って……嘘、っしょ……?その段階に入るのは、幾らなんでも、“展開が速過ぎる”……っ!!」
あの獣……最後の最後で厄介なモノを残していきやがった。
現世でトアと彼女が培った友情……それが目の前で断たれたことによる、感情の暴走……冷静に考えれば幾らでも対策のしようがあった、ミスリードだ。
完全に、仕損じた。
好機を得るのを急かし過ぎた。
今は、今だけは、何があっても殺される訳にはいかないのに。
「ウッ、ルッ、ルゥ、オォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!」
だが、そんな切なる願いも構わず、トアは再び大地をも揺るがす雄叫びを上げながら、その手に赤く歪な剣を顕現させると、即座に駆け出した。
このままでは、確実に殺られる。
先程の喰らった衝撃の反動で身動きが取れず、歯を食い縛りながら、突き出される赤い切っ先を睨むと……。
「……え?」
それこそ、一瞬の出来事だった。
まるで、その行く手を阻むように、一つの人影が間に割って入る。
無慈悲な赤い切っ先は、その人影の身体を貫き……痛々しいまでの赤い鮮血が、辺りへと飛び散った。
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何故自らを犠牲にしてまでトアの立ち塞がったのか……“そうするしかなかった”、からだ。
ここで万が一、彼女がヨウを殺すような事態が起こってしまったら……状況は、更に混沌を極めることになる。
そうなったらいよいよ、救済どころの話ではなくなってしまうからだ。
「うッ……ぐ、ぐ……ッ……えほッ、ぉ、ぉ……ッ」
何処が痛いのかすら分からない激痛が脈打つ度に、腹の奥から血反吐が吐き出される。
視界が霞み、意識が朦朧とする中で……目の前に立つトアが歯を小刻みに噛み鳴らしながら、微かに声を漏らしていた。
「ガチッ、ガチッ……ア、ァッ……マサ、ト、サ……ナン、デ……ッ?」
「言ったッ、筈だ……逃がしはッ、しない、と……お前が、どんな姿になろうとも、だ……っ」
「……ッ!!」
幾ら口で強がろうとも、この一撃は限りなく致命傷に近い。
油断をすれば即座に絶命しそうな感覚を、命懸けで堪えながら、何とかして床を踏み締めるが……背後に立つ『敵』は、気遣いの欠片すら見せなかった。
「完っ全に、見誤っていたっしょ……」
「……!」
焦りの色を見せ始めたヨウ=イルアウマーが振り上げるのは、刀弓。
当然、それを避けるだけの気力も残っていないし、防ぐだけの術も持っていない。
だから、後は────流れに、任せるしかなった。
「……あんただけは駄目だ、日陰舘雅人……今すぐに、この場で消さないと……ッ!!」
「────収めなさい、ヨウ」
「!?」
燃え盛る火災の中、しっかりと床を踏み締める音が聞こえてくると共に……不思議な存在感を覚えさせる声が、ヨウの動きを拘束した。
目に見えない不可思議な力で、刀弓を振り上げた体勢で停止したヨウは、顔を強張らせながら……三人目の乱入者へと、吼える。
「ぐっ!?く、くぅっ……!!これ、はっ……まさか……っ!何故ッ、何故だッ、何故あんたがッ────『マリドナ』ァァァ……ッ!」
威厳と品格を重んずる佇まい。
心に直接語りかける重厚な口調。
辺りで燃え盛る炎と同化するような赤いロングヘアを棚引かせ、荘厳な装飾が成された赤いマント自らの身体に羽織り、まるで炎を纏っているかのような神秘的な雰囲気を漂わせる女性の名は……。
バラード王家次期王女────マリドナ=バラード・ケブラ。
彼女は緩やかな足取りで、停止するヨウの脇をすり抜けると、小さくも力強い口調でこう言い放つ。
「とある亡霊様に助けられて、わたくしも覚悟を決めました。今まで、何も出来なかった分……せめてわたくしも、自らの意志で『運命』と戦ってみせよう、と」
しかしながら、ヨウも譲る様子は一切見せはしない。
停止させられた身体に力を込め、拘束する力を無理矢理引き千切ろうとする。
「ざっけんなッ……この、程度ッ……なッ、めッ、るッ、なァァァァッ!!」
「……っ!『果々』の制御をもってしても完全に動きを封じられないとは……相変わらず、あなたは秀才ですね、ヨウ……ですが、今は、それで充分……ッ」
ヨウが力から脱出しようと尽力する最中、マリドナは自分とトアの間に立ち、優しい手つきで自分たちを抱き寄せる。
腹を貫かれているにも関わらず、妙な安心感すら感じさせる温もりの中、正気を取り戻しつつあるトアが、震えながら彼女の名前を呼んだ。
「マリ……ドナ……」
「トア、あなたには謝らなければならないことが沢山あります……でも、もう時間が無い。最後の最後まで自分勝手なことしか出来ないわたくしを、許して下さい……」
「……っ」
「そして、彼方なる地からの異邦人よ。遅れてやって来ておいて、こんなことを願う立場ではないことは周知の上。ですが、どうか、この大陸樹の最後の希望……わたくしたちの親友であり、何より大切な妹を……トア=ラィド・イザベリングを……どうか、宜しくお願い致します」
今、マリドナの願いに答えられるだけの気力は、微塵にも持ち合わせていない。
だが、トアを思いやる純粋な言葉に応えるように、「分かった」と、小さくも、しっかりと頷いて見せる。
それを見た彼女は、満足げな表情で微笑むと……一度大きく呼吸をしてから、『それ』を唱え始めた。
「ふぅ────其の身は扉、其の言葉は鍵、かの地に至る無二の術と成りて、かの地へと導く標と成らん……」
「お、い……何を、するつもりだッ……辞めろ、これ以上、余計なことをするなッ……辞めろォッ!!」
途端、拘束から脱却したヨウが、声を荒げながら手を伸ばす。
しかし、それが届くよりも前に、自分とトアの身体は目映い光に包まれ……。
「我が名は────《大陸樹承継者第二説(マリドナ=バラード・ケブラ)》。大陸樹の守護者よ、我が鍵名に応じ、この者たちをかの地へ誘え!!」
光の速度で消失、そして昇華。
この世界より脱却して、更なる高次元へと。
二つの身体が向かうは、人の干渉を決して許さぬ『外域』に属する地。
大陸樹を支配、管理する、至高の存在────『世界意思』の御膝元だ。




