第1話 東日暮里コリアタウン①
《スケアクロウ》とは何者か。
雨宮深雪は以前にも増して、その謎を解く必要性に迫られていた。
というのも、《アラハバキ》上松組の跡目争いに端を発し、《中立地帯》を襲った未曽有の災害級大抗争の後も、どこからか定期的に東雲探偵事務所に関する悪評が流され続けていたためである。
深雪ら東雲探偵事務所は、その情報源が情報屋《スケアクロウ》なのではないかという疑いを抱いていた。それらの情報の多くが、主に《中立地帯》の若いゴーストたち――いわゆる《ストリート・ダスト》の間で流布されていたからだ。
《スケアクロウ》の主な顧客層は《ストリート・ダスト》である。
かつて《中立地帯》では、同様に《ストリート・ダスト》を介し、東雲探偵事務所に関する流言飛語が大量にばら撒かれたことがあった。
その時も《スケアクロウ》による情報工作があったことは間違いないと深雪たちは睨んでいる。そして《スケアクロウ》は、今も《中立地帯》に潜伏し、東雲探偵事務所の失墜を虎視眈々と狙っているのだ。
《スケアクロウ》が拡散した東雲探偵事務所の情報は最初の方こそ真実がちらほら混じっていたものの、徐々に悪意まみれのデマばかりとなった。中には、東雲の《死刑執行人》が限られた物資を独占しているとか、災害級大抗争の被災者から金銭を巻き上げているといった、完全に事実無根で悪意すら感じさせる噂が流されていることまである。
今はどこもかしこも災害級大抗争からの復興で手一杯なこともあり、あまり大きな火種にはなっていない。しかし、だからと言って油断はできなかった。
そういったデマがいつ新たな抗争を呼び起こすか分かったものではないからだ。
そもそもの災害級大抗争もデマが発端だった。
まず、いつ頃からか、《収管庁》や東雲探偵事務所にまつわる誤った風評が流されるようになった。そして、その風評を信じた若いゴーストや《Zアノン》信者たちが、正義感に駆られて自発的にデモを起こしたのだ。
それらは最初、腐敗しきった既得権益層を糾弾する正義のデモのはずだった。
しかしそのデモは徐々に過激化してコントロールを失い、暴徒と化した挙げ句、街を破壊し始めてしまう。そして上松組の跡目争いがさらなる追い討ちをかけたのだ。
深雪たちはその経緯をよく知っている。だからこそ、デマの流布はそれがどんなものであれ阻まなければならないのだ。
問題はそれだけではない。
いくら事実無根とはいえ、良からぬ噂が流れ続ける限り、東雲探偵事務所が《中立地帯》で信頼を得ることはないだろう。
以前なら、それでも良かった。
《中立地帯の死神》として恐れられ、抑止力となってさえいれば良かった頃ならば。
しかし今、東雲探偵事務所は大きな目標を掲げている。それは、《中立地帯》に事務所を構える五つの《死刑執行人》事務所が参加する合同事業を成功させるというものだ。
しかもその合同事業はあくまで手始めにすぎない。
合同事業の提唱者である東雲六道の目的は、合同事業を足掛かりに五大《死刑執行人》事務所の協力体制を構築することだ。来たるべきさらなる危機に備えるために。
だがしかし、このままでは、せっかく順調に運びつつある他の《死刑執行人》事務所――あさぎり警備会社やPSC.ヴァルキリー、そして東京アイアンガード・セキュリティーオフィスとの連携もいつ破綻するか分からない。
再び災害級巨大抗争のような事態が起これば、仮に四つの《死刑執行人》事務所が理解を示したとしても、実際に彼らが東雲探偵事務所に協力するのは難しいだろう。
それほど、《中立地帯》の人々の東雲探偵事務所に対する視線は厳しくなっている。
そう考えるとデマや悪質な噂の流布は立派な攻撃手段の一つ、もはや凶器であるとも言えるだろう。ただ直接、血が流れないというだけだ。被る損害は計り知れない。これを放置していたらいつまで経っても東雲探偵事務所は苦境を脱せないだろう。
それに加えて、氷河武装警備事務所の所長、氷河凍雲との約束もある。
彼が、五大《死刑執行人》事務所による合同事業に参加する条件として提示したのは、これ以上、東雲探偵事務所の悪評を拡散させないことだった。
その気持ちは分かる。いくら必要性があると分かってはいても、悪評まみれの事務所に関わりたいとは思う者は皆無だろうからだ。
つまり彼は、深雪に対して《スケアクロウ》にきちんと対処しろと言いたいのだろう。
或いは、氷河凍雲は深雪を試しているのかもしれない。そんなことも解決できない相手と手を組むつもりはないと。
いずれにせよ、このまま《スケアクロウ》を野放しにしている限り、氷河武装警備事務所の協力は永遠に得られないだろう。
そして氷河武装警備事務所の協力無くして、五大《死刑執行人》事務所による合同事業の成功はあり得ない。
氷河武装警備事務所の有する《死刑執行人》の戦力は高く、けっして無視することはできないのだ。
(五大《死刑執行人》事務所による合同事業を実現させるためにも、そろそろ本気で《スケアクロウ》と向き合わないとな。何か深刻な事件が起きてしまうその前に、何としてでもケリをつけなければ……!)
