1-9 二度目の邂逅
大陸樹と英雄の物語、その折り返し地点です。
二日後……果暦216年、華期36週目。
それはエルミナノーグの……いいや、大陸樹にとっての運命の日となるだろう。
王家の権威が失墜してより早二十年……沢山の人々の協力と、大切な仲間たちの支えもあって、ようやく、ようやく、ここまで漕ぎ着けた。
その長く苦しい戦いの日々が報われる時が、遂に、目の前にまでやって来たのだ。
だが、突如として訪れた来訪者の出現により、手を伸ばせば掴める筈のビジョンが……。
────“『埃』で染まり始める”。
「あなた様は……ッ!!ど、どうして……!?」
関係者しか知らない隠れ家で静かに過ごしていた一人の女性が、思わず椅子を倒してしまいながらも、驚愕した様子で声を上げる。
その視線の先に立つ青年は、一度首を傾げてから、こんなことを口にした。
「……あぁ、なるほど。一瞬、あまりに不可解だったものだから、思わず首を傾げてしまったけれど……そうだ、そうだったね。『マリドナ』。君にとっては────僕が目の前に現れるのは、“有り得ない”んだったっけね」
「なに、を……何を、言っているのですか……?あなた様は、本当に……わたくしの知っている、『彼』なのですか……?」
「ゴメンね、答えている暇はないんだ。少々予定外のことが起こってしまってね……悪いけれど────君には今しばらく、眠っていて貰うよ」
「……ッ!?」
彼が不敵な笑みを浮かべた瞬間、視界が灰色の嵐で染まり……意識が埃の中へ呑み込まれる。
最後に辛うじて鼓膜が捉えたのは、彼が口にする残酷な『真実』だった。
「君には特別だ。その中で一人、ゆっくりと思い出すと良いよ────この大陸樹には最早、未来なんて無いことをね」
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タイムスリップ、もしくは世界間で生じた不可思議な力が何らかの影響を及ぼしたか……現時点で、真実は定かではない。
ROCSも手元には無く、現状について確かめる術も残っていない。
ただ、今自分は……。
とうの昔に滅亡の結末を迎え、『明示録』の中で記録としてしか残っていない筈の世界の大地で、足を踏み締めている。
大陸樹の中枢として情勢の流れが集中する大都市、『エルミナノーグ』。
産業、工業、商業、様々な事業が幅広く展開されており、大陸樹にある幾つかの都市の中でも、最も繁栄を極めているとも言われている。
それらを統制するのが、『バラード王家』と呼ばれる由緒正しい一族の末裔だった。
しかし、二十年前に忽然と国王が失踪して以来、統治者が存在しない大都市は混迷に陥っている。事業の有力者たちが大規模な派閥争いを繰り広げ、市民を巻き込んだ大暴動を各地で起こし続けている……というのがこの都市の現状らしい。
今やそこは、権力という名の武器を手に、各々が勝手気ままに力を誇示する『無法地帯』となっていた。
都市を纏う空気や風情も、人々の価値観も、元いた世界とは大きく異なる、既に滅亡した筈の異世界。後に明示録の中で『フィーネス』と認知されることになるトア=ラィド・イザベリングも、今まで接してきた彼女とは明らかに物腰が違っていた。
自分がこの都市について何も知らないことを聞いた彼女が案内役を引き受けて、二人並んで大通りを歩いていたのだが……。
「あの、マサトさん。私たち、何処かでお会いしたことありましたっけ?」
「……気のせい、だろう」
「そう、ですか……そうですよね。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」
さん付けに、ごめんなさい、と来てしまっては……あまりのらしくなさに、調子が狂ってしまう。
『英雄』の名を関する程の人物だと言うのならばいつも通りに、清々しました、という位の潔い言葉で吐き捨てて欲しいものである。
フィーネスとしての彼女も時折人間らしい一面を見せることはあったが、今の彼女は、それと対極的だ。まるで物静かな委員長みたいな雰囲気ばかりが目立ち、あの〔英雄〕としての、凛々しくも威厳ある側面は微塵にも感じられなかった。
