93 無茶振り翁
「奥様、少しよろしいでしょうか」
「どうしたの、ノア、ユイ」
『とんかつ さくら』で二人のメイドが欠勤となり、青果店の娘であるミーシャ・マッシーライトが臨時アルバイトとして雇われたその日の午後、フリージア家のメイドであるノアールとユイロージアが、キッチンで菓子作りをしていたベアトリーチェの元へ現れた。今は二人ともメイド服をきちんと身につけた姿だった。
「いいのよ。それよりもう起き上がって大丈夫なの?」
「はい、ご心配をおかけして申し訳ございません」
ノアは俯いたまま腰を折り、深々と詫びた。もともとそれほど容体が悪かったわけではなく、発熱すらしていなかったものの、二人の心のどこかに生じたささくれのようなものが、少しだけ精神的な不安定さをもたらしていたのだった。しかし妻であるベアトリーチェは、普段から仕事やアルバイトに追われている二人の身を案じ、休息が必要だと考え休ませていたのだ。
「それでどうしたの、改まって」
「はい……わたくしたち、このままこちらでお世話になるのは心苦しいと感じまして」
ユイはベアトリーチェの顔色を伺うように、見上げて切り出した。
「何を言っているの?馬鹿も休み休み言いなさい」
ベアトリーチェは眉間に皺を寄せ、立ち上がりながらそう言った。あまりに唐突な言葉に、思わず強い口調になってしまったのだ。
「あぁ……申し訳ございません……」
肩をビクッと揺らしたユイは、思わず顔をのけぞらせた。これほど強い語気のベアトリーチェを見るのは初めてだったからだ。
「私もごめんなさい、急に何を言い出すのかと思って」
しおらしく謝罪する二人に、ベアトリーチェもまた言葉を和らげた。そして布巾で手を拭うと二人をダイニングへ連れ出し、いつもの席とは異なる場所に腰掛け、横並びで向き合うことにした。
「あなたたちが『過去』の呼び名で呼び合っているのは、知っていたわ」
改めてベアトリーチェは切り出した。少しトーンを落としたその声は、静かなダイニングの柱に心地よく響く、重みのある響きを帯びていた。
「……」
「なぜとは聞きません。こちらへ来てまだ間もないですし、今なお引きずってしまうのは理解できます」
見抜かれていたノアとユイの表情は暗く陰り、テーブルの端を見つめながら思いを巡らせていた。
「それと同時に、わたくしたちも寂しい思いをしていることは理解してほしいわ」
ベアトリーチェは訴えかけるように、その物悲しい胸中を伝えた。二人はなおも俯いたまま、そっと目を閉じた。
「申し訳ございません……」
ノアがぽつりと呟いた。
「いいのよ、謝らないで。あなたたちはわたくしたちの『娘』なのですから」
「……」
ノアとユイはエプロンの裾をギュッと握りしめた。こぼれ落ちる雫を拭い、言葉を結べずにいた。
「あなたたちにまだまだ与えきれていないこともわかっているわ。できればそれを、ちゃんと伝えてほしいの」
「そんなことはございません。十分な幸福をいただいております。これ以上望むことなど」
「あなたたち、ことあるごとにそれを言うわね。できればそれをやめてほしいの」
「しかし……」
「しかしもかかしもありません。あなたたちをわたくしたちが引き受けた意味がないわ」
ベアトリーチェはふっと息を吐くと、呆れながらもほんの少しだけ笑みを浮かべた。ノアとユイはその表情に少し安堵したのか、張り詰めていたいからせていた肩をようやく落とした。そしてノアは覚悟を決めたように言葉を発した。
「奥様、できれば、わたくしたちを引き取っていただいた経緯と理由を教えてほしいです」
ずっと胸に仕舞い込んでいた疑問、自分たちの本当の生い立ちや、なぜあの孤児院を去ることになったのかという、過去のパズルをこれを機に整理したいと思うようになった二人。これまで避け、恐れ、目を逸らしてきた過去を紐解きたいという想いが、二人の心に芽生えていたのだった。
「わかったわ。今夜、夫が帰ってきたら話しましょう」
「おやおや、おぬしは八百屋の娘さんではないか」
「は、はい!いらっしゃいませ!帝王様にはごきげんうるわしゅう!」
「これこれ。ワシはただの老爺じゃ」
ミーシャが臨時バイトとして雇われたその日の夜、ランチタイムはどうにか乗り切ったものの、夜の営業こそが本番であった。ディナータイムに訪れる客の多さに圧倒されていたミーシャだったが、ライテスの来店により、さらに身震いさせることとなった。
「ミーシャさん、こちらにいらっしゃる時のライテス様は、普通の『おじいちゃん』として接してほしいとお望みなんです。どうかそのように」
「わかりました……すみません、ではお二階にご案内しますね」
どうにか平静を取り戻した本日の二階担当・ミーシャは、お付きの刑事エリックとともにライテスを連れて階段を登っていった。
「ミーシャちゃん、お料理ができたら鐘を鳴らすから、ゴンドラで上げてね」
「わかりました、がんばります。これ、本当に便利ですね」
