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第4章 「止まった街に、入る」

エンジン音がやけに現実的だった。

遼はハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。

さっきまで見ていた光景が頭から離れない。

焼けた街、崩れた建物、動かない影——あれは何だったのか。


「……今の、見えとった?」

隣で美咲が静かに言う。


「見えた」

遼は短く答える。


「夢じゃない」


「うん」


それだけで十分だった。

否定しないことが、かえって現実味を強める。


短い沈黙のあと、遼はゆっくりと息を吐いた。


「入れるんか」


自分でも何を言っているのか分からない。

ただ、“行かなければいけない”という感覚だけが残っていた。


美咲は一瞬だけ目を伏せる。


「本当は、入らんほうがいい」


「でも」


「——入った人間、戻ってこれんけぇ」


遼は小さく笑う。


「もう戻れてる気、せんけどな」


その言葉に、美咲もわずかに笑ったが、その表情はすぐに消えた。


「……確かに。じゃあ、やるよ」


彼女は前を向いたまま続ける。


「8時15分、“止まる瞬間”に境目ができる」


「さっきのヒビ……」


「そう。あれが入口」


遼はゆっくりと頷く。


「次の8時15分まで待つんか」


「ううん。この街、今は“ズレとる”」


「ズレ?」


「だから、まだ残っとる」


言い終わるのと同時に、フロントガラスにうっすらとヒビが浮かび上がる。

さっきと同じ位置。

しかし今度は消えない。


ヒビの向こう側だけ、光の質が違って見えた。

少し濁り、空気が重い。


「……マジかよ」


喉が乾く。


「行くよ」


美咲の声に、遼はアクセルを踏み込む。

車はゆっくりと前に進み、ヒビへと近づいていく。


その瞬間、温度が落ちた。

音が遠ざかり、世界の輪郭が曖昧になる。


そして——抜けた。


完全な無音が支配する。


車は止まっていた。

いや、すべてが止まっている。


遼はゆっくりと窓の外を見る。


そこにあったのは、さっき見た“もう一つの広島”だった。

建物は崩れ、道路はひび割れ、信号は点いたまま止まっている。

人はいる。

しかし誰一人として動かない。


「……これが」


遼の声が小さく響く。


「止まっとる方」


美咲が静かに言葉を継ぐ。


ドアを開け、外に出る。

足音だけが世界に残る。


近くに人影があった。

中年の男が走る姿勢のまま、完全に静止している。


遼は恐る恐る近づき、手を伸ばす。

触れた瞬間、冷たさが伝わる。

まるで時間ごと凍りついているようだった。


「やめとき」


美咲が止める。


「長く触れとると、“引っ張られる”」


「引っ張られる?」


「こっち側に」


遼はすぐに手を離した。


そのとき、遠くで何かが動いた。

いや、違う。

この世界で唯一、“動いている”。


遼は息を呑む。


「……美咲、あれ」


彼女も気づき、ゆっくりと振り向く。


遠くの交差点に、一人だけ歩いている影があった。

足音はしないのに、確実にこちらへ近づいてくる。


やがて顔が見えた瞬間、遼の呼吸が止まる。


それは——自分だった。


「……見つかったね」


美咲が低く言う。


「何に……?」


その問いに、彼女は答えない。


「“あっちのあんた”はね」


わずかな間を置き、


「ここから出られんかったやつ」


その瞬間、“遼”が笑った。


音のない世界で、確かに笑った。


そして次の瞬間、全力でこちらへ走り出した。

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