いや、もしかすると。
今、目の前にいるこの少女こそが、トアの本当の姿なのかも分からないが。
「ところで、さっきから何だか周りが煙たくないか?こう、埃が舞っているというか……それに、妙に空気が張り詰めているような……」
「埃?えっと、私は全然感じませんが……空気が張り詰めているというのは、きっと、その通りだと思います」
「ん?」
ふと視線に気付いて通りの端に目を向けると、地べたにあぐらをかいて座った若者が、険しい目付きでこちらを睨んでいる。彼だけではなく、老若男女区別なく、様々な人々たちが、とにかく無差別に、すれ違う他人に向けて鋭い敵意を向けているのだ。
特定の誰か、という訳ではなく……自分以外の誰かが恨めしいといった、そこはかとなく理不尽な感情を際限なく剥き出しにしているように見えた。
「周知の通り、バラード王家の権威が失われてから二十年余り……エルミナノーグは統治者のいない無法地帯に変わり果てています。悪意を振り撒く者たち……そして、彼らに翻弄され、憎悪と怨念を抱く市民たち。その在り方がまるで呪いのように都市全体に広がって……残っているのは、人の心を覆い尽くす疑心暗鬼だけ、と言うべきでしょうか」
(なるほどな……だけど、俺がこんな空気感の中に放り込まれたら、息苦しくて自殺しちゃうかも……)
トアが俯き加減で少し哀しそうに語る姿が、その深刻さを物語っている。
確かに、あんな険しい顔をした連中に声を掛けては、唐突に逆ギレされて暴行を受けるビジョンしか見えてこない。
それが一人だけでなく、町行く全ての人々が同様だ。
最早彼らにとっての他人とは、敵対者にしか見えていないのかも知れない。
「ですが、それももう少しで終わる筈です」
「何故、そんなことが言い切れる?」
「二日後にこの都市にて執り行れる『戴冠式』で、バラード王権が正式に再建する手筈になっているんです。これまで私達はそれを実現させる為に、コツコツと準備を積み重ねて来ました。全ては、この都市を始めとした大陸全土に平和を取り戻す為に」
「『戴冠式』……?」
明示録に記載される異世界は、既に滅亡の道を辿っている。
その中で大陸樹に関する記述は……。
『戴冠式』の前日を最後に途切れていた。
今までも明示録を閲覧する中で、明らかに記述が欠けている箇所は数多く存在していた上に、それを修復することは出来ないと聞いていた。
明示録とは、いつから存在しているのかすら明確にされていない古い文献である為、当初は納得して深く考えることはなかったが……実は、それ以上に単純な話だったのかも知れない。
つまり、この大陸樹と呼ばれる異世界が滅亡してしまう最大の要因は────『戴冠式』の当日に隠されているのではないだろうか。
だとしたら……もう、時間が無い。
「その『戴冠式』のこと、もう少し詳しく聞かせ……」
そこへ、こちらの話を遮るように。
忽然と、遠くの方から爆発音と悲鳴が響き渡ってきた。
それの聞こえてきた方向へといち早く視線を向けた彼女は、心苦しそうな表情で口をつぐんでからこちらへと小さく頭を下げる。
「……っ!また、暴徒が……マサトさん。都市の案内を引き受けたのに、ごめんなさい。私、行かないと」
「ちょっ、おい、トア……っ!?」
制止の声も聞かずに、トアは背を向けてから地面を蹴って飛翔。
ひとっ跳びで二階建ての建物を跳び越えると、屋根を伝って瞬く間に視界の彼方へと走り去ってしまった。
相変わらずの超人染みた身体能力というべきか……それは、大陸樹の住人として生きていた時から健在だったようだ。
どちらにせよ、ここで彼女と離別しては、肝心の戴冠式の謎を解くことも出来なくなってしまう。
せめてROCSの機能が使えれば、離元空間を利用して後を追うことは出来るのだが……それを持っていない以上は、自分の足で追うしか方法はないだろう。
(くそ……っ!あのディアとかいう奴……許さないぞ、色々な意味で……!)
