50 計画の真意
夕暮れ時のミンチェスティ。影が長く伸び、カラスが家路を急ぐ人々に夜の訪れを告げるころ、一人の男がメインストリートを力なく歩いていた。
「はぁ……疲れた……」
足取りは重く、メガネは斜めに傾き、七三に分けた髪は乱れている。少し白髪が混じり、グレーの背広はクタクタに疲れ、ズボンの後ろ側は座り仕事のせいでテカテカに光っている。身なりだけでなく顔色もひどく悪いため、通りすがりの人が声をかけるべきか迷うほどだった。
「ようやく終わった……」
男の名はダミアン・ストラホフ、二十八歳独身。彼女なし。ミンチェスティからブルーウッド・ノース地区へ向かう、ちょうど中間あたりの場所に住んでいる。いつもの帰宅時刻ごろ、大型マーケット『グランデ・マルシェ』に立ち寄る。夕暮れ時は安くなった見切り品が出るため、そこで惣菜やパンを買い、どこへも寄らずに真っ直ぐ帰るのが彼の日常だった。
「うわ、なんで今日は半額スタンプがついていないんだ……」
ダミアンはがっかりした。特に趣味もなく、食に対するこだわりもない。そんな彼が自炊をするはずもなく、疲れきったこの日に限って目当ての品が安くなっていないことに落胆した。
「くそぅ……今日はついてないな……」
とぼとぼと店を出るダミアン。そのまま帰ろうとしたとき、通りすがりの女性とぶつかりそうになり、声をかけられた。
「先輩? ダミアン先輩じゃないですか。どうしたんですか、そんなにしょんぼりして」
「……ああ、ユリアさんか……うん……放っておいてくれないか……」
彼女は職場の同僚、ユリア・ヴィアチェスリア。ダミアンと同じ職場で働く、新卒二年目の二十二歳だ。百七十センチを超える長身で、学生時代はボール競技や陸上の選手をしていた『セミアスリート』としても知られる彼女は、いつも活気に満ちていた。
「いやいや、そんな姿を見て放っておけるわけないですよ。ようやく確定申告の集計が終わったんですもんね。本当にお疲れ様です」
この時期の役人はとにかく忙しい。国民全員分の前年の収支報告をまとめなければならないのだ。公僕とはこうして、目立たないところで国を支えているのである。
「いや……君も外回りで大変だろうに……そんなに元気はつらつとしていて、いいねぇ……」
「私は今の仕事が大好きですから! やりがいがあります!」
そう言ってユリアは、力強く上腕二頭筋を見せるポーズをした。彼女は二年目に入ってから、別の部署からダミアンと同じ課へと異動してきた。内勤のダミアンとは違い、ユリアはその明るい性格から、人と接する今の仕事が向いていると判断されたのだ。
「へぇ……そうかい……それじゃあ僕はこれで……」
「ちょっとちょっと! なんで帰ろうとするんですか。ほら、一緒にご飯でも食べに行きましょう!」
「ええ……嫌だよ……僕は外食が苦手なんだ……お金もかかるし……」
「何言ってるんですか。たまにはいいじゃないですか。どうせ先輩、普段から全然お金を使っていないんでしょう?」
「人の財布の中身を詮索しないでほしいな」
「いいから、早く!」
ユリアに無理やり腕を掴まれ、ダミアンは抵抗できず、引きずられるようにして彼女の後についていった。
「私、ここに入ってみたかったんですよね」
「うわ……すごく混んでいるじゃないか……僕は嫌だよ、並ぶのは」
「それだけ美味しいってことですよ。ほら、並びましょう」
二人は行列の最後尾に並んだ。待っている間も、小さな窓からお弁当が飛ぶように売れていき、ユリアはその活気ある店の雰囲気にワクワクしていた。
「先輩、楽しみですね!」
「そうかな……あと、その『先輩』っていうの、やめてくれないか? 学生気分が抜けていないね」
「あ、すみません。ずっと体育会系で育ってきたので、つい癖になっちゃってるんですよね」
そんな話をしながら待つうちに、ようやく二人の順番が来て、店の中へと案内された。
「いらっしゃいませなのです。お二人様でよろしいですか?」
「はい! 職場の先輩と来ました! あ、また言っちゃった」
「とてもお元気なのです。ではこちらへどうぞなのです」
ダミアンとユリアはすぐに席へ案内され、メニューの説明を受けた。
「先輩、お酒も飲めるみたいですよ。少し飲みましょうよ」
「僕はいいよ……」
「ハイボールってやつを二つお願いします!」
「かしこまりましたなのです。少々お待ちくださいませなのです」
ユリアに勝手に注文され、おつまみも何品か出してもらうことになった。
「先輩、楽しみですね!」
「君はさっきからそれしか言っていないじゃないか」
「だって、お腹が空いたんですもん!」
正反対のテンションの二人の前に、すぐに冷えたハイボールが運ばれてきた。同時におつまみとして、魚のフライ、エビフライ、お漬物、そしてなぜか温かいお味噌汁が運ばれてきた。
「お待たせしましたなのです。こちらのお味噌汁は、お二人にサービスですと店主が申しておりましたのです。ごゆっくりどうぞなのです」
どうやらこのお味噌汁は、くたびれた様子のダミアンのために店主がサービスしてくれたものだった。
「先輩、どういうことでしょうね?」
「わからないけれど……まあ、食べてみるよ」
