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とんかつ屋の悩みごと  作者: 藤沢春


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68 鴉

 店から一歩道路へ足を踏み出した途端、耳から脳髄まで届くほどに、頭の中で蝉の声が響き渡った。今年の初夏は妙に蒸し暑い日が続く。店で着ているいつもの背広では、出歩くには向いていなかった。私はこの少々暑苦しく動きづらい服に嫌気を感じながら、鉄鋼商会へと続く砂利道を歩いていた。特別な用事はなかったが、以前から依頼していた『(つち)』が出来上がる頃だろうと思い、市井の巡回がてら足を向けたのだ。


 相変わらずイースト地区は埃っぽくてかなわない。私は手ぬぐいを取り出し、口元にあてて砂埃を防ぐ。ここ最近は身体の不調が続いており、持病の胸の苦しみが絶えない。気道と思われるあたりがヒューヒューと鳴る。

 さっさと用を済ませて立ち去ろう。そう考えていたとき、目当ての工場から大勢の声が聞こえてきた。私は歩調を緩め、忍び足で工場の事務所近くまで寄った。こんなとき、蝉の声が足音をかき消してくれるのは都合がよかった。


 おや、なにか実験の最中だろうか。私は様子を伺いながら、内容が聞き取れる限界の距離まで近づいた。気配を悟られることなく接近するなど造作もない。任務遂行のために訓練してきた技術が役に立つ。まるで草むらに潜み獲物を狙う蛇のように、私はそのまま聞き耳を立て続けた。


「おいしくなーれ」


 ああ、あの二人か。随分と交流の幅が広がったものだな。あれほど特殊な能力があれば、これほどの関係を築くことなどそれこそ朝飯前なのだろう。しかし前王も物好きだ。私としては、もう少し『やる気』を出してくれればありがたいのだが。それに他にいるのは……姫とエリック、ジェイ、それと先生だ。最近、先生からは芳しい報告が上がっていなかったが、こんなことをしていたのか。しかしこの集まりは何なのだろう。私はもう少し様子を伺い、事の成り行きを見守ることにした。

 そのとき、小さな破裂音が聞こえた。何だあれは。どうやら先生が例の二人に指示を出した後、あの音が響いたようだ。さらに気づかれない場所へ移動し、意識を集中させた。


「起爆のきっかけはおそらくお二人、もしくは魔獣であるきなこさんでしょう」


 ははあ、つまりあの二人が並外れた能力を持ち合わせていることを、先生が証明する集まりなのだな。察するに『小さな破裂を起こさせる何か』を二人にさせているのだろう。まったく、先生も何にでも首を突っ込むものだ。研究者の探求心というものは底知れない。しかしこの二人からいくら何でもそれほどの力は引き出せないだろうし、そこまで強い力は持っていないはずだ。そう思った直後のことだった。


「もしこれが酒や水ではなく、『魔力』だとしたら、どうなると思いますか?」


 何だって?魔力を用いるだと?そんな馬鹿な。今現在、魔力を制御できるのはごく限られた人種だけだ。最初から聞いていたわけではないので、このやり取りが熟慮を重ねた研究の結果なのかは想像でしか掴めない。だが察するに、この二人が異能を発揮し、樽一つを爆発させる何らかの力を発揮した。そしてそれを先生が解析しようと躍起になっている。恐らくそういうことだろう。


 なるほどなるほど……しかしこれはいいものを見た。正直なところ、私の想像を遥かに超えていた。へえ……そうですか……ふむふむ……これはこれは……なかなか……。いや、もはや私の考えはまとまるはずもなかった。想像を超える事案であることは先ほどから頭の中を巡り続けていて、何を考えていいのかすら分からなくなっていた。樽が爆発……?そんなことがあるのか……?