運動が別段得意な訳ではないのだが……。
この不可思議な現象を引き起こしたと思われる元凶へと悪態をつきながら、とにかく爆発音の聞こえてきた方向へと走り出すのだった。
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不思議な人……そうとしか、表現する言葉が見つからなかった。
話していて、秀でて楽しいとか、嬉しいとか、そんな特別な感情がある訳ではないのに……。
初めて顔を合わせた時から、何となく“目が離せない”。
自分でもよく分からず、何故か心の中でこの人から離れてはならないと、直感が叫んでいるかのようだった。
いいや、違う……今の自分は、そんなことを考えている暇はない筈だ。
自分には、役割がある。ほんの一時の感情なんかに左右されている暇はない。きっと後になってから、「やっぱりもっと話しておけば良かった」、と後悔することになるのは目に見えているが……それでも、今はとにかく『こちら』の方を優先しなければ。
「あそこだ……っ」
そこは、貴族街と平民街を隔てる通りの真ん中。
階級の高さを証明する上等な衣類を身に付けた三人の貴族を、十数人の平民たちが各々で武器を手にし、彼らを取り囲んで襲っている。
平民の貴族に対する不満は、バラード王家が都市を統治していた時代……階級の格差があった当時から募っていたという。
貴族による理不尽な圧政、生活水準の格差も然り。
王家の損失をきっかけに階級の格差も自然の流れで崩壊していき、結果的には身分の違いという認識は、良くも悪くも消え去っていった。
だが、それを元に戻そうと働き掛ける貴族派の存在と、貴族派の完全撤廃を目指す平民派の声は、二十年経った今も収まる気配はない。むしろ、日に日に強くなっているのを感じる。
それこそ、両極派で大々的で血みどろな殺し合いが展開されてしまいそうな位に。
そういった動きを、自分たちは幾度となく食い止めてきたが……それでも、表面上は一向に改善することはなかった。
「そこまでですっ!」
貴族派と平民派の間に大袈裟に地響きを立てて降り立ちは、今にも武器を振り下ろそうとした平民派の前に立ち塞がる。
手のひらを彼らの前に掲げ、制止の声を挙げるが……。
「おぉっ!皆、喜べ!トア=ラィドが助けに来てくれたぞ!この都市を守る『英雄』が加われば百人力だぁッ!」
「……よく聞いて下さい。私は、あなたたちを手助けに来た訳ではありません、この暴動を止めに来ました。これ以上、皆さんが互いに傷付け合う必要はないんです」
「さぁ、やってやれッ!傲慢で卑しい貴族連中を根絶やしにしてやってくれっ!」
『英雄』の到来に歓喜の声を上げる平民たちへ、必死に誤解を解こうと試みる。
だが、そんなことをしていると、次は背後に立つ貴族たちまでもが同じ様な反応を口にし始めた。
「おぉ、トア=ラィド、トア=ラィドか……っ!!我らの勇敢なる『英雄』が、我らを助けに来てくれたぞっ!」
「だから、違います!お願いですから、私の話を聞いて下さい!」
「はははっ!やってしまえっ!その下衆で野蛮な平民共に力の差を思い知らせてやるのだぁっ!!」
今までに、平民も、貴族も、身分を隔てなく平等に、沢山の人々を庇って立ち、沢山の危険から救ってきた。
誰にでも平等に接していれば、きっと、身分に左右されることなく、皆が同じ様に笑い合える日がやって来る……そう信じて、自分達はその架け橋になってみせると誓った。
だが、その結果がこれだ。
「まさか、貴族派に寝返るとでも言うのか?お前らは、俺たちの味方だと思っていたのに……」
「今更、平民派に与するのか!?我らを裏切って、貴族の偉大な血筋を無下にするつもりか!?」
どちらの派閥も、トア=ラィド・イザベリングを始めとした、その仲間たちを『英雄』に見立てた上で……“新たな火種を呼び起こす為の起爆剤”として利用するようになってしまっていた。
