【名言13】賢者は語るべきことがあるから話し、愚者は何かを話さねばならないから話す。
朝。
主人公は鞄を肩に掛け、玄関へ向かう。
「よし……大学、行くか。」
すると、後ろから声がした。
「うむ。では私も参ろう。」
主人公が振り返る。
そこには、いつもの白衣姿のソクラテスが立っていた。
「……なんで普通についてくるんですか。」
「何を言う。昨日も申したであろう。私はこの時代を学ぶのだ。」
「いや、学ぶにしても、毎回大学に来なくていいでしょう。」
「ふむ。では問おう。」
ソクラテスは顎に手を当てる。
「若者が最も多く集まり、知を語り合う場所へ行かずして、どうやって今の世を知れというのだ?」
主人公は少し考え、
「……それっぽいこと言いますね。」
「それっぽい、ではない。哲学である。」
主人公は小さくため息をつく。
「仕方ないですね……。今度こそ、大人しくしてくださいよ。」
「うむ。」
ソクラテスは力強く頷いた。
「善処しよう。」
主人公は嫌な予感しかしなかった。
大学に到着した。
キャンパスへ足を踏み入れた瞬間だった。
「あっ!」
一人の学生が声を上げる。
「いたいた! この前、広場で変なこと言ってたおじさんだ!」
その声を聞きつけ、近くにいた学生たちも振り返る。
「あ、本当だ!」
「また来たんだ!」
「今日は何するんですか?」
気が付けば、数人の学生が面白半分に集まってきていた。
主人公は思わず額に手を当てる。
「……ほら。もう目立ってるじゃないですか。」
すると、ソクラテスは周囲を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ふむ? 私はまだ何もしておらぬが。」
「その格好で大学を歩いてる時点で十分目立つんですよ……。」
学生たちの視線が、一斉にソクラテスへ集まる。
ソクラテスは少し考えるように顎へ手を当てた。
「ふむ。歓迎されておるようだな。」
「絶対、面白がられてるだけです。」
学生たちに囲まれるソクラテス。
その様子を、少し離れた場所から見ている者がいた。
一人の男子学生だった。
輪に加わろうとはせず、ただ静かにこちらを見ている。
手には一冊の本。
周囲の賑わいにも興味がないのか、無表情のまま、まるで観察するようにソクラテスを見つめていた。
「……。」
その視線に、ソクラテスがふと顔を上げる。
そして、遠くの男子学生を見つけた。
「ほう……。」
ソクラテスの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
ソクラテスは近くの学生へ尋ねた。
「あそこにおる者は何者だ?」
学生たちは振り返る。
「ああ、あいつですか。」
「同じ学科の学生ですよ。」
「でも、誰とも話さないんです。」
「いつも一人で、本ばっかり読んでます。」
「なんか近寄りがたいんですよね。」
ソクラテスは顎に手を当てた。
「ほう……。誰とも交わらぬのか。」
「はい。たぶん、一人が好きなんじゃないですか?」
ソクラテスは、遠くの男子学生をじっと見つめた。
「ふむ……。」
その目には、わずかな興味の色が浮かんでいた。
「すみません。俺、もうすぐ講義なので、今日はここまでです。」
主人公が学生たちへ向かって言った。
「えー!」
「もう終わり?」
「もっと話を聞きたかったのに。」
名残惜しそうな声が上がる。
「また今度です。」
主人公は苦笑しながら答えた。
そして、隣に立つソクラテスを見る。
「ほら、行きますよ。」
「うむ。」
ソクラテスは頷いた。
しかし、その視線はなおも、先ほどの男子学生へ向けられていた。
男子学生は相変わらず一人。
こちらを見ているのか、それとも考え事をしているのか、その表情からは何も読み取れない。
「……。」
「どうしたんですか?」
主人公が尋ねる。
ソクラテスは小さく呟いた。
「いや……少し気になる者がおってな。」
「はぁ……。」
主人公は首を傾げる。
だが、授業開始のチャイムが鳴り、二人はその場を後にした。
――そして、時は過ぎる。
昼休み。
学生たちの話し声が響くキャンパス。
食堂へ向かう者、友人と談笑する者、ベンチで昼食を広げる者。
そんな賑わいの中――。
主人公とソクラテスは食堂へやって来ていた。
昼時ということもあり、食堂は多くの学生で賑わっている。
主人公は定食を、ソクラテスは興味津々といった様子でカレーライスを手に取り、空いている席へ向かった。
二人が席に着く。
その途端だった。
「あっ、いた!」
聞き覚えのある声がする。
顔を上げると、朝に話しかけてきた学生たちがこちらへやって来ていた。
「隣、いいですか?」
「今日は何の話をするんです?」
「俺、哲学ってちょっと興味出てきたんですよ!」
