81 若者たちの全て
その次の瞬間、さくらの頭の中で弾けるような音が響き渡った。
『これだ』
今まで感じていたものとは違う、かつてない感覚。新しい何かがさくらの中に生まれた瞬間だった。さくらは今まで感じ取ることのなかった過去の残滓、混濁した意識の海にかき混ぜられていたさくらの人格が一本道につながり、絡まり続けていた鎖がほどけるように真っ直ぐになった。その道を抜けた先には、ドーム状に広がる半円の回廊が現れた。そこには全ての記憶がフィルム映像のように広がり、その後、まばらに映し出されていった。時代はそれぞれ異なり、近代の建造物や、石器時代のような前時代的な生活の様子、見たことすらないような宇宙にも似た果てしなく続く暗闇の中には、姿形もなくただ概念的な思念体が浮遊しているかのような空間もあった。そして今は一時も忘れたことのない、『静川咲良』の姿がそこにはあった。
それらはすべて、紛れもなくさくらの過去だった。いや、未来なのかもしれない。時間の軸はもはや意味をなさないものだった。
「さあ、さくらさん、こちらへ来てください。ほら、連れてきなさい」
ローゲンスはそうフリーゼに命令すると、目を見開き、さくらの元へと近づいていった。
「通すわけにはいかんな」
父猫がそう言ってさくらの前に立ちはだかった。
「そうですか。では仕方ありませんね」
ローゲンスがそう言ってふたたび手のひらを天に掲げ、魔力をその先に集中させた。
それと同時にフリーゼは瞬時に飛翔し、吹雪とともに二本の妖刀を空を切り裂くように投げつけた。
「姫よ、またも痛い目に遭いたいのか!」
父猫はその向かってくる妖刀の刃を衝撃波で弾き返し、鈍い金属音とともに大地を響かせた。しかしフリーゼはすぐに妖刀を手に戻し、逆手に構え、真正面から突進した。その勢いは以前負けを喫した時とは違い、明らかに洗練された動きを見せた。
「む」
電光石火の一撃を避けきれず、父猫はかすかに耳を切り裂かれた。
「ははは、どうしたのですかキャットシーよ。さあそのまま殺してしまいなさい」
ローゲンスの不敵な笑いはそこにいる全員の耳をつんざいた。ローゲンスはさらにフリーゼに対し、能力付与を重ねていった。
『何かが確実にあるはず』
さくらは頭の中に広がる空間にいた。その中で懸命に答えを探し続けた。今まで失っていたもの、探していたもの、見つけられずに見過ごしてしまったもの、諦めてしまって途方に暮れた過去を振り返っていた。
「オオイナルセンジン……ケス…………」
フリーゼの虚な瞳に微かに映る父猫を正面に捉え、ローゲンスに付与された能力を最大に増幅させ、膨大なエネルギーを身体中から放出させながら宙に浮かんでいった。
「姫よ!それ以上は危険だ!意識を取り戻すのだ!」
父猫の声は遠く、フリーゼの耳には届かなかった。もはやフリーゼの意識は、遥か遠くの彼方へと放たれてしまっていた。
『まさか……ここは……そうなの……?』
さくらは自分の感情の渦に巻き込まれている小さな記憶をそっと掬い上げた。遥か宇宙の彼方だと思い込んでいたかつての故郷、その景色を脳裏に映し出していた。そしてさくらの中の鎖は、弾けるように断ち切れた。
「うははは!さぁフリーゼよ!我々の邪魔をする鬱陶しいあのネコどもを根絶やしにするのだ!」
膨れ上がっていく熱量を限界まで放ち続けていくフリーゼの身体から、ついに大きなエネルギー体が放たれようとしたその時
「ぼたんちゃぁあん!!」
さくらの叫び声がこのミンチェスティ広場に響き渡った。大聖堂の鐘や晩秋の大気を震わせ、エリック、きなこ、母猫、そして父猫ですら目を伏せ、全てのものの鼓膜に打撃を与えた。
大音声となったさくらの声にフリーゼは反応した。増幅させ続けていたエネルギーは瞬時に消え失せ、フリーゼの瞳に光が宿った。しかしそのすぐ後、ふっとフリーゼは瞼を閉じ、完全に意識を手放した。
「な……なんだと……!私の魔力が……失われてゆく!!」
ローゲンスの額に汗が伝い、制御が効かなくなったフリーゼを見上げて身体を硬直させた。