それはきっと、“助けを求めれば駆け付けてくれる”、『ヒーロー』のような存在ではない。
“自分たちの主張を強調してくれる”、都合の良い『偶像』に過ぎなかった。
「……違います……どちらの為とかじゃなくて、“人の為”の英雄にも成る……それを証明する為に、私たちは戦っているんです……っ!」
思い切り歯を食い縛り、拳を握り締めて……まるで喉の奥に手を突っ込んで摘まみ出すようにして、苦渋の言葉を口にする。
すると、目の前に立つ平民派が手にした武器を振り上げ、後ろの貴族派がこちらの身体を盾にして、互いに鬼の形相で大声を張り上げた。
「うるせぇ、この裏切り者がよォォッ!!」
「おいっ!!何をしているっ!?早くそいつ殺せっ!!殺してしまえェェッ!!」
神とか、仙人とか、そんな優れた存在になったつもりはない。
ただ、寄り添って、声を掛けて、手を差し出して、全てを平等に救い出したかった。
それなのに、求められることが……“人の為”に戦うことが……誰が『英雄』になることが……こんなにも苦しいことだったなんて、考えもしなかった。
だから次第に、こんなことまで思ってしまうのだ。
(私……何で、“人の為”の『英雄』になろうとしたんだっけ……)
正しかったのか、間違っていたのか……最早自分で答えを出すことが出来ない。
だからせめて、形だけでも大きな変革となるであろう『戴冠式』に、希望を託すしかない。
今やそれ以外に、自分の存在意義を見出だす方法はないのだから。
それなのに、もう目の前にまで迫った答えを手にする前に、心が、希望が、信念が、足元から崩れ落ちてしまいそうで……。
だから……だけど……それでも……今更……もう、“どうにもならない”ではないか。
「────どいつもこいつも、勝手なことを言うなよ?」
「え?」
まるで自分に言われたような言葉に、思わず顔を上げると……そこには、出会って間もない人物の背中があった。
若者らしい声色の中に、幾度の修羅場を乗り越えたような若干の貫禄ささえ感じる、弱々しくも頑なな気迫……それを前にした平民も、貴族も、一斉に言葉を失って後退りを始める。
「……マサト、さん……?」
次に感じたのは、今まで抱いたことがない感情だった。
それが何を現しているのかは分からなかったが……抽象的に言えば、こう、胸元辺りが絞められるような違和感と、それでいて身体を包み込んでくれるような温かさ。
言葉で言い表すことが出来ない言葉を胸に、ふとその横顔を見上げると……彼は少し辛そうに呼吸をしながら、周りの人々を威圧していた。
「はっ……ッ……群れになって一人の弱者を責め立てて……お前たちはそれで恥ずかしくないのか?」
「お、お前が何者かは知らないが、彼女のことを弱者呼ばわりするなっ!彼女は、俺たち平民の『英雄』なんだ!」
「偉そうなことを言うな平民風情がッ!トア=ラィドは我ら貴族の『英雄』!善良な市民として、この地を守る英雄に頼ることの何が悪い!?」
彼らは、本心から『英雄』にすがっている。
他者を頼りにすること自体は悪ではない。人は支え合う生き物だ。他人を頼り、頼られ、共存しなければ生きていくことは出来ないのだから。
この混沌とした世界の中で、英雄と彼らの関係性はそれが正常だった。
英雄とは、救い手、助ける者、拓く者……その役割を担い、人々を引っ張っていく。
何も問題はない。
自分が『良心』を捨て、『英雄』という概念に生きれば……それで良いのだから。
「ふッ……ッ……────下らないって言っているだろう。その『善良な市民』とやらも、『英雄』という肩書きも」
「は……?」
だが、彼はそれを否定した。
多数の人々を前に、少数派の……いいや、単数派の意見を堂々と口にする。
