第3章 「逃げろ(強制イベント)」
「今、何時」
美咲の声は低く、迷いがなかった。
遼はスマホを見る。
7時52分。
「あと二十三分」
「——ここから離れるよ」
「どこに?」
「どこでもいい。この街の中心から外に出る」
考える余裕はない。
「動いて」
短い命令。
遼は走り出す。
本通を抜ける。
人波をかき分ける。
見慣れたはずの景色が、どこか薄い。
現実感が削れている。
「こっち!」
美咲が路地に入る。
遼も続く。
湿った空気。
ゴミ袋の匂い。
妙にリアルだ。
「なんで逃げるんですか」
「逃げんと、“戻される”けぇ」
「戻されるって」
「最初に」
その一言で繋がる。
「……今日の朝に?」
「そうじゃね」
即答。
「じゃあ俺は……」
「もう何回も同じ日をやっとる」
息が詰まる。
「嘘だろ……」
「じゃあ聞くけど」
美咲が振り向く。
「なんで電車、覚えとったん?」
言葉が出ない。
答えは出ている。
「——行くよ」
再び走る。
大通りに出る。
日常の音が戻る。
自分のタクシーが見える。
「乗って!」
運転席に滑り込む。
「どこ行く!」
「西!」
アクセルを踏む。
だが、進まない。
「……遅い」
「毎回、こうなる」
「毎回?」
「外に出ようとすると、必ず遅れる」
信号が赤に変わる。
誰もいないのに。
時計を見る。
8時07分。
「間に合うんか……」
「——一回も、間に合ったことはない」
静かな絶望。
「でも、今回は違う」
「なんで」
「“あんたが気づいた”けぇ」
意味は分からない。
だが、何かが違う。
信号が青になる。
橋に入る。
街を横切る。
そのとき。
ラジオが勝手に入る。
ノイズ。
『——8時15分です』
時計を見る。
8時15分。
その瞬間。
世界が止まる。
すべてが静止する。
だが、二人だけは動ける。
「——まだ終わってない!」
「今なら抜けられる!」
アクセルを踏む。
だが進まない。
景色が変わらない。
「ダメじゃ……また——」
そのとき。
フロントガラスにヒビが入る。
ピキッ。
その向こうに。
焼けた街。
崩れた建物。
音のない広島。
「……見えたろ」
「これが、“止まっとる方”の広島」
次の瞬間。
世界が割れる。
気づくと。
元の車内。
朝の光。
バックミラー。
「八丁堀まで」
同じ男。
そして。
耳元で声がした。
「——今度は、間に合わせて」
それは。
美咲ではなかった。