簡易昇降機を使って料理や酒を二階へ上げ、上で扉を開いて受け取る。それを客のテーブルへ運び、空いた皿は二階で洗ってから再び昇降機へと積み込み、下へ下ろす。実に効率的な店の仕組みに、ミーシャは大いに関心していた。この装置が『簡易』と呼ばれる理由は、内部のカゴをロープで吊り下げ、手動で上げ下げする構造だからである。
「当然だけど、料理が多いと重いな……」
筋力に乏しいことを、ミーシャはこの『とんかつ さくら』でのバイトを通して痛感させられていた。この吊り下げられたカゴを少しでも軽くする方法がないものかと、何度か上げ下げを繰り返しながら頭を巡らせていた。
「車輪を改造すれば、どうにかなるかな」
ミーシャは常に探求心を抱き、それを日常の工夫へと落とし込む性分であった。のちに『滑車』を用いたきわめて軽い昇降機を作り上げることになるのだが、それはまだ少し先の話である。
「ミーシャどの」
「あ、はい!ただいま」
思考の海に沈み、どこか上の空になっていたミーシャだったが、ライテスに名前を呼ばれて急に現実へと引き戻され、少し慌てた表情を見せた。
「すまないが、ちょいとさくらさんを呼んでくれないかの?」
「かしこまりました。交代してまいります」
ミーシャはそう応じると、すぐに下階へ降りてさくらと担当を交代した。さくらはミーシャへ一階のオペレーションを伝え、すぐに二階へと駆け上がっていった。
「ライテス様、いかがなさいましたか?」
「おう、すまんのう。さくらさん、ちょっと相談があるんじゃが、よいかの?」
「ええ、何でもおっしゃってください」
さくらはライテスのわずかな態度の変化を感じ取り、他の客がいる二階座敷の隅に座るライテスとエリックの傍らへ寄り添うと、さらに顔をわずかに近づけた。
「実はな、遠い国から客人が来るんじゃよ」
ライテスもまた、さくらの耳元へほんの少し寄り添うようにして、静かな声のトーンで語り始めた。
「そうなんですね。どんな方なんですか?」
「うむ。その者たちはな、最近結婚したようなんじゃ」
「わぁ、素敵ですね。新婚旅行じゃないですか」
さくらは胸の前で両手を合わせ、にっこりと微笑んだ。
「そうなんじゃよ。実はその者たち、『ウルカリア王国』という国から来るんじゃがな」
「あら、最近よくそのお国の名前をお聞きしますよ。偶然ですねぇ」
「おお、それは話が早いの。そのウルカリア王国の辺境伯の男がな、聖女と結婚したそうなんじゃ」
「ほえぇ……それはすごいことですねぇ……」
聖女と聞いていまひとつピンときていないさくらだったが、言葉の響きから察するに、きっと大変高貴で素晴らしい存在なのだろうと思うにとどまっていた。
「ウルカリア王国ではよくある婚姻関係じゃ。それでじゃな、倅のところにわざわざ手紙が来てな、ぜひセンチュリオンの観光をしたいということなんじゃよ」
「そうなんですか。ぜひ楽しんでいただきたいですね」
さくらは再びパッと花が咲いたような笑顔を見せた。王室に取りなしてもらおうとするほどなのだから、きっとお忍びの旅行なのだろうと察したのだ。
「うむ、そこでおぬしに相談なんじゃが、この店の二階でパーティーを開きたいんじゃ。構わんかの?」
「えええ?こんな庶民の食堂でですか?もっと正式な……ほら、何かあるじゃないですか」
さくらでなくともそう思うだろう。華やかな社交界のような、立食スタイルで天井が高く広い会場、音楽隊や舞踏会が催されるような場を想像していたのだ。
「いやいや、その者たちの強い希望でな。『普段では食べられない美味しいもの』が食べたいそうなんじゃ」
「そうなんですか……私の料理でいいのかな」
「さくらさん、おぬしの料理は唯一無二じゃぞ?ワシはこの話を倅から聞いて、ここ以外にはないと確信しておるんじゃ」
ライテスの瞳には熱い想いが宿っていた。まるで我がことのように店を愛してくれている様子に、さくらは思わず身をひかせつつも、深く心を打たれた。
「わかりました、ありがとうございます。一生懸命務めさせていただきますね」
さくらにも気合が入ったようだった。小さく拳を握り、決意を胸に固めた。
「おお、よかったよかった。では早速……エリック」
「かしこまりました。さくらさん、魔導ベルをお借りしますね」
ライテスがエリックへ目配せをすると、意を汲んだエリックは速やかに階段を駆け降りていった。王室や各省庁へ連絡を入れるためである。
「それにしても、よくこの年末の寒い時期に旅行されますね」
「ウルカリア王国も寒冷な国じゃ。慣れておるのだろうし、何か目的でもあるんじゃないかの」
「ふぅん、私たちも準備をしなきゃ。それで、いつ頃いらっしゃるんですか?」
「明日じゃよ」
「うぇ!?明日!?ライテスさまぁ……」
さくらは飛び上がらんばかりに驚き、急いでエプロンの結び目を締め直し、三角巾を被り直した。まさか明日訪れるとは想像もしておらず、ホホホと可笑しそうに笑うライテスに呆れ顔を向けつつ、思わず溜め息をついた。
その後もさくらは他のお客様にも朗らかに愛想を振りまき、明日の仕込みを念頭に置きながら、いつものように手際よく仕事をこなしていくのだった。