「立場に守られていないと、偉そうなことも言えないか?立場を守っていないと、やりたいことも出来ないか?そうやって、弁えて、考えて、ようやく振り絞って出した希薄な言葉が……はぁッ……はぁッ……“本物の自分の言葉”だと、『お前』は自信を持って言えるのか?」
「……ッ!!」
気付けば、彼の視線はこちらへと向けられていた。
彼は、周りに居た平民派と貴族派を諭していたのではなく……最初から、こちらに語り掛けていたのだ。
『英雄』として、懸命に自分の立場を守ろうとしていた、自分に向けて。
「それを利用して相手を陥れようするような輩は、最早手の施しようもないクズ同然だが……“お前は違う”筈だ。俺の知っている〔英雄(お前)〕は、そこから一歩踏み出して、命懸けで戦おうする……本当に、眩しいくらいの強さに満ち溢れた奴だった……ッ……ッ……」
「…………」
彼とは、初対面の筈だった。
だから彼の口から、自分のことを語られる道理はない。勝手な言葉をぶつけられて怒ることも出来たが……どういう訳か彼の言葉は、自分の心を叩いた。
響く筈もない言葉が、現在の自分を内側から叩き壊そうと、何度も、何度も、心を打ち付ける。
苦しい……痛い……だけど、何故────こんなにも、清々しい気分にさせてくれるのだろう。
「だからてめぇはさっきから何を上から目線で物を語ってんだクソガキがッ!!」
「悪いが、最初からお前たちは眼中に無い」
「よぉしっ!!オイお前らッ!!まずはこいつから袋叩きにしちまえっ!!」
丸腰のマサトを相手に、激情に駆られた平民派が中心となって襲い掛かろうとした。
だが────その行方を自ら遮り、立ち塞がる。
平民派の人々を背中にして、少なくとも自分に説得を試みてくれた奇妙な人物を前にして、敢えてその人と対峙するように。
「下がってください」
そう言うと、平民派の人々は足を止め、驚いたようにざわめきを見せてから、ゆっくりと後ろに下がる。
対してマサトは、不思議そうな表情を浮かべて小さく傾げていた。
「……?」
「それがオカシイと思ったとしても、どれだけの疑問を持っていたとしても……私は、“彼らの為”の『英雄』。私の前で、彼らを、否定するの、ならば……」
やはり、駄目なのだ。
この生き方を、自分自身で否定することは出来ない。トア=ラィド・イザベリングは、大陸樹の『英雄』であり、そこで住み暮らす“人の為”の『英雄』。
これが、自分の存在意義なのだ。
それを否定しては、生きていけない。
そういう楔が、自分の中には存在しているから。
自分の力だけでは、その楔を抜き放つことは出来ないと、散々に思い知らされているから。
「────殺しますよ、あなたを」
今は……せめて今だけは、甘えよう。
自ら率先して、“敵役を引き受けてくれた”彼に敬意を称して、この手にする剣の切っ先を、彼の元へと向けよう。
いつの日か、そこから脱却出来ることを祈って……。
腰に携えられた剣を鞘から抜き放ち、彼の目と鼻の先に突き付ける。
その、直後のことだった。
「え」
マサトが少しだけ微笑んだと思ったら、突如、上体がフラつきだし……。
────前のめりに倒れ掛ける。
彼の異変に気付き、慌てて剣を放り出しながらその身体を抱く上げるように支えた時、彼は既に意識を失っていた。
胸の鼓動も、呼吸も、弱々しい。
もうかなり消耗している。
立っていたのもやっとだった、という感じだ。
「マサトさん……っ……なんで……マサトさん……っ!?」
結局、その呼び掛けに彼は答えることはなく……唖然と立ち尽くす市民派と貴族派の輪の中心で、彼の名前を呼ぶ声だけが虚しく響き渡るのだった。
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運命とは、必然である。
