第8章 「それでも残ったもの」
街は、動いていた。
車が走る。
人が笑う。
信号が規則通りに変わる。
何もかもが、“普通”だった。
遼は歩く。
見慣れたはずの広島。
だが、どこか違う。
「……静かじゃの」
思わず口に出る。
美咲が隣で笑う。
「うるさいくらいじゃろ、いつもは」
「まあな」
短く返す。
それでも、違和感は消えない。
何かが、足りない。
何かが、ズレている。
「遼」
美咲がふと立ち止まる。
「どうした」
「……覚えとる?」
振り向かずに言う。
「何を」
少しの沈黙。
「さっきのこと」
遼は眉をひそめる。
「さっき?」
「……なんの話じゃ」
その瞬間。
美咲の肩が、わずかに震えた。
「……やっぱり」
小さな声。
遼は違和感を強くする。
「おい、何——」
言いかけて、止まる。
頭の中が、妙に軽い。
思い出そうとしても、何も引っかからない。
「……あれ」
口から漏れる。
「俺、さっきまで何しとった?」
美咲はゆっくりと振り返る。
その顔に、笑顔はなかった。
「遼」
静かな声。
「ほんまに、何も覚えとらんの?」
遼は焦る。
「いや……」
「覚えとるはずなんじゃけど……」
言葉が曖昧になる。
思考が、滑る。
掴めない。
「……おかしい」
美咲は一歩、近づく。
「それが、“代償”よ」
その一言で、空気が変わる。
「代償?」
「選び直した代わりに」
「“選ばなかった記憶”は消える」
遼は固まる。
「……は?」
理解が追いつかない。
「つまり」
美咲はゆっくりと言う。
「あなたは、私を助けたことを覚えとらん」
心臓が、嫌な音を立てる。
「……嘘じゃろ」
「本当」
即答だった。
遼は後ずさる。
「じゃあ、なんで——」
「なんで俺は、お前とおるんじゃ」
それが、一番の疑問だった。
記憶がないのに。
理由がないのに。
「それは」
美咲は、少しだけ笑う。
「私が、離れんかったけぇ」
遼は言葉を失う。
「覚えとらんでもいい」
美咲は続ける。
「結果だけあれば」
「……そういうもんか?」
「そういうもんにしたんよ」
少しだけ、強い声。
遼は頭を抱える。
「……なんか、気持ち悪いの」
「自分のことなのに」
「自分じゃないみたいじゃ」
美咲は何も言わない。
ただ、見ている。
遼を。
じっと。
そのとき。
——違和感。
強烈な。
「……待て」
遼が顔を上げる。
「なんで、お前は覚えとるんじゃ」
空気が止まる。
美咲の表情が、ほんの少しだけ固まる。
「普通なら」
「お前も消えるはずじゃろ」
沈黙。
数秒。
やがて、美咲は小さく息を吐く。
「……気づくよね」
その声は、どこか諦めていた。
「どういうことじゃ」
遼の声が低くなる。
美咲は一歩、距離を取る。
そして言う。
「私ね」
ほんの少しだけ笑う。
「“あっち側”なんよ」
理解が止まる。
「……は?」
「もう一つの広島」
「そこから出てきた存在」
遼の背筋が冷える。
「じゃあ、お前——」
「うん」
美咲は頷く。
「本当は、“戻ってきちゃいけん側”」
風が吹く。
さっきまで普通だった街が、急に遠く感じる。
「なんで、そんなやつが」
「ここにおるんじゃ」
問い詰めるような声。
美咲は静かに答える。
「連れてきたんよ」
「あなたが」
遼は言葉を失う。
「覚えとらんじゃろうけど」
「最後に、選んだ」
「私を、連れて帰るって」
心臓が、強く打つ。
「……ありえん」
「ありえんはずじゃ」
「そんなルール、なかったじゃろ」
美咲は首を振る。
「ルールはね」
「破るためにあるんよ」
その言葉と同時に。
——空気が歪む。
街の一部が、ノイズのように揺れる。
信号が、一瞬だけ止まる。
人の動きが、わずかにズレる。
遼は息を呑む。
「……おい」
美咲は空を見上げる。
「やっぱり来るよね」
その声は、どこか覚悟していた。
「何が」
遼の問いに、美咲は答える。
静かに。
はっきりと。
「“修正”」
その瞬間。
遠くの空間が裂ける。
あのヒビ。
8時15分の、境目。
それが、今この現実に現れる。
「……冗談じゃろ」
遼の声が震える。
美咲は笑う。
今度は、はっきりと。
「ここからが、本当の話よ」
一歩、遼に近づく。
「あなたは選ぶんよ」
「もう一回」
空間が大きく歪む。
世界が、崩れ始める。
「私を残すか」
「それとも——」
ほんの一瞬、間を置いて。
「“正しい広島”に戻すか」
沈黙。
崩れる世界の中で。
遼は立っている。
何も思い出せないまま。
それでも——
選ばなければならない。
「……なんでじゃ」
遼の声が、かすれる。
「なんで、俺なんじゃ」
美咲は、優しく答える。
「最初に、間違えた人間じゃけぇ」
そして、手を差し出す。
「今度は、どうする?」
世界が裂ける。
光が溢れる。
時間が歪む。
その中で。
遼は、手を伸ばす。
——どちらへ。




