91 最果ての村
「やれやれ。なぜそんな辺鄙な場所に作るのだろうね」
小春日和の爽やかな風が吹き抜け、穏やかな日差しに包まれた平原を進む馬車に揺られながら、オスカル・バレンシアはそうぼやいた。
「まったくだな。ミンチェスティを出てからもう二時間は経っているか」
馬車の手綱を握るロレンツォ・フリージアは、御者席の隣に座る、ぼやきながらも笑みを浮かべるオスカルにそう応じた。
ロレンツォは妻のベアトリーチェを伴い、ここセンチュリオン王国の南に位置する半島の、さらに最南端『アンダー・フィールド』へ向かっていた。旧知の仲であり商売仲間として同志でもあるオスカル・バレンシアも、妻のフランチェスカと共に帯同し、四人旅の長い馬車に揺られていた。
「ベアトリーチェ、大丈夫か」
「ロレンツォさん、ベアちゃんぐったりですわ」
馬車の後方、比較的風が吹き抜けやすい位置で、フランチェスカの膝の上で横になるベアトリーチェを気遣う。あまりに長い道のりに、ロレンツォの妻ベアトリーチェはすっかり乗り物酔いをしてしまっていた。
「今回は私とオスカルだけで行くと言ったのだがな」
「まあそうもいかんだろう、ロレンツォよ」
「そうですわ。私もベアちゃんも楽しみにしていたのですから」
ロレンツォの提案に対し、オスカルとフランチェスカ夫妻は軽く抗議した。ロレンツォは思わず少し身体をのけぞらせ、片頬をあげてからバツが悪そうに口髭をさするのだった。
今はまだ目的地のいわば入口付近に差し掛かったところで、四人は目的地へと続く道中、和気藹々と会話を弾ませていた。
「ソラは中学に入ったのか」
「ああ、ナナミと違って口数がすっかり少なくなってしまってな」
「ははは、思春期などそんなものだ」
「うむ。ロレンツォの娘はどうだ」
「リロは来年受験だ」
「気を使うであろう」
「まあな。ピリピリしているよ」
「あのリゼロッテがそんな風にか」
「なんでもリンフィーナくんと一緒の学校に行くと言ってきかないものだからな」
「グロリアーナ様の次女か。大層なところへいくのだろうな」
「ああ、エクレールだ」
「なんと、エクレール女学院か。これまた難しいところを」
「心配で仕方ないよ。もっと身の丈にあったところに行ってもらいたいものだが」
「彼女なりに強い思いがあるのだろう。我は応援したいな」
「お前の上の倅はいま中二か」
「ナナミか。あいつも行きたいところがあるらしいが、まだ分からんな」
「お互い大変だな」
「ああ、しかし我らも励まねばいかんなと思うよ」
「そうだな」
そんな話をしているうちに、ようやく目的地となる半島の先端が見え始めていた。
「ロレンツォ、この森を抜けたところか」
「ああ、そろそろだと思う」
王都ミンチェスティの屋敷を出て約三時間、半島の中間より先に来たと思われる森をようやく抜け、そろそろ視界の先に海が広がりそうな気配がした。潮騒が聞こえ、海特有の香りが馬車に乗る者たちの鼻腔をくすぐった。
普段は内陸に住む王都民が海を訪れることは滅多にない。この海岸特有の雰囲気に四人の胸が騒めいたのは、果たして景色を感じたからだけなのだろうか。
「いよいよだな、オスカル」
「うむ、少しだけ心が締め付けられるな」
ようやく目の前に広がった海の景観を眺めながら、二人はそう語り合った。今日この日に訪れたのは、センチュリオン王国の中でも辺境の地である。その地『アンダー・フィールド』は半島を備え、その先にいくつかの島が点在していた。このアンダー・フィールドは自治を行う辺境伯が統治する、いわば一つの『小国』でもあった。小国とは言っても半島の一部と点々と浮かぶ島々が集合した一つの領域である。当然、ロレンツォたちがこの地へ足を踏み入れるにあたっては王政への許可を得ていた。ロレンツォの操る馬車が関所で止められ、通行証を提示する。
「ここからは船に乗り換えていただきます」
そう案内したのは、アンダー・フィールドの役人だった。もとより一つの島へと赴く目的であった四人は、すぐに用意された船に乗り合わせた。
「そちらのご婦人は大丈夫ですかい?」
船頭の男が、ぐったりとした様子のベアトリーチェに視線を向けて言った。
「ええ……もう馬車も船も一緒ですわ……」
力無く語るベアトリーチェはどうにか声を絞り出し、船を出すよう促した。
「そうでやすか、あまり無理なさらないでくだせえ。では行きますぜ」
船頭の掛け声とともに船が漕ぎ出された。船とは言っても二十人ほどが乗り合わせられる少し大きめの造りだった。船頭が船首で舵を取り、弟子たちが後方で櫂を漕いでいる。
