【第2話】
翌朝、学校に行こうと玄関を出たら、あのネコが庭をうろついていた。
「どうしたの?お腹でも空いた?」
ネコはあたしに寄ってきて、喉を鳴らした。
一度家の中に戻って、キャットフードの缶詰を与えた。
あたしは、ネコがキャットフードを頬張る姿を何時までも見つめていた。つい、食べ終わるまでその様子を見ていた為に、その日は学校に遅刻した。
夜になると、再び庭でネコの鳴く声がした。
「あら、何処かのノラかしらね」
母親が、リビングから外を覗きながら言った。
あたしはネコ缶を一つ持って、こっそりと外へ出た。
何時もは星なんて見えないのに、ほんの数粒の薄っすらとした星の輝きが、殺風景な夜空を飾っていた。
翌日の朝、玄関を出ると、またあのネコが来ていた。
思わずあの飼い主が住むアパートの206号室を見上げた。
あの人、いないのかしら………
「あれ?」
門の入り口から声がした。
「こんな所にいたのか」
彼は、頭がボサボサで、大きな鞄を提げていた。
「昨日、急な出張があってさ。今帰って来たんだ」
「昨日もここでご飯を食べたんですよ」
「いやぁ、ネコの本能で何とかするとは思ってたけど。キミの所へ来たんだね」
彼は頭をかきながら笑った。
彼はカメラマンのアシスタントをしていると言う。スタジオカメラマンだから、ほとんど都内を出ることが無いそうだが、時々出張があるのだとか。
「じゃぁ、その時は、あたしが面倒をみますから、言って下さいね」
あたしはそう言って、急な時の為に、携帯の番号も教えて学校へ向かった。
ある日学校から帰ったあたしは、最近いつもするようにカーテンを閉めようと窓に近づいた。
向かいのアパートの、二階の通路。確かに良く見える。ここから良く見えると言う事は、向こうからもよく見えるのだろう。
ふと通路に目が止まった。左端に何かがある。何かの荷物だろうか。
バックのようなものは直ぐに判った。あれは、この前彼が持っていたバックだ。その大きなバックと並んで大きな影が見える。
アレは何?
あたしはハッとして目を見張った。あれ、人だ。誰かがあそこに倒れているのだと気付いたのだ。
急いで部屋を出て、階段を駆け下りると、向かいのアパートに走った。
アパートはあたしの部屋から見て、右から201〜と部屋番号がふってある。だから一番左は、あの男の部屋206号室なのだ。
あたしは息を切らして階段を駆け上がった。
通路に倒れている人影。それに近寄ると、やはり彼だった。
その時、正直この男には興味が無かったと思う。ただ、ネコの主人がいなくなったら可哀相だし……… そのぐらいに思っていた。
「あの…… 大丈夫ですか?」
その声が聞こえたのかどうなのか、彼は微かに反応して、低く呻き声を出した。
うつ伏せに倒れていた彼を、なんとか仰向けにすると、顔色は真っ青で、なんだかわからない汗をかいていた。
「大丈夫ですか?」
額に手を当てると、明らかに熱くて、熱っぽいとか、そんなのは全然判らないあたしにも、彼が異常な発熱を起こしている事は判った。
「カギはどこ?」
彼は「うぅぅん」と唸るだけ。
「わかる?カギよ。ドアを開けないと入れてあげられないわ。部屋のカギは何処?」
今の彼には、あたしの質問は聞こえていないのかもしれない。
あたしは彼のポケットを探った。
「ごめんなさい」
ジーンズの前ポケットに手を入れるとき、思わず言った。ポケットの中がすごく熱かった。
早く熱を冷ましてあげないと。
後ろポケットにキーリングがあって、三つのカギがついていた。アパートのカギは見て直ぐに判った。それを急いでドアに差込み、カギを開けた。
さぁ、どうやってこの男一人を、女一人の力で部屋の中に運び込むか。
あのネコ……
なんでネコ?