 一瞬の刹那に逡巡していたら、事務所内部で動きがあった。解散の流れだ。空気を読んだ私はすぐに身を翻し、街の物陰に潜んだ。内部にいた者たちに気づかれた様子はなかった。姫とジェイは前王と共に帰路につき、先生もお付きの者と共に帰っていった。そしてしばらくの後、例の二人が事務所から出てきた。少女の方はぐったりとした様子で元気がなく、猫の方が少女の表情を伺いながら歩き出していた。


 ほう。彼女たちの憔悴しきった表情を見るに、あまりこの件には乗り気ではないのだろうか。なるほど……ね。私は何事もなかったかのように改めて事務所を訪れ、依頼の件を話した。そしてまたブルーウッドへと戻ることにした。先ほど目撃した光景を胸の中で反芻(はんすう)する。分かるはずもない、想像することすら許されない、そしてまとまるはずもない思考をいつまでも巡らせながら帰路についた。



 私はいつまでこんなことをしているのだろう。店に戻ってから、今日見たことではなく自分の人生そのものを振り返っていた。過去を思っても仕方のないことは分かっている。しかし、やはり憎悪というものは幾度となく押し寄せてくるし、思い出すたびに果たすべき任務を再認識する。もはや自分のためなのか、どこが終着点なのか、これが何のためなのかすら分からなくなっていた。軽く頬を叩き、気を入れ直す。いや、やらねばならんのだ。ここまでやってきたのだ。やってこれたのだ。そして姫をあそこまで作り上げることができたのだ。今更引き返すことなど……今更…………。

 そんなことを考えながら、ブルーウッドの夜は更けていった。




 鳥のさえずりに耳を支配され、ひどく不快な目覚めと共に胸と胃の痛みを抑えた。重い体をようやく引き起こす。どうやら店のソファで倒れるように眠ってしまったようだった。髪と(ひげ)をコームで整え、襟を正して顔を洗いに行く。鏡に映る自分の顔は酷いものだった。


 そんな顔をいつまでも眺める趣味はないので、すぐに手ぬぐいで顔を拭き、生豆を煎り、細めに挽いて珈琲を淹れた。濃い目にいれた珈琲は胸の痛みを刺激した。そして改めて昨日のことについて考えてみた。様々な考えが巡るが、やはりまとまるはずもない。何しろ情報が少ないのだ。

 私はまた珈琲に手を伸ばし、二口目を口にした。今度は胸の痛みは感じず胃袋に到達したが、代わりに胃痛の方を刺激し始めている。不調を気にしながら飲む珈琲はとにかく不味い。朝の習慣を緩慢に行いながら、ある一つのことに気がついた。


 先生は最近、私への報告を絶っていた。重大な研究をしている気配はあったが、あれほどのことがあれば私に少しは報告があっても良さそうなものだ。それに、どうやら酒の研究中に別の事案が発生したかのような口ぶりだった。

 次第に思考が整理され始める。なるほど、そういうことだったのか。あの連中と酒樽を巡って研究していた際、偶発的に別の現象を引き起こした。それがあの場の全員を唸らせるどころか、顔面を蒼白にさせる何かに発展した。ここまでは容易に想像がつく。


「魔力だとしたら——」


 あの言葉が気になる。酒がもっと何というか……いや、違うな。もっと先生を唸らせる何かが起きたのだ。キリキリと痛み出した胃に、湯で薄めた珈琲を流し込んだ。魔力を加えれば爆発の威力が上がるどころか、その規模も制御できるようになるかもしれない。


 先生がどこまで考えているかは未知数だが、私が想像できるくらいだ、先生はもっと先を見据えているだろう。いや、もはや先生は『完成』させているのかもしれない。いや、そうに違いない。研究者たるもの、途中で研究を投げ出すはずがないのだ。基礎は既に出来上がっていて、あとはあの二人の『きっかけ』が必要なのだと理解しているはずだ。それであえてあのように見せて、反応を伺った。それが、あの少女の蒼白な表情に繋がったのだ。なるほど……そういうことか……。


 ようやく考えをまとめた私は、すぐに行動に移した。今日はもう店などやっている場合ではない。私は黒の装束に身を包み、まだ紫の色が残る空を見上げた。早朝のブルーウッドの石畳を、鳥の飛翔と共に駆けていった。

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