深雪はそう決意を新たにする。
しかし、《中立地帯》では相変わらず《スケアクロウ》に関する情報は手に入らなかった。そもそも《中立地帯》は未だ災害級巨大抗争のダメージから立ち直りきっておらず、落ち着いて情報収集に専念できる状況ではない。
さらに、《スケアクロウ》の目的が未だ不明であるのも調査を難しくしている一因だった。
彼、もしくは彼女が《収管庁》や東雲探偵事務所を目の敵にしているのは分かる。だが、両者を攻撃することで何を果たそうとしているのか、それが分からないのだ。
その手の込みようを考えても、《スケアクロウ》はとてもただの愉快犯とは思えない。何せ、奴の拡散したデマのせいで災害級大抗争が起き、《中立地帯》は壊滅状態にまで陥ったのだから。
その他の要因が複雑絡み合っているとはいえ、偶然に起こった出来事だとは思えない。これは明らかに仕組まれたものだ。
それでは何故、《スケアクロウ》は《中立地帯》を標的にし、破壊したのか。
《スケアクロウ》の目的は何なのだろうか。
また、もし仮にいたずら半分だったとしても、その影響力の大きさを考えるとこれ以上、《スケアクロウ》の行いを見過ごすわけにはいかなかった。
頼みの綱は、《中立地帯》の外――いわゆる《外国人街》で情報を収集している東雲探偵事務所の仲間たちからの情報だ。
《東京中華街》の封鎖や《中立地帯》の混乱の影響を受け、《外国人街》での情報収集もひどく難航しているらしい。
それでもみな、それぞれ興味深い情報を入手することができたようだ。
その日、事務所のミーティングルームに集まったのは、深雪とシロ、そしてオリヴィエ、奈落の四人だった。
深雪はパーカーにデニムパンツといういつもの私服姿だ。ここ最近は街の復興作業に専念するため、作業着姿でいることが多かった。事務所に戻る時間がなく、作業着のまま巡回に出ることもしばしばだ。私服姿で外に出るのは久しぶりだと言っていい。
一方のシロも、今日はオーバーオールではなく、お気に入りの濃紺色をした制服を身にまとっている。腰には愛用の日本刀《狗狼丸》を差すのも忘れていない。
「何だかこうしてみんなでゆっくり話すのは久しぶりって感じがするな。毎日、顔は合わせているのに」
感慨深く口にすると、オリヴィエが「そうですね」と、流れるような美しい金髪を揺らしながら頷いた。
オリヴィエもまたいつもの黒い神父服をまとっている。両肩にはストラ、そして両手には真っ白の手袋。それもまたいつも通りだ。彼の佇まいは最初に会った時と同じく、上品で洗練されている。
「私は事務所での業務の他に教会や孤児院での仕事もかけ持ちをしていますし、神狼も《龍々亭》の営業を再開させたようですし。流星とマリアもいつものハードワークでみな目が回るほど忙しくしていますからね。それから、あなたも……」
オリヴィエは奈落の方にちらりと視線を向けるが、すぐにその空色の瞳を半眼にする。
「……何かしていましたっけ? まあ良いでしょう」
一方の奈落は顎を上げ、煙草の煙を吐きながら、威圧するような瞳をオリヴィエに向けた。
「……おい、何が良いんだ。さらっと俺の存在を無視してんじゃねえよ。まるで一人、呑気にサボってるみたいだろうが」
奈落もいつもの黒い眼帯に、やはり黒の重厚な軍服をまとっている。まだ寒いせいか、コート仕様だ。銀髪にワインレッドの瞳が良く映える。ただ、オリヴィエの雑な対応のせいか、その鮮やかな目は斬れ味抜群の刃物のように剣呑だった。
しかし当のオリヴィエは、奈落の迫力ある視線を浴びても全く動じず、にこやかに答えるのだった。
「おや、これは失礼。私はあなたが普段、どこで何をしているか全く知らないものですから。……けれど、あなたにも辛うじてそういったことを気にする殊勝な心が残っていたのですか。奇跡ですね」
なんて分かりやすい当てこすりなのだろう。対する奈落も遠慮なく皮肉で応戦する。
