第61話 藍家邸①【深雪サイド】
深雪たちの周囲に固まっている人々も、一斉にキョロキョロと周囲を見回し始めた。さすがに危機感を覚えたらしく、雨宮は小声で深雪へ詰め寄る。
「お前たち、知り合いだったのか!?」
「う……うん。事務所の仕事で何度も顔を合わせてるし、向こうも俺の顔は覚えてるよ。当然、俺が《死刑執行人》だという事も、東雲探偵事務所の所属していることも知られてる」
「先にそれを言えってんだよ! いちいち判断が遅え奴だな! ともかく走れ!!」
碓氷の掛け声で、深雪たちは一斉に人波を掻き分け、進み始めた。大勢の人と体や肩がぶつかるが、もはやそんな事に構ってはいられない。黄雷龍や黄龍部隊に背を向け、藍家へと至る路地を目指して進んでいく。
幸い、途中で人の波は途切れ、走れるほどまでになった。しかし雷龍たちも群衆を押しのけ、執拗に深雪たちを追いかけてくる。
「逃がすな、追え! 侵略者はみな殺しだ!!」
雷龍や影剣が人混みに揉まれている間に、逃げ切らなければ。深雪たちはいくつもの十字路をまっすぐ一気に走り抜ける。
ところが、目の前に突然、高い塀が現れた。左右に抜けられそうな路地はない。袋小路に入り込んでしまったのだ。
方角から考えても、この向こうに藍家のある区画があるのは間違いないのに。戻って別の道を進まねばならないが、背後から雷龍や黄龍部隊が迫っている。雨宮は舌打ちをしたが、すぐに深雪へ視線を向けた。
「おい、藍家の位置は分かるな?」
「あ……ああ」
もし迷ったとしても、今の深雪にはエニグマが憑依している。情報屋である彼の案内があれば、辿り着くことは難しくないだろう。雨宮は深雪の返事に頷き、言葉を続ける。
「俺たちが黄雷龍を引きつける。お前は先に行け!」
「でも……!」
「このまま三人で藍家に乗り込めば、屋敷を取り囲まれて一網打尽……俺たちはみな一巻の終わりだ。どのみち、どこかで連中を撒く必要がある。……俺と碓氷の二人だけならそれができる。迷っている時間はない。行け!」
雨宮はそう言うと、壁に向かって両手を付き、背中を屈めて肩に力を入れた。このまま自分の背中を土台にし、壁を乗り越えろと言っているのだろう。
この街の中で雨宮や碓氷と別れるのは不安もあった。連絡手段が極端に限られている中、いちど離れ離れになれば再び合流できる確証はないからだ。
だが、状況は刻々と差し迫っていた。異を唱えている余裕はない。黄雷龍に存在を悟られてしまった以上、望もうと望むまいと、この先は深雪一人で行くしかない。深雪は意を決すと、助走をつけ雨宮の背中を足蹴にし、ジャンプして土塀の上へよじ登る。そして、下にいる雨宮や碓氷へ呼びかけた。
「……ありがとう。二人とも、気をつけて!」
そして、塀の向こうへ姿を消す。それを下から見送った碓氷は、呆れて口を開いた。
「気をつけて、だと? 気をつけるのはお前の方だっつの。あいつ、自分の置かれた状況が分かってんのか?」
「今のは《自然体》がよく好む、定型句のようなものだろう。深い意味はない。気にするな」
「だといいがな。わざわざ《関東大外殻》越えまでして死なれたんじゃ、たまったもんじゃない」
「その点に関しては、不安しかないが……こうなっては仕方がない。俺たちは俺たちのすべきことをする。……行くぞ!」
雨宮は腰に提げたサーベルの柄に手をかけつつ、来た道を戻るため走り出した。できるだけアニムスを使わない――それが雨宮の方針だったが、これからは何が起こるから分からない。相手は血気盛んな《レッド=ドラゴン》の構成員だ。万が一を考えて、という事だろう。
碓氷は溜息をつき、それに続く。「疫病神の六番め!」と毒づきながら。
袋小路を戻ると小さな十字路があり、丁度そこに差し掛かったところで、追いかけてきた黄龍部隊や黄雷龍たちとばったり鉢合わせた。雨宮と碓氷はそれを確認し、相手に自分たちの存在を気づかせ十分に引きつけつつ、十字路を右手に折れる。その通路が、最も人影がまばらだったからだ。
「いたぞ、あそこだ!」
「追え、追えー!!」
相手はうまく雨宮と碓氷に食いついてくれた。深雪は一緒ではないが、よく似た顔をしている雨宮をそうだと勘違いしたらしい。もっとも、彼らは完全に頭に血が上っている。憎き日本人相手に、もはや手加減は無用と判断したようだ。さっそくアニムスを使って攻撃を仕掛けてきた。
炎の塊や鉄屑の銃弾が背後から襲い掛かってくる。さすがに素手でそれに対処するのは難しい。雨宮は渋々といった様子でサーベルを抜き、《天羽々斬》のアニムスを発動させた。
サーベルの刀身から放たれた凄まじい剣圧が炎を蹴散らし、銃弾を軽々と跳ね返す。ただ、それ以上の攻撃は加えない。二人の目的は《レッド=ドラゴン》との戦闘行為ではないからだ。碓氷も《メルト》を巧みに操りながら相手の追跡を凌いだ。道路標示や看板、建物の壁など、溶かせるものは何でも溶かし、追跡を防ぐバリケードに転用していく。
そうしてうまく追っ手を撹乱しつつ、二人はあくまで逃亡を図るのだった。
「ネズミはどこだ!?」、「あそこだ、追えー!」――そういった黄龍部隊の怒声も徐々に遠のき、ついには聞こえなくなった。
雨宮と碓氷は、上手く雷龍や黄龍部隊を深雪から引き離してくれたようだ。おかげで、その後は誰かの注目を浴びることもなく、閑散とした路地を進むことができた。