口々に話しながら、学生たちは半ば当然のように席へ集まってくる。
主人公は苦笑した。
「なんか、すっかり人気者ですね。」
ソクラテスは周囲を見回す。
「ふむ。食事をしながら語り合う。実に良いことではないか。」
「まあ……騒ぎにならなければですけど。」
すると、一つ置いたテーブルに、先ほどの男子学生が座っていた。
一人で昼食を取りながら、静かに本を読んでいる。
主人公も学生たちも、その姿をちらりと見る。
「ああ、いたんですね。」
それだけだった。
特に驚く者もいない。
「いつもあそこですよ。」
「うん。毎日一人だし。」
「もう見慣れたよな。」
学生たちは、さして気にした様子もなく会話を続ける。
その時だった。
ソクラテスが、じっと男子学生を見つめる。
「ふむ……。」
「どうしたんですか?」
主人公が尋ねる。
「では、実践で教えてみようかの。」
そう言うと、ソクラテスは立ち上がった。
「あ、あの……?」
主人公が声を掛ける。
しかし、ソクラテスは構わず歩き出した。
「ちょっ……!」
学生たちも思わず視線で追う。
ソクラテスは真っ直ぐ、一つ置いたテーブルへ向かっていく。
やがて、男子学生の前で足を止めた。
男子学生は本から顔を上げる。
「……何か。」
低く、短い言葉だった。
ソクラテスは穏やかな表情で尋ねる。
「隣、よいかの?」
男子学生は数秒、黙ってソクラテスを見つめた。
そして、
「……好きにしてください。」
とだけ答え、再び本へ視線を落とした。
その様子を、少し離れた席から学生たちが固唾を呑んで見守っていた。
「一つ、尋ねてもよいかの。」
男子学生は本から目を離さない。
「……何ですか。」
「なぜ、汝はいつも一人でおるのだ?」
男子学生はページをめくりながら、あっさりと答えた。
「周りと話が合わないからです。」
「ほう。」
「正確に言えば……レベルが低いんですよ。」
男子学生はようやく顔を上げる。
「話をしても、中身がない。流行の話、SNSの話、くだらない雑談ばかりです。」
少し離れた席で聞き耳を立てていた学生たちが、
「うっ……。」
と、微妙な顔をする。
ソクラテスは表情を変えない。
「では、汝は賢いのだな?」
「少なくとも、周りよりは。」
「なるほど。」
ソクラテスは頷いた。
そして、再び尋ねる。
「では問おう。汝は、その『レベルの低い者たち』と話をしたことがあるのか?」
「ありますよ。」
「何人ほどだ?」
「……数人です。」
「学科の者は何人おる?」
「百人くらいですが。」
「ほう。」
ソクラテスは少し首を傾げた。
「百人のうち、数人と話し、残り九十余名を知りもせぬまま、皆のレベルが低いと結論したのか?」
「……。」
男子学生の手が止まる。
ソクラテスはさらに続ける。
「では、もう一つ問おう。」
「……何です。」
「もし、汝と同じように『周りはレベルが低い』と思い、誰とも話さぬ者がもう一人おったなら。」
男子学生は黙る。
「その者と、汝は出会えるのかの?」
「……。」
「互いに話しかけぬまま、二人とも『周りに話す価値のある者はいない』と言って、一人でおるだけではないか?」
男子学生は答えない。
食堂が、妙に静かになっていた。
ソクラテスは男子学生を見つめ、静かに言う。
「賢者は語るべきことがあるから語るという。」
そして、ふっと笑う。
「だが、賢者を探したいのなら、時には自ら語りかけねば見つからぬのではないかの?」
男子学生はしばらく黙り込んでいた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうかもしれません。」
ソクラテスは黙って聞いている。
男子学生はゆっくりと顔を上げた。
「少なくとも……。」
一拍置く。
「あなたなら、話すに値するかもしれません。」
その言葉に、周囲の学生たちが目を丸くする。
「おお……。」
「初めて聞いた……。」
主人公も思わず目を見開いた。
しかし――。
「ふふ……。」
ソクラテスが笑った。
そして、
「はっはっはっはっ!」
食堂中に響くほどの大笑いを始めた。
男子学生は目を瞬かせる。
「……何がおかしいんですか。」
ソクラテスはしばらく笑い、ようやく息を整えた。
「いや、失礼。」
口元を押さえながら、なおも笑みを浮かべる。
「つい先ほどまで、誰とも話す価値がないと言っておった若者が、今度は私に『話すに値する』と言う。」
「……。」
「汝、実に面白いの。」
男子学生は返す言葉を失った。
ソクラテスは優しく目を細める。
「だが、それでよい。」
「え……?」
「人は、誰かと語り合うことで、自分の考えが揺らぎ、変わり始める。」
そして、にやりと笑った。
「さて、では改めて問おう。」
「汝は、本当に私と語るに値する者かの?」
