95 未来へ
「よし、みんな乗ったな」
「はい!アレッサンドロさん、四人とも無事に船へ乗せました」
ダルテニア暦1899年、春の夜。ウルカリア王国の最西端に位置する小さな港にて、一隻の漁船が静まり返った闇に紛れるようにして、密かに出航の準備を進めていた。周囲には明かりと呼べるものなど一切なく、足元すらおぼつかない暗闇の中、男たちは呼吸を殺しながら、必死の思いで作業を急いでいたのだった。
「おい!あそこにいたぞ!」
「しまった……見つかってしまったか!」
青年アレッサンドロは、この過酷なウルカリア王国からの亡命を試みていたが、ついに王都から差し向けられた追手に居場所を突き止められてしまった。闇を切り裂くように激しく揺れる松明の光と、地鳴りのような蹄の音。迫り来る騎馬隊は、十数名からなる精鋭の軍勢であった。
「アレッサンドロ、ここは我ら親父子が引き受ける。お前は一刻も早く船を出し、カイオン王国へと向かうのだ」
「しかしバティス様、敵の数が多すぎはしませんか!」
「なに、これしきの追っ手くらい、我が倅と共に蹴散らしてみせるわ!」
「ですが!」
「ええい、行け!このバティストゥータ・ヴァランタイン、お主のような忠臣を持てたことを、心から誇りに思うぞ」
バティスはアレッサンドロたちを乗せた船を繋ぎ止めていた太い綱を、背から引き抜いた大太刀の一閃でスパッと断ち切った。解き放たれた船は、折からの強い風と引き潮に導かれるようにして、勢いよく沖合の暗い海へと滑り出していく。
「バティス様ぁ――っ!!」
暗闇の向こうで刃と刃が激しく交わる金属音と、絶叫のような断末魔の声が次第に遠ざかっていく。追っ手たちが掲げていた篝火の明かりも、小さく揺れながら夜の闇へと呑み込まれていった。
「ああ……バティス様……誓います、この幼い四人の命は、私自身の命に代えても絶対に守り抜いてみせます」
アレッサンドロたちを乗せた一隻の船は、残された最後の希望を乗せて、夜の静寂が支配する南の海へとそのまま深く漕ぎ出していった。
「アレッサンドロさん、大しけです!」
「ぬぅ……歯を食いしばれ!どうにか持ちこたえるんだ!」
ウルカリア王国を命からがら抜け出した船は、ダルテニア大陸の沿岸に沿って進み、大きく南から東へと進路を変えながら、はるか東方に位置する清浄の地『カイオン王国』を目指していた。しかし、海上は荒れ狂う激しい波と吹き荒れる暴風に見舞われ、木造の船体は今にも砕け散らんばかりに大きく揺さぶられていた。
「このままではカイオンへ辿り着く前に沈んでしまう!」
「ダメだ……!何としても、死んでもカイオンへ辿り着くんだ!」
鼓膜を揺らす雷鳴が猛烈に轟き、容赦なく船を打ち叩く暴風雨の前に、すでに舵は完全に制御を失っていた。
「も、もうダメだぁ!」
「うわあああっ!」
狂暴な高波に翻弄された船は、激しい音を立てて巨大な岩礁へと激突した。アレッサンドロをはじめとする船員たちは、容赦なく襲いかかる冷たい暗黒の海へと投げ出されたのだった。ウルカリア王国の漁港を密かに試みた出航から、およそ六時間に及ぶ死闘の航海であった。
そして、長い惨劇の夜が明けた。
「村長!南の海岸に難破船が打ち上げられています!」
「なんじゃと!?」
とある孤島の住人たちが、あの荒れ狂った大しけの夜が明けた静けさの中で、浜辺に痛々しく座礁している船を発見した。さらに、その船からほど近い砂浜のあちこちに、波によって打ち上げられた数名の人物が倒れ込んでいるのが見つかったのである。
「みな気を失っています!ですが……中にはまだ脈があり、命が助かりそうな者もいます!」
「よし、ワシの家まで運ぶのじゃ。村の者たちも総出で救援にあたるんじゃ!」
村の若い者がすぐさま他の住人たちへ知らせに走り、知らせを聞きつけた男たちが大勢駆けつけて介抱にあたった。
「村長、船の中に赤ん坊がいるぞ!」
「赤ん坊じゃと!?」
波にさらわれないよう半壊した船体を安全な場所まで引き揚げ、漁師たちが一刻を争う思いで慎重に船を 解体していく中で、その幼い命たちは奇跡的に発見されたのだった。
「なんとまぁ……玉のような可愛い子たちじゃ……みんな、すぐにお湯を用意するんじゃ!」
事態を見守っていた村の女たちは、山の湧き水や溜めておいた雨水を急いでお湯に沸かした。すでに季節外れとなり使われていなかった囲炉裏にも炭がくべられ、村長の家の中は瞬く間に温もりに包まれていった。その日の村は、誰もがいつもの仕事に手がつかなくなり、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎとなったのである。
それから数日後。
「命を救っていただき、本当に感謝の言葉もございません」
「なんのなんの。おぬしだけでも助かって、本当によかったわい」
介抱の甲斐あって、過酷な難破を生き延びることができた船員がいた。アレッサンドロはようやく体を起こすことができるまで回復し、村長宅の居間で、自分たちを心配して集まっていた数名の村人たちと静かに向き合っていた。
