90 雪が降る町
「らららららら〜ん♪るるるるるる〜る〜♪」
「まったく……リロも調子がいいにゃ」
すっかり上機嫌になっているリゼロッテ。今夜の『とんかつ さくら』は弁当販売のみの営業となり、店内営業は大雪の予報を受けて急遽取りやめとなったのだ。それに対し毎日の楽しみにしていた晩酌ができないと不満を漏らしていたリゼロッテが、なぜこれほど浮き立っているのか。
「リロちゃん、いくら泊まるからといって飲み過ぎちゃダメなんだからね」
「分かっていますのです。でも嬉しさを抑えきれないのです」
のぼせ気味のリゼロッテはそう言うと、また鼻歌の続きを口ずさみながら片付けに勤しんでいた。そう、結局リゼロッテはさくらの住む三階の部屋で一緒に一晩を明かすことになったのだ。いま最も慕う相手と初めて過ごす一夜となれば、それはもうはしゃがずにはいられないだろう。
「お二階の用意をしてきますのです」
そろそろ片付けや掃除も終わりを迎える頃、リゼロッテはようやく酒にありつけると言わんばかりに二階座敷へ晩酌の準備を整えると言って、階段を駆け上がっていった。
「ふぅ……まぁあんなに楽しみにしてくれるんなら私も嬉しいな」
「ええ。しかしあまり飲み過ぎないよう極力自制なさるようにお願いしておきました」
「そうですわ。お嬢様はいささか前後不覚になるところがございますものね」
このメイド二人にとって、リゼロッテの普段の姿はどういう印象なのだろうかと、ほんの少し窺い知ることができたさくらであった。
「先ほど魔導ベルをお借りして、ご主人様にはお伝えしましたので」
「わたくし達も、雪が深くならないうちに帰ります」
「本当に大丈夫?一緒に泊まっていけば?」
「いえ、お屋敷でのお仕事も残っていますので」
「お気遣いありがとうございます。いずれまたそのような機会に恵まれましたら、わたくし達も嬉しいです」
ノアとユイはそのまま傘を差して帰るのだという。さくらときなこはせめて馬車を呼んではどうかと言ったが、途中で動けなくなることも想定されるため、まだ歩けるうちに屋敷へ帰ることになったのだ。
「わぁ、積もってきたね。本当に気をつけてね」
「風邪ひかないようににゃ」
「お心遣いありがとうございます。さくら様もきなこ様も、どうぞお身体にお気をつけくださいませ」
「リゼロッテお嬢様をどうかよろしくお願いいたします」
そう言ってノアとユイのメイド二人は一度振り返り、その後寄り添うように傘を一本差しながら、雪がこんこんと降り頻る王都のメインストリートへと歩みを進めていった。
今はくるぶしほどの積雪だった。しんとした静寂が二人の鼓膜を支配する。大聖堂の付近にはもう既に人影はなく、九つの時を打ち鳴らす大聖堂の鐘の音すら余韻を残さないほど、重く固い雪であった。
かんじきを付けた靴で雪を踏み締めるたび、二人の体は僅かに浮き上がるように背が高くなった。ノアはしっかりとユイを支え、ユイはノアの腕に手を回すようにしてすがりながら、どうにか雪の上を進んで行った。
「アン、冷たい」
ユイはあまりの冷え込みに言葉数も少なかった。
「しっかり掴まっていなさい」
ノアもそんなユイが心配で、歩きづらそうにしながらも倒れそうになる身体をしっかりと支えていた。
やがて二人を覆い隠す傘に雪が積もり始め、それをノアは振り落とした。バサバサという傘の音も、すぐにまた静寂の中へと溶け込んで行った。
「アン、見て。綺麗だね」
「ええ、とっても綺麗ね、トロちゃん」
二人は大聖堂の前で足を止め、聳え立つ塔を見上げた。聖堂を照らす魔導ランプの周りに雪が舞い、淡くぼやけた光となって辺りを照らし続けるその情景は、二人の心をしばし奪った。
暫しの間、魔導ランプの光が二人の顔を照らし続けていたが、さらに雪の降り方が激しくなってきたことにノアとユイは気がついた。
「いけない」
「まずいね」
二人が気付かぬうちに積雪は増していた。いつの間にか脛ほどまで積もった雪にノアとユイは足を取られ、一歩進むのもままならない状態に陥っていた。
「足が重いよ」
「困ったわ……ここじゃ」
いま二人は大聖堂広場を少し過ぎた辺りまで来ていた。さくらの店に戻るにも先に進むにも、ちょうど中間地点まで差しかかってしまっていたのだ。
そんな二人をさらに雪が襲う。降り止む気配はなく、雪質も大きく重くなり、降雪は一層激しさを増していった。
「どうしようアン……」
「急いで帰りましょう」
時折滑りそうになりながらもどうにか転ばずに歩めていたが、歩む速度はどんどん落ちていった。息も絶え絶えとなり、吹雪に晒された身体も芯から冷え切り、重い足を引くようにして次の一歩を踏み出していた。
ようやくグランデ・マルシェの前まで辿り着いたものの、二人は限界を迎えつつあった。
その時、淡く光る街路灯に照らされた一人の影が、二人の少し先に立ち現れた。二人が店を出てから殆ど人影を感じなかったが、その姿は二人の網膜にしっかりと映し出されたのだった。
「何をやっているの、ノア、ユイ」
少し高めの、けれど焦燥感を滲ませた声で二人は叱責された。ハッとした二人は白い息を大きく吐き出しながら、その声の主を見据えた。
「あなたたちが雪の上を歩けるわけがないでしょう」
その声の主はすぐさま二人に駆け寄り、温かい魔導懐炉をノアとユイに手渡した。手にしたそれが二人の凍えた手を解かしていく。すぐにノアとユイはそれを両手で包み込みながら胸に当てた。
二人は甘く見ていた。あの時さくらの言うことを聞いておくべきだったと今更ながら後悔した。
迎えに来た主は二人に外套を掛けてやり、両脇に二人の腕を抱えながら屋敷へと戻っていくのだった。
その頃
「大丈夫かなぁ……」
「…………」
『とんかつ さくら』では油の熱を切り、明日の営業の軽い仕込みも終えた頃、さくらがぽつりと外を眺めながら呟いた。
リゼロッテも一階に降りて雪解けの水が店内に入り込まないよう、雑巾を引き戸の隙間に詰めようとした時に何かを思い立った。
「さくらちゃん、やっぱりわたくしも帰りますのです」
「ええ?こんな吹雪に出ていったら危ないよ」
「平気なのです。わたくしたちミンチェスティ民は雪には慣れていますのです」
リゼロッテはそう言うと、持ってきていた菅で編んだ深い笠を頭に被り、藁のカッパを羽織り、足元も深めの長靴にかんじきを装着しておもてへ出る準備を手際よく整えた。
「すごぉいリロちゃん、かわいい」
「リロ、かっこいいにゃ」
「えへへ。二人にすぐ追いつくのです!」
そう言ってリゼロッテは、雪の中を威勢よく駆け出していった。