そしてエニグマの道案内を頼りに、深雪はようやく藍家へ辿り着く。
藍家のある一帯は高級住宅街であるらしく、一軒一軒の家がとても大きくて敷地も広い。暴徒の襲撃を防ぐためだろう、どの家も堅牢な門を備えていて、ぴたりと門扉が閉じられている。そのため、辺りはとても静かだった。《黄龍太楼》周辺の猛烈な喧騒を考えると、同じ街だとは思えないほどだ。
藍家も他の住宅と同様、立派な門構えをしている。だが、やはり門扉は固く閉じられ、その前には見るからに屈強な見張りが立ち、周囲に睨みを利かせていた。深雪は通りを挟んだ向かいにある住宅の物陰に身を隠し、藍家の様子を窺う。
「あれが藍家……か」
呟くと、すぐに頭の中でエニグマが返事をした。
『ええ、間違いありません』
「すごい見張りだな。街中がこんなじゃ無理もないけど。冷静にこっちの話を聞いてもらえるか、少し不安だ」
『けれどあの様子なら、中に藍家の要人がいるのは確実でしょう。そうでなければ、あれほど守りを固くする必要も無いわけですし。むしろ、幸いだとも言えます』
「そうか……それもそうだな」
『そういう事です。これからどうしますか、雨宮さん?』
深雪は考え込んだ。何か小道具を用意するような時間はなく、雨宮や碓氷もそばにはいない。策を弄している余裕は全くない。であれば、できることはただ一つ。
「……時間が惜しい。正面突破で行く!」
深雪はそう答えるや否や、隠れていた住宅から身を離し、藍家の門前へ向かって真っすぐに歩いていく。それに気づいた守衛たちは、たちまち警戒態勢になって深雪の行く手を塞いだ。みな体格が良く、少なくとも深雪より頭一つ分は背が高い。そのため、目の前に並ばれると壁が聳え立つかのようだ。守衛たちは次いで、威嚇するかのような重低音の声音で、警告を発する。
「おい、止まれ! ここから先は、藍家の敷地内だぞ!」
「怪我をしたくなかったら、今すぐここを立ち去れ!!」
しかし深雪は怯むことなく、ぐっと守衛たちを見上げた。
「すみませんが、至急、取り次いで欲しい人がいます。藍光霧という人です」
「聞こえなかったのか!? 立ち去れと言っているだろう!!」
「そもそもお前、どこの家の者だ!? お前の服にはなぜ、チャイナボタンがない!?」
雨宮たちが用意してくれたチャイナ服には、最初からボタンがついていなかった。ボタンが無くても不自然ではないデザインのものを選んだようだ。混迷をきたし、分断された《東京中華街》の街中を歩く際に、特定の色を身にまとうのは危険が大きすぎる。
藍家の守衛たちは黄龍部隊やデモ隊に比べ、まだいくぶん冷静であるようだが、緊迫した様子であることに変わりはない。だからそういった小さなことにも鋭く目を配っているのだ。ごちゃごちゃと曖昧な言葉を並べると、却って彼らを刺激し、不信感を抱かせるだけだろう。深雪は門番に詰め寄って囁く。
「俺は《レッド=ドラゴン》の人間ではありません。東雲探偵事務所の《死刑執行人》です」
「……!!」
「な……何だと!?」
東雲探偵事務所の《死刑執行人》――まさか深雪の口からそのような単語が飛び出してくるとは、夢にも思わなかったのだろう。門番たちは一斉に動揺し、色めき立った。
「何故、《死刑執行人》がこんなところに……一体、何が目的だ!!」
守衛の中には警戒するあまり殺気を露わにし、今にもアニムスを発動させそうな勢いを見せる者までいる。深雪は彼に向かって鋭く視線を投げ、その動きを牽制した。
「安心してください。俺たちはあなた方藍家に危害を加えるつもりも、対立するつもりもない。ただ、《監獄都市》の一員として、《東京中華街》の混乱を一刻も早く収束させたいと考えているだけです。その為にも、どうか藍家の方々に協力していただきたい。それがあなた達にとっても、利益になる筈です」
抑えた声音でそう伝えると、門番たちは互いに顔を見合わせる。
「おい、どうする……?」
「《死刑執行人》の言う事など、信用できるか! そもそもこいつが本当に東雲探偵事務所の《死刑執行人》であるという保証もない!!」
「だが、本当だったら……? 東雲の《死刑執行人》を……《中立地帯の死神》を敵に回すのはまずいぞ!」
深雪がとても東雲探偵事務所の《死刑執行人》には見えないからか、それとも《東京中華街》が封鎖されている中、よほど外部の人間の来訪が想定外だったのか。門番たちはなかなか判断がつかず、混乱しているようだ。すると、そのうち明らかにリーダー格と見られる年長の男が、他の守衛たちを窘める。
「静かにしろ。まずは旦那様にお伺いを立ててくる。東雲の《死刑執行人》とやら、しばしここで待て」
「……分かりました」
深雪は大人しく、そのまま門前で待つことにした。残った守衛たちは警戒を緩めることなく、深雪をぐるりと取り囲んで見張っている。誰も言葉を発さず、静かだがひどく緊張した時間が淡々と過ぎていく。やがて、藍家の中に引っ込んだリーダー格の守衛が、再び姿を現した。深雪はすかさず声をかける。
「光霧さんにお会いすることはできますか?」
「残念だが、光霧さまは今、とある用事で屋敷を空けておられる。会うことはできない」
「……! そんな……!」
「だが、藍家当主の光鶯さまが、特別に会ってやっても良いと仰っている。どうする?」
(藍家の当主が、直々に俺と……?)