人からすれば認知出来ない不確定要素といえど、人は紛れもなく『運命』と呼ばれるレールの上を歩かされている。ただ、大概の人間は運命の存在を認知しないまま、その生涯を終えるものだ。
だが、あくまでそれが“普通”である。
そもそも、『世界意志』に確定された運命の正体を認知したところで、どうにもならない。
もし、かの者の意に反し、運命に逆らおうとするものなら────死すよりも凄惨な、大罪の烙印を刻まれる羽目になるだろう。
「お姉ちゃん……いや、もう片方の方だね。どうしたの?何か用?」
だだっ広い草原の真ん中に、たった一本だけそびえ立っている細木の下で、一人の少女が後ろで手を組みながら虚空へと問い掛ける。
それに答えるように一陣の風がその小さな身体を吹き抜けると、少女は微笑みつつ目を瞑った。
「くすっ……“そんな身体”になってまで、健気だね。でもどうせ、無駄な足掻き。所詮は人間の浅知恵。どんな努力をしようとも、『世界意志』からは逃げられはしないのに」
言霊とも呼ぶべき少女の言い分には、神々の言葉に匹敵する絶対的な正当性があった。
どんな事柄においても、彼女が正しいと言えば全て正しく成り、間違いと言えば全て間違いと成る。
それこそ、この少女が────『世界意志』たる所以だった。
何者も彼女の言葉に、意志に、逆らうことは叶わない。絶対的な存在感かつ力を秘めた彼女を前にしては、無力で無様な人間は、ただ静かに耳を傾ける以外に、出来ることはないのだから。
しかし。
草原に吹き抜ける風は、まるで憤怒を表すような強い突風となり、少女の髪を大きくたなびかせる。
それが何者かの“反抗の意思”であったことは、最早、疑いようがない事実だった。
「だったら証明してみなよ。自らを証明出来るのは、自らを除いて他には居ない。だけど……一つだけ、警告しておいてあげる」
反抗の風を全身で受け止めながら、少女は不敵な笑みを浮かべる。
次に彼女が顔を上げた時……向かい風は、忽然と追い風となり、草原の全域に吹き荒れるのだった。
「────このままじゃ“死ぬ”よ、あのお兄ちゃん」
─※─※─※─※─※─※─※─※─※─※─
本名は、リノリス=トラント。
高校生として行動する際の偽名は、鈴木莉乃。鈴木の名字は、ネットワークを検索して一番最初に出てきた名称だったから、何となくそのまま引用したものだ。
日陰舘家現当主、日陰舘雅人様の付き人という立場にあり、彼の命でトア・ラィド=イザベリングの監視役として行動していた。
勿論、彼女本人には正体を悟られないように。
「“ゆち”さん!日野原ゆちさん!聞こえていたら出てきて!今すぐにっ!」
太陽が水平線の彼方に沈み始め、橙色の空模様が夜の到来を告げる頃。
人気も無くなってきた大社前の巨大鳥居の下で、辺りを見渡しながら、何処に居るかも分からない亡霊へと大声で呼び掛ける。
すると、トンネル内で反響するような声が何処かから聞こえてきた。
『……ったく、騒がしいったらありゃしねぇ……何の用だい、付き兎』
「姿見えないんだけど……何処にいるの?」
『あんさんの後ろさぁ』
「え……ひゃんっ!」
直後。
いきなり耳元に息を吹き掛けられたような気がして、思わずその場で飛び上がりながら変な声が漏れ出てしまう。
サディスティックな節があると聞いていたが……もしかすると、幽霊という連中は誰もが彼女のような悪戯好きが多い傾向にあるのかも知れない。
ただ、目の前に居ることは分かったものの、相変わらず姿だけは視認することは出来なかったが。
『にひひっ、良い反応するねぇ。いいかぁ、こういうのは見るもんじゃねぇ感じるもんなんだ、ってなぁ』
「そんなことより!主様が居なくなっちゃったんだよ……!気配が一切感じられなくなったってことは……多分、こことは違う世界に……っ」
目の前で雅人が消える寸前、彼は明らかに様子がおかしいトアにROSCを手渡していた。