ネコの手も借りたいなんて……役に立つわけないじゃない。
「わかる?立てる?」
あたしは、耳の遠いお婆ちゃんに声を掛けるように、大きな声で何度も何度も彼の耳元で繰り返した。
「がんばって、直ぐだから。さぁ、頑張って立ってちょうだい」
彼は無意識なのか、それでも足に僅かな力を掛けて起き上がろうとしてくれた。
何かをしなければいけないという意識が、彼の中にあったのかもしれない。
あたしはそれを利用して、半ば引きずるように彼を部屋へと連れ込んだ。靴は履いたまま上がって、やっとの事でベッドに放り投げるように横たわらせた。
あたしの力で、優しくそっと寝かせる事なんて到底出来はしないもの。
それから靴を脱がせて、上着だけを剥ぎ取るように脱がせた。
氷嚢か水枕…… 彼の部屋を見渡して、そんなものは無いだろうと思った。
探しているより、とって来た方が早い。
アパートの階段を駆け下りて自分の家に戻ると、台所で水枕に氷を詰め込んだ。
再び家を出る時、ちょうど母親がパートから帰って来て、水枕を片手に玄関を飛び出るあたしを怪訝な目で追っているのが判った。
「ちょと、千里?」
玄関口で、背中から母が声を掛けて来た。
「後で話す」
あたしはそう言って、そのまま駆け出した。
アイスノンを持ってきたり、風邪薬を取りに行ったりと、アパートと自分の家を何往復かして、ひと通りのなすべき事が終わる頃には汗だくになっていた。
何処から入ったのか、気が付くとネコが部屋の中にいた。良く見ると、ベランダへ通じる窓が少し開いている。
それにしてもここは二階だ。
ベランダに出て外を眺めると、隣の家から太い木が枝を伸ばしている。この木を伝って、あのネコは二階に出入りしているのだ。
台所にあったネコ缶とキャットフードを与えて、あたしは暫しの間、子供のように寝入る彼を見つめていた。
なんだか疲れて、アパートの階段さえ直ぐには降りる気になれなかったのだ。
良く見ると、写真雑誌などが散乱して、部屋の中は妙に散らかっている。思わず、座った場所から手が届く範囲の物を少しだけ整理して片付けた。
ふと外に置きっぱなしだった彼のバックを思い出して、重い腰を上げて部屋の中へ持ち込んだ。何が入っているのか、意外と重くてビックリした。
あたしの通学用の鞄とは大違いだ。
一度家に帰って夕飯を食べた。
「お母さん、解熱剤ってなかったっけ」
「解熱剤?水枕持って、あんた何してるの?」
「お向かいの人が、一人行き倒れて」
「行き倒れ?」
母はポカンと口を開けてそう言った。このすっとぼけた所は、ほんっとに、あたしとそっくりだ。
「あ、いいの。別に」
あたしは去年インフルエンザにかかった時に処方された解熱剤を探した。
机の引出しの奥に、クシャクシャになった薬剤袋といっしょに見つかった。どう考えても、使用の期限は切れていそうだが、何も飲まないよりはマシだろう。風邪薬と水枕だけであの高熱が下がるとも思えない。
夜中、両親に気付かれないように、こっそりと家を抜け出して、アパートへ向かった。
頭を冷やされて、体を温めて、無理やり口から流し込んだ市販の風邪薬も少しは効いたのか。彼は、あたしのいる事に気が付いたようで、目を細く開けた。
「何でキミがここに?ここは、俺の部屋かい?」
頭が混乱しているようだった。
簡単に事の成り行きを説明して、彼に着替えるように言うと、台所でおかゆを作ってあげた。
知らない台所で鍋をいじるのは、妙な気分だった。
翌朝、彼のアパートを覗くと、熱はだいぶ下がっていた。
「去年の薬でもちゃんと効くのね」
「えっ?」
「ううん、何でも無い」
あたしは、再びおかゆを作って、ネコに餌を与えると、学校へ向かった。
外は、梅雨の訪れを感じるような湿った風が吹いていた。