「あら、この船のほうが楽ですわ」
急に元気を取り戻したように、ベアトリーチェが笑顔を浮かべた。
「ロレンツォ、馬車の御者技術をもっと訓練せねばならんな」
「う、うむ。馬の扱いは大変なのだぞ」
オスカルはロレンツォをからかうように言った。ロレンツォも少し抗議するように言い訳を返すのだった。
「着きましたぜ、旦那」
船頭が難なく海を渡り、ある孤島へと辿り着いたことを知らせた。ロレンツォが船頭に駄賃を渡すと、船頭たちは大いに喜んだ。
「帰りも頼むぞ」
「へい、夕方に参ります」
戻りの船の約束も交わし、ロレンツォとオスカル、そしてベアトリーチェとフランチェスカの四人は、目的の村へと歩き出した。
「ロレンツォ、道はわかるか」
「ああ、この地図の通りならこの方向だ」
ロレンツォは事前に連絡を取り合っていた先方からの手紙に同封されていた地図を手に、島の平原を進んだ。船が着いた港からは十五分ほど歩く予定だった。
「おお、あそこではないか」
オスカルがいち早くその姿を目にし、後方の者たちに知らせた。地図を持つロレンツォよりも何歩か先を歩くオスカルのはやる気持ちは、その足取りによく現れていた。
「オスカル、少し落ち着かないか」
「すまぬ、それはできない相談だ」
ロレンツォの苦言に対し、オスカルは微笑を浮かべながら返した。まるで子供のように軽い足取りでどんどん進むものだから、ロレンツォたちは追いつくのに必死であった。
そうして辿り着いた先には、一つの村があった。田園が広がり、農作業をする者たちの姿もある。小川が流れ、水車がギッタンと心地よい音を立てて水を汲み上げていた。茅葺の家々が点在し、その軒先には数々の干物がぶら下がっている。主に開いた魚が干されているが、果物や野菜もあった。これからの季節に向けて多くの干物を作り、保存食として蓄えておくのだろう。大量の食糧が干されている光景はなかなかの壮観であった。
「それにしても綺麗な村だな」
「良い環境で育てたいという思いもあるのだろう」
四人は村の入口あたりにいた村人たちに声をかけながら足を踏み入れた。村の者たちはあらかじめ話を聞いていたのか、警戒する様子もなく、すぐに目的の場所を教えてくれた。
「良い匂いがするわ」
「ええ、わたくしもそう思いましたわ。お魚かしら」
ベアトリーチェとフランチェスカが言葉を交わした。この村、ひいては島全体において、主な食糧源は釣りによる魚なのだろう。あちこちから焼き魚や煮魚の匂いが漂っていた。
しばらく歩いていると、村の最も奥深くにひとつの石造りの建物が現れた。この村の村長宅であり、『他の者たち』も暮らす、一種の園舎のような場所だった。
四人はその建物の前に立ち、一呼吸置き、ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「ロレンツォ、お前はその……初めてか」
「ああ、知っての通りだ」
オスカルとロレンツォは短い言葉を交わし、いよいよその扉をノックした。
「やあやあ、よくいらっしゃいました。長い旅路であったでしょう」
白い髭と朗らかな笑顔で迎えてくれたのは、この家に住む村長であった。直接村長が出迎えてくれたことに、ロレンツォとオスカルは静かに帽子を脱ぎ、胸に手を当ててお辞儀をした。
「そんな、仰々しい挨拶はいりませんぞ。ささ、こちらへどうぞ」
少し腰の曲がった村長はそう言って中へと案内してくれた。杖をつきながら手招きする村長に促され進む廊下には、何人かの子供たちが指を咥えながら、ロレンツォたちを見上げるように眺めていた。
「こんにちは、はじめまして」
ベアトリーチェが子供たちに向けて笑顔で声をかけた。子供たちは少し戸惑いながらも、ペコリと頭を下げた。
「これこれ、お庭で遊んでいなさいと言ったじゃろうに」
村長は子供たちを廊下から促し出そうとした。しかし子供たちは文句も言わず、言われた通り庭へと向かって行った。
「すみませんな、どうにも珍しいのでしょう」
村長はロレンツォたちの衣服を眺めながら言った。この村では素朴な作業着を纏う者ばかりだった。しかしそれは普段から自給自足の生活を営む者たちが、自ら育てた植物から作ったものであり、彼ら自身それを誇りに思っているのだった。
「ささ、何もないが座ってくだされ。この子はわしの孫ですじゃ」
テーブルにつくよう促され、四人は小ぶりながらも数人が腰掛けられるダイニングに落ち着いた。紹介された二十代ほどに見える村長の孫アレッサンドロは、四人に豆茶を淹れ、お茶請けの干し芋を差し出した。