恐らくはあれを使われて、何かの機能を行使されたのだろうが……気付いた時、あの場には自分一人しか残っていなかった。
雅人も、トアも、ヨウ=イルアウマーも、『何か』に成り掛けていた埃の集合体も……この世界内に気配すら残さず、何処かへ消えてしまっていたのだ。
『もちろん知ってらぁ。オレも、一部始終は見させて貰ったからなぁ』
「見てたの!?ま、まぁ、それは良いよ!ゆちさんの《霊力》を使えば、単体で異世界間を転移することも出来るんだよね!?」
『オイオイ、誰から聞いたってんだ、そんなこと』
「日陰舘家使用人の月影マヒナさんから!」
『あんのお喋りが……んで?』
「リノを主様の飛ばされた異世界に連れていって!」
『それは無理だなぁ』
「えぇっ!?なんで!?」
見ていたのならば話は早い……と思ったのだが、速攻で否定の言葉を喰らってしまった。
だが、それはこちらをおちょくっている訳ではなく、理屈で考えて不可能である、ということは彼女自身が説明してくれる。
『《霊力》を行使出来んのは、霊体のみさぁ。あんさんみたいな肉体……いんや、フィーネスの場合は器か。生者として肉体を持っている以上は、あんさんを一緒に連れていくことは出来ねぇ』
「そ、そんな……!このままだと、主様が……主様が、死んじゃうかも知れないんだよッ!?」
一度ROSCの機能を使用して身体に副作用が出た場合、自動的にROSCがそれを察知して、それを回復しようと働き掛けるようになっているらしい。つまり、その副作用は離元空間による支障であり、それを元通りにするには、離元空間による作用が不可欠、ということだ。
ならば、副作用が完全に回復しないままROSCを手放したらどうなるのか……使用者は再びそれを手にしない限り、永遠的に副作用で苦しみ続けることになる。
恐らく、あの様子がおかしいトアにROSCが渡ったということは、少なくとも現時点で、雅人がそれを持っている可能性は低いと言える。
《展開操作》、《心離》、その二つを発動した状態は……極めて限界に近い。
そう、彼は今、紛れもなく────命の危機に晒されているのだ。
『ROSCの副作用ぉか……こりゃいっそ、潔く諦めた方が賢明かもなぁ』
「そんなこと……ッ!!絶対に出来ないッ!!」
まるで怒りを主張するかのように……。
全身から僅かに、紫色の稲妻が迸る。
誰に聞かれているか分からないにも関わらず、思わず声を荒げて目の前を睨み付けていた。
すると、驚きこそしていなかったが、ゆちは一拍置いてから不思議そうに尋ねてくる。
『……どうして、あんさんはそこまでして当主を助けよぉとするんだい?あんさんの異世界を消滅させられたのは、間接的にゃあ当主のせいでもあるんだろう?普通なら、恨んでてもおかしかぁねぇ筈だ』
「『愛』だよ」
『あん?』
「ごめん、今のナシ。そうじゃなくて……リノだけが、主様の本音を知っている……」
日陰舘雅人による、二度目の召喚。
その時、『フィーネス』としてこの世界に召喚されたのが自分……リノリス=トラントだった。
素性だけ見ればトアと同じ境遇の者同士だったりするが、決定的に異なる事柄が一つだけ存在する。
自分の場合は、“既に終わった”。
明示録に書き記された運命から脱却した今、自由気ままにこの世界を謳歌している。
ただ、その代償もとてつもなく大きかった。
恐らく、九割方を捨てて、一割方を辛うじて掬い上げたような……対価なんて一欠片もない、残酷的かつ無慈悲な事態。
普通ならば、あまりの残虐さと絶望に、心が壊れ、発狂してもおかしくない異常事態を乗り越えて、今を生きている。
日陰舘雅人……彼が、自分を見つけ出し、救い出してくれたお蔭で。
「だから、一緒に居たいんだよ、寄り添いたいんだよ……フィーネスと成った今は、リノ自身のことよりも……主様が辛い顔をしているのを見るのが、一番苦しいから……っ!」




