第2章「8時15分を知っている女」
「——また来た」
その声は静かだった。
だが、確信を持っていた。
遼が振り向く。
本通の入口。
人通りの中に、一人の女が立っている。
白いシャツ。
色褪せたデニム。
どこにでもいそうで、どこか違う。
特に、目。
異様に澄んでいた。
「今、止まったでしょ」
曖昧なイントネーション。
遼は答えない。
いや、答えられない。
「……あんたも、見えとるんじゃね」
女が一歩近づく。
その瞬間。
遼の中で何かが引っかかる。
——この女を、知っている。
だが思い出せない。
「初対面、じゃないですよね」
遼の言葉に、女は少しだけ笑う。
「やっと気づいたんじゃ」
初めて会う相手に向ける言い方ではなかった。
「名前、なんですか」
「……美咲」
「苗字は」
「いらんじゃろ、この街じゃ」
妙に納得してしまう。
「さっきの、なんなんですか」
遼は踏み込む。
美咲は空を見上げ、少しだけ間を置いた。
そして言う。
「8時15分で、この街は一回死ぬんよ」
笑えない。
むしろ、妙に現実味があった。
「……死ぬ?」
「正確には、“止まる”かね」
「なんのために」
美咲は視線を落とす。
その表情に、影が差す。
「忘れるため」
その一言が、重く沈む。
「広島はね、忘れんと生きていけん街なんよ」
遠くで路面電車の音が鳴る。
ギィ、と軋む音。
遼は振り向く。
同じ電車。
同じ広告。
さっきと、まったく同じ。
「見たろ」
美咲が言う。
「この街、少しずつ繰り返しとるんよ」
否定できない。
すでに体験している。
「でもな」
美咲は続ける。
「気づく人間は、毎回ちょっとずつ増える」
背筋が冷える。
「増える……?」
「そう。気づいた人間から、壊れていくけぇ」
そのとき。
スマホが震える。
【着信:不明】
遼は迷う。
だが、出る。
「もしもし」
ノイズ。
ザーッという音。
そして——
『——逃げろ。8時15分の前に』
それは、自分の声だった。
通話が切れる。
遼は固まる。
美咲を見る。
彼女は驚いていない。
「それ、何回目?」
意味が分からない。
だが。
何かが崩れ始めていた。
「大丈夫」
美咲が言う。
「まだ間に合うけぇ」
その言葉だけが、妙に現実だった。
だが同時に。
もう間に合わない気もしていた。