そして、少し真面目な顔になる。
「しかし、汝は勘違いをしておる。」
「……勘違い?」
「汝は、話す価値のある者を探しておる。」
男子学生は黙る。
ソクラテスは続けた。
「だがの――」
一拍置く。
「本当の賢者とは、愚か者の話にも耳を傾けるものだ。」
食堂が静まり返る。
「なぜなら、自分が知らぬことを、相手が知っているかもしれぬからの。」
男子学生の目がわずかに揺れる。
「……。」
「人を見て耳を閉ざす者は、相手の愚かさを見下しているようでいて、実は自ら学ぶ機会を閉ざしておる。」
そして、ソクラテスは穏やかに笑った。
「少なくとも私は、自分が何も知らぬことを知っておる。」
「だから、私は誰の話でも聞く。」
男子学生は、しばらく何も言えなかった。
食堂にも、妙な静けさが流れる。
ソクラテスはそんな空気を気にした様子もなく、ゆっくりと立ち上がった。
「……では、私は戻るとしよう。」
「え……?」
男子学生が思わず顔を上げる。
ソクラテスは穏やかに微笑む。
「昼食の邪魔をしてすまなんだ。」
そう言うと、くるりと踵を返す。
そして、何事もなかったかのように、自分たちのテーブルへ戻っていった。
男子学生は、その背中を呆然と見つめている。
主人公が小声で尋ねた。
「……いいんですか? あれで。」
ソクラテスは椅子に腰を下ろし、冷めかけたカレーを見た。
「うむ。」
スプーンを手に取る。
「問うべきことは、もう問うた。」
「いや……何というか、中途半端じゃないですか?」
ソクラテスはカレーを一口食べ、満足そうに頷いた。
「哲学とは、答えを与えることではない。」
そして、男子学生へちらりと視線を向ける。
「自ら考える種を蒔くことよ。」
翌朝。
主人公とソクラテスは、いつものように大学へ向かっていた。
「今日は何も起こさないでくださいよ。」
主人公が釘を刺す。
「うむ。」
ソクラテスは頷く。
「善処しよう。」
「……昨日もそれ聞いたんですよね。」
そんなやり取りをしながら、二人はキャンパスへ到着した。
すると――。
「ん?」
主人公が足を止める。
少し先。
数人の学生が、小さな輪を作っていた。
特に珍しい光景ではない。
だが、その中心にいる人物を見て、主人公は目を瞬かせた。
「あれ……?」
そこにいたのは――。
昨日、一人で本を読んでいた男子学生だった。
男子学生は何かを話している。
周囲の学生たちも、時折頷いたり、質問したりしている。
ぎこちなくはある。
それでも確かに、会話をしていた。
主人公は驚いた顔で隣を見る。
「……話してますよ。」
ソクラテスは静かに、その光景を見つめていた。
やがて、小さく微笑む。
「うむ。」
「何かしたんですか?」
「何も。」
ソクラテスは首を横に振る。
「私は、少し問うたに過ぎぬ。」
男子学生がふとこちらに気付き、ソクラテスを見る。
そして、一瞬だけ気まずそうな顔をした後――。
小さく、会釈をした。
ソクラテスも、何も言わずに軽く頷き返した。
主人公はその様子を見て、思わず苦笑する。
「……哲学って、意外とすごいんですね。」
ソクラテスは空を見上げる。
主人公とソクラテスが、その場を後にしようとした時だった。
『――反応を確認しました。』
突然、機械的な声が響く。
主人公が足を止める。
「あ。」
ソクラテスも振り返った。
『ソクラテスの名言を、現代向けにアップグレードしました。』
ソクラテスは目を丸くした。
「ほう……。」
そして、文字が続く。
『――「賢者はいかなる者にも声をかける。愚者は、話す相手を選び、自ら耳を閉ざす。」』
主人公が小さく呟く。
「……ぴったりですね。」
ソクラテスはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「なるほど。」
「悪くない。」
主人公が驚く。
「珍しいですね。素直に認めるんですか。」
ソクラテスは頷いた。
「私は何も知らぬ。」
そして、口元に笑みを浮かべる。
「故に、誰からでも学ぶ。」
そう言って、男子学生へ視線を向ける。
「昨日の若者からも、そして――。」
「この、不思議な声からもな。」
『……評価を確認。少し嬉しいです。』
主人公は思わず吹き出した。
「AI、感情あるんですか。」
『その問いには、お答えできません。』
ソクラテスは再び、声を上げて笑った。
「はっはっはっ! 実に面白い時代ではないか!」
【賢者は語るべきことがあるから話し、愚者は何かを話さねばならないから話すとは?】
賢い人は「この話には意味がある」と思って話す。愚かな人は「沈黙が気まずい」「目立ちたい」「何か言わなきゃ」と思って話す。つまり、大事なのは話す量ではなく、何のために話すかであるという事だ。




