最終章「8時15分に、君はもう一度生まれる。」
駅のホームに、朝の光が差し込んでいる。
人の流れはいつも通りで、何も変わっていないように見えた。
けれど、違っていた。
彼の中だけが、決定的に変わっていた。
——8時15分。
あの瞬間、彼は“選ばなかった”。
過去も。
未来も。
どちらか一つを守る選択を、拒んだ。
代わりに、彼は願った。
「全部、消すんじゃなくて——残せ」
その願いが、何を意味していたのか。
正確には、もう思い出せない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
この世界は、“元に戻っていない”。
なのに、壊れてもいない。
——ありえない状態だった。
改札の向こうから、人が流れてくる。
その中に、見覚えのある顔を探す。
いない。
当然だ。
この世界では、彼女は“存在していないはず”なのだから。
それでも。
彼の足は、なぜか動かなかった。
胸の奥に、引っかかるものがある。
記憶ではない。
でも、確かに“知っている”。
名前を呼びかけそうになる。
「……み」
そこで、言葉が途切れる。
思い出せない。
思い出せないはずなのに——
涙が、理由もなくこぼれた。
その時だった。
向かいのホームに、誰かが立っているのが見えた。
白いワンピース。
風に揺れる髪。
顔は、はっきり見えない。
けれど。
心臓が、強く鳴る。
「……誰だよ」
問いかける声は、自分に向けたものだった。
その人影は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
ほんの一瞬。
確かに、笑った。
次の瞬間。
電車が滑り込み、その姿を遮った。
ドアが開く。
人の流れに押されて、彼は車内に入る。
振り返る。
もう、そこには誰もいない。
——いや。
最初から、いなかったのかもしれない。
電車が動き出す。
窓に映る自分の顔は、どこか見慣れない。
それでも。
胸の奥に、確かに残っているものがある。
消えなかった何か。
記録でもない。
記憶でもない。
それは、もっと曖昧で。
それでも、確かに存在する。
“選択の痕跡”。
彼はゆっくりと息を吐いた。
そして、前を向く。
新しい一日が、始まる。
時計の針が、静かに進む。
——8時15分を、越えて。
それでもきっと。
どこかで。
何かが。
消えずに、残っている。
理由は、もう分からない。
けれど——
それでいいと、なぜか思えた。
その日、彼はふと気づいた。
スマートフォンの通知。
ロック画面に、見慣れないアラームが表示されている。
——毎日 8:15
設定した覚えは、ない。
指が、わずかに震える。
アラームの名前が、表示されていた。
『美咲』
アラームは、すでに一度だけ——
「停止」されていた。