その隙を父猫と母猫は見逃さなかった。
落下に入ったフリーゼに母猫が飛びつき、柔らかい毛皮の背中で優しく受け止めた。父猫は渾身の力を込めた裏拳でローゲンスの顔面に致命的な一撃を食らわせた。ローゲンスは硬く冷たい石畳の上を転がり、大聖堂の壁面にその身体を激突させた。
「縛り上げよ!」
父猫の張り上げた声を聞いたエリックは痛む足をかばいつつローゲンスに駆け寄り、手錠をかけ、解いた腰紐をローゲンスの鶏ガラのような細い身体に幾重にも巻きつけた。
「ぼたんちゃん!」
さくらはすぐに駆け出した。フリーゼを落下から救った母猫の慈愛に満ちた顔には「大丈夫よ」という言葉が浮かんでいるようで、さくらはその表情を見て安心したように胸を撫で下ろした。
「さくらちゃん……ごめんね……」
フリーゼはかすれた声で振り絞る。揺れる瞳の奥には、確かに普段のフリーゼの色だった。
「ううん……ぼたんちゃん……ごめんね……」
横たわるフリーゼの手を握り、震える唇でさくらはフリーゼに応えた。
「きなこちゃんは……?」
フリーゼはなおも消え入りそうな声をさくらに向ける。
「大丈夫。生きてるよ」
さくらは目を細めフリーゼに見せた笑顔は、嘘偽りのないものだった。
「そう……よかった……ありがとう」
ほっとしたような表情を笑顔と共に浮かべたフリーゼは、温かい母猫の背中で深い暗闇へと誘われていった。
「平気よ。エネルギーはすでに消えているし、魔力も感じないわ」
母猫がそう言うとフリーゼの体に目を向けた。ハッとしたさくらはフリーゼの甲冑を外し、胸のあたりを優しく開いた。そこには以前見た魔導の印が消えていた。
「ああ…………よかった…………」
さくらの目から熱い涙がこぼれた。この世界に降り立ってから、初めて溢れさせた感情だった。さくらは安心したのかふっと意識が途切れ、膝から崩れ落ちた。石畳に頭を打ち付けないよう母猫はそっと手を伸ばし、さくらを受け止めた。
「さくらちゃあん!」
この顛末を陰で見守る群衆の中にいたリゼロッテがさくらたちに駆け寄った。倒れゆくさくらの身体にしがみつき、唸りをあげるような嗚咽を漏らす。
「さくらちゃん……!さくらちゃん……さくらちゃん……!」
叫び続けるリゼロッテに母猫は穏やかな目を向け、冷たい風に吹かれぬようフリーゼと共に三人を柔らかく包み込んだ。
「エリック警部補。これはどういった状況であるか、署で説明をしてくれるか」
シド・トゥルーガー警部が元上司の町探偵ノベル・スプリングと共に現れた。ローゲンスを拘束し、その身体の傍で息をあげていたエリックは、シドたちを見上げた。
「はっ……私はもうすでに職務を辞しておりまして」
シドは胸の内ポケットから、エリックが提出した『辞表』を取り出し、ひらひらとさせながら見せつけた。
「エリックくん。『辞表』という名の文書は高官が記すものなのだよ。よって、これは無効とする」
シドはほんの微かに笑みを浮かべながらそう言うと、封筒を両手で握り、ビリビリに破いて捨てた。
「おいエリック。おめえやるじゃねえか。あっちの女の子たちも無事みてえだぜ。よかったな」
探偵のノベルは、やたらと細い身体に似合わない髭を生やした口にタバコを咥え、軽い口調でエリックを安心させるように言った。
「ああ……よかった……ありがとう……ございます……」
そう声を振り絞り、エリックもがくりとその場に沈み込んだ。その身体をシドはがっしりと肩に担ぎ上げ、警視庁へと向かった。そのほか、無数に駆けつけた警官たちがローゲンスの身柄を確保し、担架に乗せてシドとノベルの後を追った。
「大いなる戦神・キャットシーよ」
その声を聴き、父猫は声の主に向き直った。
「此度は大義であった。状況が落ち着き次第、のちに宮殿への来訪を願う」
「パルデスブレイディオ、我も主に思うところがある。望むところだ」
そう父猫が示すとその者は踵を返し、横顔をチラリと向け、かすかに笑みを浮かべながら広場をあとにした。
その時ミンチェスティの乾いた初冬の空に、午前零時を告げる大聖堂の鐘の音が、厳かに響き渡っていた。