「お前こそ、どんどん性格がねじ曲がって陰湿になってるな。自覚がないのは重症だという証拠だぞ。大丈夫か?」
「心配は無用ですよ。私はいつだって平常心ですので」
「そうか、つまり性格が悪く陰湿なのが平常運転だとようやく認めるってことだな」
「……知ってます? レンズの歪んだ眼鏡で世界を見ると、全てが歪んで見えるのですよ」
「もちろん知っている。お前は知らなかったのか?」
「……」
オリヴィエは変わらず笑顔だったが、先ほどとは明らかに違う空気が漂っている。彼のこめかみが引き攣っているのは、気のせいではあるまい。
最初は二人のやり取りにひどく戸惑った。罵倒し合わないと死ぬ病気なのだろうかと呆れたこともある。でも今では、これが彼らなりのコミュニケーションなのだと理解しているつもりだ。
「うーん、奈落とオリヴィエのそういうやり取りを聞いてると、日常に戻ってきたなあって実感するよ」
しみじみと嚙みしめるように口にすると、オリヴィエは困惑の表情で突っ込んだ。
「深雪……今のはどう見ても、ほっこりする場面ではありませんよ」
事務所の皆とは《中立地帯》の復興作業や巡回をする時など、相変わらず共に働いているが、あまりにも多忙すぎてゆっくり話す機会は減っていた。何しろ、次から次へと仕事や問題が降りかかってくるため、それどころではない。緊急性のない、他愛ない気の抜けた冗談や無駄話は本当に久しぶりだ。
とはいえ、今も時間がない状況であるのに変わりはない。
「ところでさっそくなんだけど、頼んでいた例の件、どうなったかな?」
深雪が切り出すと、オリヴィエはすぐに表情を改め、口元に微笑を浮かべて言った。
「例の件というと《スケアクロウ》に関する情報収集ですね?」
「ああ。《中立地帯》はまだ混乱状態にあるから、情報収集はできない。かと言ってこれ以上、《スケアクロウ》の件を長引かせたくもないんだ」
「気持ちはよく分かります。深雪は最近、シロとよく行動を共にしているのですよね? 《外国人街》にはどれくらいで入りしたことがありますか?」
すると、シロが身を乗り出してそれに答えた。頭上の獣耳がぴょんと跳ねる。
「シロたちね、このあいだ東日暮里のコリアタウンに行ったよ!」
「……! そうですか……それはちょうどいい。これからみんなで東日暮里のコリアタウンへ話を聞きに行きましょうか」
そこで、深雪たち四人はさっそく東雲探偵事務所を出発した。東日暮里コリアタウンの近くまで事務所のSUVで移動し、そこから徒歩で街へ向かう。すると、すぐに華やかな百済門が見えてきた。東日暮里コリアタウンの入り口だ。
以前、深雪と聖夜がこの街で会っていた際、突如、《Zアノン》信者に襲われるという事件が発生した。すぐに場所を移したものの、コリアタウンの人々にとってはいい迷惑だったに違いない。
あんなことがあれば警戒を強めていてもおかしくないのに、コリアタウンの様子は穏やかで落ち着いていた。あれから半月ほど経っているからだろうか。相変わらずコリアタウンには活気があり、他の区画の人たちの姿も見える。
東南アジア系と思しき人々の他に、今日はアフリカ系の人々や南米系の人たち、そしてヨーロッパ系の人々も足を運んでいるようだ。みな街を歩いたり買い物をしたりしている。
「このコリアタウン、不思議と他の街の人がよく来るみたいなんだ。開けている感じがして、いい街だよね」
他の《外国人街》では、よそ者はお断りという壁を容赦なく感じる場所もある。敵意のこもった視線や無言の圧力。そういった警告は、たとえ言葉が通じなくとも雰囲気で伝わるのだ。
それを考えると、東日暮里のコリアタウンは非常に開放的だった。多くの人々が出入りする気持ちも分かる気がする。
「でも、どうしてここのコリアタウンの人たちはこんなに他の区画の人を受け入れるのかな? 普通はもっと躊躇すると思うんだけど」
