32 静寂と運命の中で
フリーゼはライテスを迎えに一度王宮へ戻り、ジェイムズたち大工連中も身支度を整えるため、いったん帰宅した。
その間に、さくらときなこ、そしてリゼロッテの三人で、これから催されるイベントに向け、数多くの料理を仕込み、酒と炭酸水を瓶に詰めて準備を進めていた。
初めて使う『お座敷』ということもあり、三人の気分は自然と高揚している。
営業を終えたばかりだというのに疲れた様子は見せず、和気藹々とした空気のなか、支度に勤しんでいた。
「リロちゃんのご家族は、何時ごろになりそうなの?」
「はいなのです。もうすぐ来てくれると思うのです」
「リロの家族が四人で、ジェイムズたちが大工仲間で八〜十人、エリックにライテス前王、それからフリーゼとボクたち三人……二十人近いけど、大丈夫かにゃ?」
「うふふ、大丈夫だと思うよ」
お座敷には多くの利点がある。
椅子を使わず、テーブルの配置も自由自在だ。長い卓を並べれば大人数で一緒に過ごせるし、分けて置けば複数のグループにも対応できる。
さくらの店の二階は空き部屋となっており、広さは約三十五平米。坪に換算すれば十坪ほどで、およそ二十畳の比較的大きな部屋だった。
そこに畳を敷き詰め、簡易昇降機を設置し、土間を下りた先には手洗い所も用意されている。
注文が入れば料理は一階から昇降機で運ばれ、配膳はセミセルフで行える仕組みだ。
「早く飲みたいねぇ」
「早く飲みたいのです」
「……手、震えてないかにゃ。この二人」
皆が集まる時を、今か今かと待ちわびる三人であった。
やがてリゼロッテの家族が姿を現し、さくらときなこは頭巾を外して挨拶をする。
「いらっしゃいませ。この度は、わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「あなたたちが、さくらさんときなこさんですね。リロからかねがね伺っておりました。こちらこそ、ご挨拶に伺うのが遅くなり、申し訳ございません」
紳士ロレンツォ・フリージア。商家でありながら貴族の家系に連なる人物である。
シルクハットをすらりと脱ぎ、胸に当てて一礼するその振る舞いは実に流麗で、まさに気品の集約といった風格を漂わせていた。
「とんでもございません。私たちはリゼロッテさんにいつも助けられていますよ」
にこやかな笑みを浮かべながら、さくらはそう答え、さりげなくリゼロッテへと視線を向ける。その言葉には、日頃からの関わり方と信頼の深さが自然と滲んでいた。
「内気だったリロが接客など務まるのかと心配しておりましたが、あなた方に支えられている様子が、いまこの瞬間ではっきりと伝わってきます。本当に感謝しております」
フリージア夫人が、夫の横でぺこりと頭を下げる。
それに応えるように、さくらときなこも、改めて丁重にお辞儀をした。
「先に二階へ上がっていてくださいなのです」
「その前に、お店を拝見してもよろしいかな?」
「あ、ぜひぜひ。リロちゃんが働いている職場をご覧になってください」
フリージア家は、夫、妻、妹、弟の四人で一階のテーブル席に腰を下ろし、店内を隅々まで眺めていた。
まずはウェルカムドリンクとして、リゼロッテは家族に、薄めたウイスキーのロックと炭酸水、そして果実ジュースを差し出す。
その後、大工連中も再び来店し、彼らもまたフリージア家とともに、一階で待機することになった。
さくらときなこは料理の追加に取りかかっていたが、それもようやく一段落しようとした頃、とんかつさくらの表から、静かながらもどこか物々しい気配が流れ込んできた。
「なんだろう?」
「なんだか、ものものしい声がするにゃ」
二人が顔を見合わせ、きなこが小窓から覗こうとした、その瞬間。
ガラリと、とんかつさくらの引き戸が開いた。
フリーゼがライテスを連れてきたのだろう、と、さくらときなこはいつものように迎えの構えを取った、その時
「…………ハッ」
「…………なんと」
「ははっ」
フリージア家、そして大工連中が、一斉に片膝をついた。
よく見れば、リゼロッテまでもが同じ姿勢を取っている。
「えっと……?」
「なんだにゃ……?」
呆然としたままの二人の視線の先にいたのは、フリーゼとライテス、そしてその後ろに立つ人物だった。
金色の装飾が施された重厚な黒の装束、ガチャリと音を立てる堅牢なハードブーツ。整えられた口髭と顎髭が威厳を添え、額を大きく上げたオールバックのミドルロングヘアー。
奥まった瞳から放たれる鋭い眼光は、鋼の盾すら貫きかねない迫力を宿していた。
その背後には、エリック以下、数名の警官が控えており、この人物の重要性を雄弁に物語っている。
「(さくらちゃん、きなこちゃん! こちらへ来てわたくしと同じ所作を取ってください!)」
珍しく切迫したリゼロッテの口調が、場の緊張をさらに高めていた。
言われるがままに従い、おたまを手にしたままのさくらと、揚げ菜箸を握ったきなこは、フリージア家の横に並んで片膝をつき、ぎこちなく片手を胸に当てる。
そして、その張り詰めた空気に風穴を開けたのは、警視庁警部補エリック・ヤングの声だった。
「皆さん、特にさくらさんときなこさん。驚かせてしまい、申し訳ございません。こちらにおられるお方は」
エリックは一呼吸置き、胸に手を当てて敬礼をし、続けた。
「こちらにおられるお方は、センチュリオン王国現国王、『パルデスブレイディオ・センチュリオン国王陛下』にあらせられます」
さくらの手からおたまが滑り落ち、鈍い音を立てて、とんかつさくらの床に落下した。
きなこの菜箸も、からからと音を立てて転がる。
二人は何も言葉を発せぬまま瞳を伏せ、ただ静かに敬礼を続けていた。
「よい。皆、面を上げよ」
「すまぬ」と低い声で言い、すべては自分の独断であると、パルデスは責を引き受ける。
それでも、どう振る舞うのが正解なのか分からないさくらときなこは、ひとまずフリージア家に倣い、同じ動作を取った。
「さくらちゃん、きなこ様、申し訳ない。父上が、どうしても私の働く姿を見たいと申して」
「そのようなことは言っておらん。フリーゼよ、出鱈目を申すな」
「いえ、父上は先ほど、確かにそう申されましたが」
父娘の応酬が始まっていたが、さくらときなこの耳には届かず、二人の背には冷や汗が流れ続けていた。
「もうこんな仰々しい挨拶はいらんじゃろう。ささ、その新しくできた二階へ案内してもらえんかの?さくらさん」
朗らかなライテスの口調に、さくらはようやく心を支えられた。
はっと我に返り、さくらときなこは先導して階段へ向かい、パルデス以下、王家の面々を座敷の上座へと案内する。
続いてフリージア一家、大工連中、そしてエリックが二階へ上がった。
フリージア家の執事と警官たちは、店の前で警備に当たる。
とんかつさくらは、一時的に物々しい雰囲気に包まれたが、近隣への配慮としてエリックが通達を行い、周辺は一時、立ち入り禁止となった。
そして、すべての準備が整ったところで——
この日のために樽から出したばかりのウイスキーと上質なエール、果実酒、そして果実ジュースが注がれ、とんかつさくら二階・座敷部屋の落成式は、盛大な乾杯とともに幕を開けたのだった。




