65 憂鬱なリゼロッテ
「ああ……また負けたのです」
「うふふ、また勝ちました」
いつもの「とんかつ さくら」のディナータイム終了後、わたくしとさくらちゃんは、この二階座敷にて乾杯するお時間なのです。ここのところ、わたくしたちの嗜好はいくぶんか変わっており、ワインとエールを半々で割った『ビア・スプリッツァー』なるものを嗜んでいるのです。それほど強く酔うわけでもなく、それでいてほのかな甘さと苦さがマッチした、一風変わったカクテルを試しているのです。
「さくらちゃん、とんでもなく強いのです。とてもじゃないけど、わたくしでは太刀打ちできないのです」
「ううん、そんなことないよ。リロちゃん、もっと強くなれるよ」
最近はこうしてさくらちゃんにチェスのお相手をしていただいているのですが……おかしいのです。さくらちゃんのチェスの指し方は、あまりにも強すぎるのです。さくらちゃんは『もっと強くなれる』的なことをわたくしに言っていますけれど、絶対に本心で言っていないのです。なんというか、ただの技術や考え方だけで勝てるような雰囲気ではないのです。
わたくしごとではありますが、もうそろそろ「チェスグランドマスター選手権大会」、の予選地区トーナメント、へ進むための選抜選考会、に進むための市民大会があるのです。まあ要するに、前回ダメだった人は最初からやりなおせ、ということでございますのです。年に一度の選手権に出場するためには数々の関門を突破する必要があり、その選考には約一年かかるのです。
そのための特訓をずっとしているのですが、なかなかある程度のところから上達せず、いつもお世話になっている『お師匠様』にも、このままでは教えてもらう意味がなくなってしまっているのです。同じような指導だけでもよくないし、多くの人と対戦をし、研究会をもうけ、そして試合をすることでより研鑽を積む。これこそがお師匠様のおっしゃる『チェスがうまくなる近道』なのだそうなのです。
ですので、こうやってたまにさくらちゃんにも対戦相手になってもらっているのですが
歯が立ちません。
というよりも、誰よりも強い気がします。あの……大変申し上げにくいのですが、お師匠様よりもはるかに上のような気がするのです。
しかも、今わたくしはまだお酒を飲んでいないのですよ?いつもチェスの対戦が終わってから、頑張ったご褒美として飲ませていただいているのですが、一方でさくらちゃんはガブガブ飲んでいるのです。まるで片手間のついでのように、わたくしのチェス相手をしているのです。最近はこのビア・スプリッツァーに合うようにと、特別にきなこちゃんにお願いして、お店ではお出ししていない『天ぷら』なるものを作ってもらい、それを肴にお酒を飲んでいるのです。
悔しいのです。なぜこのような飲んだくれに、わたくしは負けなければならないのかと思うわけなのです。それにさくらちゃんは、以前わたくしが「さくらちゃんはチェスはできますか?」と尋ねたとき、「うん、できるよ。でも、人に教えられるほど強くはないかな」と言っていましたのです。
いや、これは絶対に人に教えていた人の指し筋なのです。お師匠様のお師匠様なのではないかと思うくらいなのです。指し方に迷いがないのです。
チェスというのは完全に経験がものを言う競技です。運の要素は一切ございませんのです。あるとすれば『うっかり』くらいなものです。このうっかりというのはですね、人間というものは必ずどこかで集中力が切れたり、あまりに先を読みすぎるあまり着地点が見えなくなってしまったり、現時点の手に頭を戻せなくなったりしたときによくありがちな現象でして
話が逸れましたが、端的に言うと「戦法や棋譜を全部覚えることができるのなら、それが一番強いのだ」と、以前お師匠様もおっしゃっていましたのです。さくらちゃんの指し方はまさにそれ、まるで『古今東西すべての棋譜を暗記している』かのようなのです。わたくしが指したあと、ノータイムで指し返してくることがほとんどなのです。さくらちゃんがチェス大会に出てしまったら、無双してしまうのではないかと思うのです。
悔しい。ただただ悔しい。その一言であります。ですが、もうこれ以上根を詰めてやっていても仕方ないですし、頭を悩ませ過ぎるだけですので、今夜はこのくらいにしておこうと思うのです。
そのあとはいつものように、さくらちゃんと、油の仕込みを終えたきなこちゃんと三人で一緒に、美味しいお酒と揚げ物でこの日の営業の打ち上げをして終わりましたのです。
わたくしは最近、以前にも増してしみじみ思うのです。
「この一杯のために生きている」
そう思うのです。
この日の夜も執事様のお迎えがあり、わたくしは帰宅の途についたわけなのです。お家に帰ると、珍しくお父様が声をかけてきたのです。
「リロ、お疲れ様」
「お父様、ありがとうございます。ただいま戻りました」
「さくらさんときなこさんにお変わりはないか」
「ええ、変わらずお元気でございますよ」
「いつも思うのだが、さくらさんはいつお休みをしているのだ?この間作ってもらったチェスセットなど、一昼夜かそこらで出来るものではないのだがね」
「最近はちゃんとお休みをとっているようですよ。つい先日も王立公園にお二人で遊びにいったようです」