特にこのコリアタウンはちょうど《東京中華街》の支配域と《新八洲特区》の支配域が重なる位置にある。それはすなわち、《レッド=ドラゴン》と《アラハバキ》を同時に相手にし、街を守らねばならないという事だ。
それほどの脅威やプレッシャーに晒されたら、普通は周囲を警戒し街の結束力を高め、よそ者はできるだけ排除するという方向に向かうのが自然ではないか。
深雪が疑問を呈すると、オリヴィエは通りに面した建物の一つを見上げて言った。
「そうですね。理由はいろいろでしょうが、その一つに宗教があると思います」
「宗教……?」
「このコリアタウンの住民はほとんどがキリスト教徒で、しかもカトリック信徒なのですよ。見てください、あの建物が教会です。屋根の上に十字架を掲げているでしょう?」
オリヴィエの指し示す方に視線を向けると、確かに十字架を戴いた建物が立っている。
「あ、ほんとだ。シンプルで目立たないデザインだから気付かなかった」
驚きの声を上げる深雪に、オリヴィエは説明を続けた。
「《外国人街》にはいくつか教会があります。東日暮里のコリアタウンにあるこの教会は中でも最も規模が大きく、近隣の区画の人々もここへ集まってきて共にミサをあげます。自分の区画に教会を持たないところも多いので」
「へえ、そうなんだ」
「ですから、ここのコリアタウンの人々は余所者にも寛容なのですよ。もともと多くの区画の人々が出入りしており、それを受け入れてきた街なのです」
「ああ……そういうことか。だからこの街はこんなに開放的なんだ」
「信仰は時に民族や人種、国や言葉の壁を越えて人々を繋ぎ合わせます。苦境に立たされた時、或いは一人ではどうにもならなくなった場合、手を取り合って助け合い支え合う。その機能を宗教とそれによる信仰が果たすのです。宗教が原因で争いが起こることも多いですが、そういった弊害ばかりではないのですよ。もちろん、食糧難になれば互いに食料を譲り合ったり分け合ったりします」
つまり簡単に言うと、宗教由来の互助団体みたいなものなのだろう。
全く別の地域に存在していたり、異なった文化や思想を持った国々――一見するとあまり関わり合いが無いように思える諸国の人々が、宗教で繋がって互いに力を合わせ、助け合う。世の中にはそういうこともあるのだろう。
「つまり、あそこにいる東南アジアの人たちや南米の人たち、あとアフリカ系やヨーロッパ系の人たちもみなカトリック教徒という事か」
オリヴィエは頷くと、少し声を潜めて続けた。
「東日暮里のコリアタウンは《外国人街》で最大の規模を誇る教会を有していることもあり、他の教会がある区画よりもずっと多くの物資を蓄えているそうです」
奈落もさり気なく街の様子を見回しながら小声で言った。
「確かにここの奴ら、食うに困ってる気配がないし切羽詰まった様子にも見えねえな」
「これはただの推測なのですが、このコリアタウンの人々はおそらく今でも《東京中華街》と取引をしているのではないでしょうか」
――このコリアタウンが、街を全面的に封鎖しているはずの《東京中華街》と。
思わぬ言葉に目を見張ったが、よく考えると確かにオリヴィエの仮説は正しいのではないかと深雪も思う。
「そうだよな。他に大量の物資を調達できる組織はないし、《中立地帯》は《外国人街》より困窮しているから援助するのは現実的じゃない。外国人嫌いの《アラハバキ》なんて問題外だろうし」
「ええ。多くの繋がりを持つコリアタウンの人々なら、他の《外国人街》や《東京中華街》の事情にも詳しいはずです。ひょっとしたら《スケアクロウ》の情報も何か掴んでいるかもしれません」
なるほど。深雪はオリヴィエが自分たちをここへ連れてきた理由をようやく察した。
このコリアタウンには多くの人が集まってくる。他の《外国人街》の人々はもちろん、おそらく《東京中華街》との繋がりさえある。
それだけ、情報が得られる可能性も高いという事だ。