「どうぞお構いなく、村長」
「いえいえ。それでは早速話を進めましょうか」
そう村長に言われ、ロレンツォたち四人の背筋が自然と伸びた。いよいよ始まる『取引』に、緊張を禁じ得ない一行であった。
「わしらはこの通り貧しいながらも穏やかな暮らしをしております。しかし心まで貧しい思いをさせたことはないと思っております。まずはそういった『子』たちがいるということをご理解いただきたいんじゃ」
村長は語り始めた。この地、そしてこの『園舎』がどのような場所であるかという前提をまず口にした。
四人は静かに頷いた。その表情は硬い。
「まあまあ、そう畏まらないでほしいんじゃ。わしらにとっても初めてのことでな。そしてやはり、少し寂しいんじゃよ。そこだけわかっていただければ十分ですので」
村長は諭すようにロレンツォたちに語りかけた。
「『あの子たち』がいよいよという時を迎えて、わしもやはりなんというか『親心』というものがありましてな。あ、いや、すまんのう」
村長は思わず目頭を手に持った布で拭った。ロレンツォはズボンの膝を力強く握りしめた。オスカルは俯き、ベアトリーチェとフランチェスカも鼻を抑えた。
「手紙でもお伝えしましたが、本日紹介する『サン』『トロワ』『シス』『アン』の四人は元気です。そして彼女たちの覚悟も決まっているようですので」
言葉を詰まらせた村長の代わりに、孫のアレッサンドロが説明を引き継いだ。この場に彼がいるのは、村長と思いを共有しているからに他ならないのだろう。
「ありがとうございます。我々もこの日を迎えるにあたり、相応の覚悟をもって参りました。そして、すべての責任と幸福をお約束することをここに誓います」
ロレンツォが代表して宣言した。他の三人もロレンツォの起立に合わせて立ち上がり、胸に手を当てた。
「ありがとうございます。きっと彼女たちだけでなく、村の皆も喜ぶと思います。……寂しくはありますが」
アレッサンドロも同じように立ち上がり、言葉を添えた。
「入っておいで」
アレッサンドロの呼びかけとともに、扉の向こうからノックが響いた。ずっとそこで待機していたのだろう、声が終わるか終わらないかのうちに聞こえたノックだった。
目の前に現れたのは、四人の幼い少女たちだった。まだ十代になったばかりに見える彼女たちは、少し戸惑いの表情を浮かべ、視線を泳がせながら互いに先頭を譲り合い、アレッサンドロの横に並んだ。
ロレンツォたちの瞳が光った。それは単なる期待や喜びではなく、自然と浮かんだ涙であった。今までの彼女たちの生い立ちや幼少期の体験を思うと、ここまで立派に成長させてくれた村長や村人に対し、深い感謝と尊敬の念が胸を満たした。彼女たちの服や髪型はロレンツォたちに比べればつつましいものであったが、少しの恥じらいをのぞかせながら必死に笑みを浮かべる彼女たちの心を思うと、遠方から訪れた四人の胸に尊い感情が込み上げてきた。
「私どもにとっても初めてのことですので、彼女たちを送り出すにあたり一つ取り決めを作らせていただきました」
アレッサンドロはそう言って四枚の楮紙を取り出した。そこにはあらかじめ一人ひとりの『仮名』が記されており、下部には新たな名前を記入する欄と、引き取る家族の名を記す欄が設けられていた。
「お手紙でもやり取りいたしましたが、新しいお名前を書いていただきます。そして、この地への返還は基本的に行わないものとする誓約書です。どうかご理解ください」
アレッサンドロの表情は硬かった。それはお互いの意思を確認し、最終的な固い決意を結ぶためのものであった。
「承知しております。我々も深く考え話し合った上で、迎えるための名前を決めてから参りました」
オスカルはアレッサンドロに向け、そう応じた。その手は震え、立っていられないほどの武者震いが押し寄せていた。
「ではアン、さあ」
アレッサンドロが、アンと呼ばれた少女に代表して前へ出るよう促した。あらかじめ練習していたのだろう、アンは言われた通りすっと前に進み出ると、深々と息を吐いた。
「ほ、本日はわざわざお越しいただき、あ、ありがとうございます。ご主人様であるフリージア様、バレンシア様にお仕えできることを、心より幸せに思っております。私たち四人は多くを望みません。これからどうかよろしくお願いいたします」
アンはそう言うと少し肩を震わせながら後ろへ下がり、四人揃ってお辞儀をするのだった。