わたくしとお父様は少し長い話になりそうでしたので、メイド様がお紅茶をいれてくださいましたのです。お庭が見えるこのダイニングは大きな窓がありまして、わたくしはこの窓際のカウンターに座るのがお気に入りなのです。そこへわたくしとお父様は並んで座り、お父様は『さくらウイスキー』をロックで、グラスを傾けていましたのです。
「ほう、お二人の始まりの公園だね」
「そうですね。あの方たちのすべての始まりなのでしょう」
わたくしはお出しいただいたお紅茶に角砂糖を十個入れましたのです。今日のお紅茶は少し香ばしい香りがしましたのです。
「リゼロッテ、あのお方、さくらさんは一体何者なんだい?」
「何者、とは」
「お前もよくわかっているだろう。おそらく周辺の人間の中では一番時間を共有しているのがお前だ。さすがにそろそろ何かを知っているのではないかね?」
「わたくし、さくらちゃんに何も思っていませんわ」
「リロ、隠さなくていい。私とてさくらさんに何かをしようとは思わんさ。しかしだな、きっとあのお方は私、いやこのセンチュリオンにおいて重要な人物となり得るだろう。いや、そうに違いないのだ」
「お父様、あまりつまらない話題でしたら、わたくしもう疲れましたので、お部屋に戻らせていただいてもよろしいですか?」
「リロ、聞きたいのだ。あのお方の為すことを見てみたい。さくらさんが秘めている能力、すべてを——」
「もうイヤです。お父様、嫌いです」
「リロ」
そう言ってわたくしは、お父様の最後の呼びかけにもこたえず、ダイニングから自分の部屋へと逃げ込むように帰りました。
いつからでしょうか、わたくしはお父様のことをこんなにも苦手になってしまったのは。いえ、変わったのはわたくしではないと思うのです。お父様がさくらちゃんのことを知ってからというもの、特にあのチェスセットの件から、お父様のさくらちゃんに対する見方が大きく変わってしまったように思うのです。
「さくらちゃん……きなこちゃん……」
あまり考えたくはないのですが、あんなことを言われてしまっては、考えたくなくても頭の中を支配されてしまうのです。隙間のないくらい、頭の中はそれでいっぱいになってしまっているのです。
「さくらちゃん……何者なのでしょう……か」
わたくしはお二人のことをとてもお慕いしているのです。大好きなお二人なのです。リンフィーナ様に対する敬慕とはまた違った想いなのです。本当に巡り合わせというものに感謝していますのです。わたくしはあのお二人に出会わなかったら、本当につまらない学院生活を送っていたに違いありません。
さくらちゃんの知識や智恵、ものの考え方や見かた、あらゆることを察する力、包容力。
そして、『不思議な能力』。
それらが、いまわたくしの人格を形成する全ての要素となっているのです。大切なものすべて、あのお方から学んでいる気がするのです。
(リロ、あなたのことが羨ましいですわ)
いつか言われたリンフィーナ様のお言葉。
(本当に大切なことは目には見えないものなんですの。あなたはいま、まさにそれを感じているのですわ)
リンフィーナ様のお言葉はいつも的確で、それでいてどこか抽象的で、わたくしには直接届きません。しかし、いつも考えさせられるのです。もちろんリンフィーナ様は、それを思っておっしゃってくださっているのです。自分で考えて、考えて、考えて、一つの答えに達すること。それが一番身につくものなのだと、幼い頃からリンフィーナ様はおっしゃってくださいました。
わたくしはいずれ外国に行かねばなりません。チェスの大会は言い訳にすぎず、どのみちわたくしは留学する運命にあります。それはフリージア家としての使命であるとともに、わたくしの嫁ぎ先ともなっているのでしょう。わたくしに異存はございませんのですが、どうしてもやっておきたいことがあるのです。
それは、さくらちゃんときなこちゃん、お二人のおそばで学ぶべきことを学んでおきたいのです。本当に大事なことは目に見えない。それをもっと肌で感じ取りたい。もっともっと仲良しになりたい。心からそう思うのです。
でも、チェスで何回も何回も負けるのは、とっても悔しいのです。嗚呼悔しい!もっと精進せねば。もっと棋譜を覚えなければ。学院の勉強とともに、毎日毎日チェスの棋譜並べをして、さくらちゃんに挑む日々を繰り返しているのです。
そして、予選大会を迎えた初日。
初戦のお相手は、これまたいつも悔しい思いをしています小学生の男の子なのです。これまでの対戦成績はほぼ互角。現在の勝率はタイなのです。ライバルと言ってもいいでしょう。この子はとても可愛いのですが、わたくしが駒を進めるたびに首をカクッとかしげたり、「ああ、そう進めるんだぁ」とか言って、いちいちわたくしの心を揺さぶり、撹乱させてくるのです。
勝負は時の運とも申しますけれども、このお方と対戦するときはとても神経を使うのです。心理戦でまず負けているような気がするのです。しかしこちらは猛特訓したのです。負けはしないのです。
さぁ、かかってきやがれなのです!
——あれ?
勝ってしまいましたのです。しかも過去最短手数で勝ってしまいましたのです。