「……ほかの者たちは、手厚く葬らせてもらったよ」
漁を生業とする重鎮の村人が、重々しい口を開いた。回復したばかりのアレッサンドロに現実を伝えるのは非常に憚られたが、彼自身も覚悟していたのだろう。深くうつむき、肩を微かに震わせたものの、決して絶望の嗚咽を漏らすことはなく、ただ絞り出すような小さな声で心からの謝辞を述べたのだった。
「安心しなされ、赤ん坊たちはみな元気じゃぞ」
村長はつとめて明るい声を掛けた。辛いことばかりではないのだという、年長者ならではの温かな配慮がその言葉には滲んでいた。
「ありがとうございます……私が不甲斐ないばかりに、皆さんにご迷惑をおかけしてしまい……」
アレッサンドロは、自身の無力さに耐えかねるようにズボンの膝をぎゅっと力任せに握りしめた。「自分の未熟さのせいで船が沈んだのだ」と言いかけた言葉をどうにか呑み込んだものの、失われた仲間たちへの罪悪感と傷心は、まだ到底整理しきれずにいた。
「あんな小さな船でどこまで行くつもりじゃったかは知らんがね、お前さんとその幼子たちだけでも命が助かったのは、まぎれもない僥倖じゃろう」
村長はあえて、時に厳しい現実を言葉にして突きつけるような言い方をした。人間、どれほど悔やんでも過去の過ちは起きる。それを真正面から受け止め、反省し、力強く前へ進まねばならないのだと教えるために。
「幼子たちを救っていただいたばかりか、こうしてお世話までしていただいて……本当になんと申し上げたらよいか」
「なんのなんの。今は村の女たちが手分けして世話しとるから心配いらん。……しかし正直な話、これからお前さん一人でこの子たちを育てるのは無理じゃろうな」
幼い四人の赤ん坊を、男の手ひとつで一体どうやって育てていくというのか。それはどんな理屈や言い訳をこねてみても、到底不可能な現実であった。
「なにからなにまで、本当に申し訳ありません。……本当におっしゃる通りです」
「いいんじゃよ。まずは言える範囲で構わんから、お前さんたちがどうしてここに辿り着いたのか、その経緯を教えてもらえんかの?」
「ええ、分かりました。お世話になった村の皆さんにも、しっかりとお話ししたいと思います」
アレッサンドロが覚悟を決めたようにそう答えると、村長は外で固唾をのんで様子を窺っていた村人たちに静かに目配せをし、できる限り多くの住人をこの家に集めるよう手配の指示を出したのだった。
数年後。
「もう限界じゃろうな」
「そうだね、おじいちゃん」
さくらときなこがセンチュリオンへと転生を果たし、隠されていた二人の宿命と運命の歯車が明らかとなった1912年11月。そして今年末の多忙な時期をどうにか乗り切ろうとしている、厳しさを増す冬の始まりの月——12月。それより約二年ほど遡る、1910年12月。ここ、アンダーフィールド領内にひっそりと佇むひとつの島で、ある老爺と『孫』が深夜にひそやかな語らいを交わしていた。
「ちょうど十年か……我々の力も、どうやらここまでじゃな」
「でも、僕たち本当によくやったと思うよ。これからは『あるべき人たち』に後を任せよう」
「うむ……『オリジン』の秘めたる力がこれほどまでとは、思いもしなんだよ」
二人は一筋の揺らめく蝋燭の灯りを囲み、小さな村の園舎にある食堂で静かに向き合っていた。
「アンとシスが釣りをすると、魚がたくさん釣れすぎてしまうし」
「トロワとサンが日干しをすると、あっという間に干物ができあがっちゃうしね」
二人は、すくすくと育ったアン、シス、トロワ、サンの四人が持つ特別な能力と日常を、どこか愛おしそうに改めて振り返っていた。
「それで?例の連絡は無事についたんかの?」
「うん、いろんな伝手をたどって、ようやく見つかったみたいなんだ。『ウルカリア王国』で行商を営んでいる商人の仲間らしくてね」
「ほう」
「その人はもともと腕のいい仕立て屋さんだったらしいんだけど、各地を巡って手に入る希少な『魔導繊維』を買い集めて、服を仕立てる時に秘伝の技術で縫い込む術を持っているらしいんだ」
「なるほど……それがあれば、あの子たちの溢れ出る『光』を自然に抑えることができるんじゃな?」
「そうみたい。でも、ひとつだけ条件があってね」
「なんじゃ?」
「あの子たちを、メイドとして仕えさせるのがいいみたいなんだ」
「メイドじゃと!?あの『聖なる』血筋を引く子たちに、人に奉仕するような真似をさせるというのか」
「僕も最初は、なんだか恐れ多いなと思ったんだ。けれど、紹介してもらった『フリージアさん』という方が長年培ってきた縫製技術で作る特製のメイド服を着れば……ということらしいんだよ」
「なるほどのう……まぁワシらはもうあの子たちの未来を信じて任せるしかないんじゃ。そのフリージアさんとやらに、すべてを託そうではないか」
「そうだね。きっと心優しい素敵な人だよ。安心して、おじいちゃん」