ダミアンはそう言うと、さっそくその味噌汁に手をつけた。一口すすって「あつっ」と口を離したが、湯気とともに立ち上るいい匂いに誘われ、すぐに二口目を口に含み、慎重に喉へと流し込んでいった。
「…………はぁぁぁああぁぁ………………」
ダミアンは目を閉じ、がっくりと肩を落として、お椀をテーブルにコトリと置いた。
「先輩……? 美味しくなかったんですか?」
ユリアは心配そうに、ダミアンの顔を下から覗き込んだ。相変わらず目を閉じ、その一口の余韻を噛み締めていたダミアンだったが、次の瞬間、カッと目を見開き、残りの味噌汁を一気に飲み干してしまった。そのあと勢いよく立ち上がったダミアンに、周りの客が何事かと視線を集中させたが、ようやく我に返ったダミアンは、恥ずかしそうにまた席に座った。
「先輩、どうしたんですか」
「この『味噌汁』が、本当に美味しいんだ。疲れがどこかへ飛んでいってしまったよ」
「そんなに? でも本当に、美味しそうに飲んでましたもんね」
二人はハイボールで乾杯し、おつまみのお漬物にも手を伸ばす。
「これもうまいな。なんだか不思議な味がする」
「そうですね、コリコリしてて美味しい!」
「これもなんだか、疲れが取れる気がするよ」
「塩気があって、運動の後にも良さそうですね」
二人は運ばれてきた食事を楽しみながら、そんな話を交えて楽しそうに箸を進めた。
「お二人は同じ職場なんですか?」
店主がふいに二人に問いかけてきた。なぜこの人は話しかけてくるのだろうと思いつつも、二人は店主と会話を続けてみることにした。
「ええ、職場の同僚なんですよ」
「後輩です!」
「そうなんですか。とても仲がよさそうですものね」
ダミアンは眉を八の字にして首を傾げた。『一体どこを見てそう思うのだろう』と。
「そうなんです! 私は先輩を尊敬しているんです!」
「ええ? なんだって? そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないか」
「そんなこと、面と向かって言えるわけないですよね」
「うふふ。積極的ですね」
店主はそんなユリアを見て、微笑ましく思っていた。ダミアンはなんだか居心地が悪いと感じ、早く店を出たくなってきていた。
「どんなところを尊敬しているんですか?」
店主が問いかけると、ダミアンは「まだ続くのか」と思ったが、次のユリアの言葉にハッとさせられた。
「はい、もちろん仕事の上でも信頼できる先輩なんです」
それまでの元気な様子とは打って変わり、ユリアの顔に少し影が差した。
「私が今の部署に異動になったのは、怪我をしたからなんです。私は公務員でありながら、競技者としてこの役所に入りました。でも一年目で大怪我をしてしまい、競技を続ける道は断たれたんです。役所は私の他の能力を認めてくれて今の部署に入れてもらいましたけど、当時は「もうここにはいられない、辞めたい」と思っていました」
ダミアンは、どこか遠くを見るような目をした。
「そんな時に、先輩が声をかけてくれたんです。『この部署は大変だけれど、きっと君にもやれることはあるよ』って」
店内に、しんとした静寂が訪れた。
「『人生は一度きりだよ。怪我は残念だったけれど、僕にできることがあれば何でもするから相談してね』って。『これからたくさんいいことがあるように僕も協力するよ』って。私はその一言に……とても救われました」
「ぼ、僕はそんなことを言ったっけ?」
「言いましたよ。忘れちゃったんですか?」
ユリアは少しうつむき、照れくさそうに身をよじっている。
「あらら。これはこれは、思わせぶりなことを言ってしまいましたね」
店主もまた、ユリアを助けるように言葉を添える。
「いや……ええと……忘れたというかなんというか……」
「ああ、先輩。そうやって誤魔化すところがありますよね。ひどいなぁ」
呆然とするダミアンだったが、思い直して姿勢を正した。
「そうだね、ごめん。ユリアさん、すまない。僕は仕事の忙しさにかまけて、大事なことを誤魔化したり忘れてしまう癖があって良くないよね。ごめんなさい」
ダミアンは人目を気にせず、深々と頭を下げた。ユリアは慌てて、顔を上げてくださいと彼をなだめる。
「でも決して心にも無い言葉は言ってないつもりだ。それは信じてほしい。仕事以外何もできない僕は今、とてもだらしない生活をしていて、人様と関われるような状態じゃない。けれど、誰かがいてくれたらな、と思うこともあるんだ」
ダミアンはまっすぐに、ユリアを見つめた。
「え……じゃあ……先輩……」
「あ、いや!ちょっと待ってね! す、すぐには僕も心の準備が……」
「うふふ……先輩のそういうダメダメで情けないところも好きです。あ、言っちゃった」
二人して顔を真っ赤にし、必死に汗をぬぐうダミアンとユリア。店主は小さく拍手をして、二人を祝福した。
「はいユリアちゃん、あーん」
「あーん」
あの日以来、ダミアンとユリアはこの店の常連となり、すっかり熱々な様子を見せていた。周りの客が目をそらすほど、見ているこちらが恥ずかしくなるような仲の良さだ。
二人は結婚を決めたらしく、ユリアは仕事を辞めるという。忙しいダミアンを支えながら、二人は幸せな家庭を作っていくのだろう。
とんかつ屋の店主はそんな二人を見つめながら、どこか懐かしい気持ちに浸るのだった。




