第6章 「美咲の正体と“もう一つの広島”のルール」
音が戻る。
風の音。
遠くの車の走行音。
日常のざわめき。
——だが、遼の体は動かない。
視界だけが、生きている。
目の前で、“自分”が息をしている。
肩を回し、指を動かし、確かめるように笑う。
「……やっぱり、こっちの方がいい」
それは、完全に“遼の声”だった。
「返せ……」
声にならない。
思考だけが空回りする。
“遼”がこちらを見る。
「無理じゃろ」
軽い口調。
だが、その目は冷たい。
「お前、もう“そっち側”じゃけぇ」
その瞬間、理解する。
——自分は、止まった。
振り返ることもできない。
まばたきすら、できない。
ただ、“残された側”として存在している。
「……ほら」
“遼”が一歩近づく。
「ようこそ」
口元が歪む。
「もう一つの広島へ」
そのとき。
「——やめんさい」
鋭い声が割り込む。
視界の端。
美咲が立っている。
だが、その表情は今までと違った。
迷いがない。
「それ以上やったら、戻れんようになるよ」
“遼”が肩をすくめる。
「戻る気、あるんか?」
「あるかどうかじゃない」
美咲は一歩踏み出す。
「戻すんよ」
空気が変わる。
止まったはずの世界に、わずかな揺らぎが走る。
“遼”の表情がわずかに歪む。
「……お前」
「やっぱり、知っとるんじゃの」
美咲は答えない。
ただ、遼——動けない“本体”を見た。
「遼、聞いとき」
声が、直接届く。
耳ではなく、意識に。
「ここは、“止まった時間の澱”」
「澱……?」
思考が返る。
「8時15分」
「全部が止まった瞬間」
「本来なら、流れて消えるはずの“感情”だけが、ここに残った」
視界の中の人影たち。
動かない人々。
「あれは“記録”」
「でも——」
美咲は“遼”を見る。
「強すぎた感情は、形になる」
「執着として」
“遼”が小さく笑う。
「それが、ワシらじゃ」
美咲は静かに頷く。
「そう」
「あなたは、“残った遼”」
「助けられんかった後悔」
「選んでしまった記憶」
一つ一つの言葉が、突き刺さる。
「……誰を」
遼の思考が震える。
「俺は、誰を——」
美咲の視線が揺れる。
ほんの一瞬だけ。
「……それは、まだ」
「今は聞かんで」
“遼”が笑う。
「優しいのう」
「でも、意味ないで」
一歩前へ。
「こいつはもう、“こっち側”じゃ」
その瞬間、周囲の“記録”たちが、わずかに動いた。
いや——引き寄せられている。
遼の方へ。
「……なんじゃ、これ」
恐怖が広がる。
「引き込まれとる」
美咲の声が鋭くなる。
「このままじゃ、完全に固定される」
「固定……?」
「“ただの記録”になるってこと」
思考が止まりかける。
——それは、死よりも曖昧な終わり。
「方法は」
遼は必死に問いかける。
「戻る方法はあるんか」
美咲は一瞬だけ目を閉じる。
そして開いた。
覚悟の目。
「ある」
“遼”が眉をひそめる。
「ほう」
「聞かせてみい」
美咲は、ゆっくりと言う。
「入れ替わった“原因”を、壊す」
「原因……?」
「あなたがここに来た理由」
「それを、やり直す」
遼の中で、何かが繋がる。
あの光景。
瓦礫の下の手。
「……あのとき」
「そう」
美咲が頷く。
「“選んだ瞬間”を、もう一回やるんよ」
沈黙。
“遼”が、ゆっくりと拍手する。
乾いた音。
「できると思うか?」
「同じ状況で」
「同じ人間が」
「違う選択を」
空気が重くなる。
「人は、変わらんで」
その言葉は、妙に現実的だった。
遼の思考が揺れる。
確かにそうかもしれない。
あのときの自分は——
「……それでも」
美咲が言う。
「変わらんといけんのよ」
一歩前に出る。
「じゃないと、ずっとここ」
「広島は、終わったままになる」
その言葉に、“遼”の表情が変わる。
初めて、苛立ちが混じる。
「終わっとる方がええじゃろ」
低い声。
「苦しまずに済む」
「忘れられる」
「何もなかったことにできる」
美咲は首を振る。
「それは“逃げ”」
「だから、あんたはここに残っとる」
沈黙。
空気が張り詰める。
やがて、“遼”は笑った。
「……ええよ」
一歩、退く。
「やってみい」
「どうせ無理じゃけぇ」
その瞬間、世界が揺らぐ。
光が歪み、景色が崩れ始める。
「来るよ!」
美咲が叫ぶ。
「“あの瞬間”に戻される!」
遼の視界が白く染まる。
熱。
光。
音。
——すべてが、戻ってくる。
最後に見えたのは、美咲の顔。
そして、彼女の一言。
「今度は——間違えんで」