思わぬ展開に深雪は戸惑った。藍光霧の顔は知っているし、《ヘルハウンド》時代に奈落と同僚だったという事も知っている。だが、当主である藍光鶯とは会ったことがないし、どんな人物であるのか顔さえ知らないのだ。
それに、《レッド=ドラゴン》を支える六家の主の一人である以上、藍光鶯が《死刑執行人》に対して好い感情を抱いているとは限らないし、むしろ逆である可能性の方が高いのではないか。援護してくれる味方もいない、深雪は一人きりだ。そんな状態で、藍家の当主と面会しても大丈夫だろうか。
(でも、ここまで来て大人しく引き返せない! 収穫ゼロというのだけは、絶対に避けたい……!!)
《東京中華街》はひどく混乱し、連絡を取り合う手段も殆ど無い。それは六家の人々とて同じだろう。屋敷を空けているという藍光霧と、藍家の人々が緊密に連絡を取り合っているとは思えない。つまり、彼らも藍光霧が今どこにいるのか、分からないのではないか。
かと言って、藍光霧がいつ屋敷に戻るのか分からない。また、こちらもそれを悠長に待っている時間もないというのが実情だった。多大な労力をかけ、雨宮や碓氷を巻き込んでまでして、ここまで来たのだ。今さら引き返せない。多少のリスクを冒してでも成果を取りに行くしかない。深雪は腹を固める。
「……分かりました。会わせてください」
「ついて来い」
守衛は深雪に向かって顎をしゃくり、屋敷の中に入れと促した。深雪は大人しく彼の後に続いて藍家の門を潜りつつ、自らの体に憑依しているエニグマへと小声で尋ねる。
「エニグマ、藍家の当主ってどういう人なんだ?」
『そうですねえ……穏やかで聡明な人物ですよ。といっても、いかんせん彼も《レッド=ドラゴン》の幹部の一人ですから、一筋縄ではいかないでしょうけどね。仙人のような風貌をしている人物です』
「仙人……? ひょっとして、お年寄りなのか?」
『ええ。六家の当主の中では最年長ですから』
「そうなのか……」
深雪の数倍もの時を生き抜いてきたのだ、経験もさぞや豊富だろう。そんな相手とうまく交渉し、協力を取り付けることができるだろうか。考えれば考えると、余計に気が重くなってくる。エニグマは更に付け加えた。
『藍家がどの家ともつるまず、中立を貫いているのは、それが藍光鶯の方針だからです。我々にとって接触しやすい人物であるのは確かですが、自主自立を好む彼の気質を考えると、過剰な協力を期待するのは難しいという面もあるでしょう。くれぐれもお気をつけて』
「……ああ、分かった」
藍家の立派な門をくぐると、中には更にいくつか門があり、それを順に潜ると開けた空間に出た。すぐ目の前には広々とした中庭が広がっており、それを囲むようにして、四方八方に二階建て三階建ての立派な屋敷が並んでいる。いわゆる、四合院という中国の伝統的建築様式を模しているのだろう。
中庭のタイルは美しい中華模様を描き、屋敷の柱や窓枠、扉などは鮮やかな鬱金色、そして屋根瓦の色は藍家の名に相応しい真っ青な瑠璃色だ。紅家邸や《黄龍太楼》のような威圧感や荘厳さはないものの、全ての色が調和しており、美しさだけでなく品格をも備えた屋敷だった。微かな夕日を浴びて幻想的に輝く瑠璃色の屋根瓦に、深雪は思わず感嘆の溜め息を漏らす。
中庭の正面に目を向けるとそこには階段があり、更に上にはひときわ立派な屋敷が立っていた。その正房(母屋)を背にし、一人の老人が佇んでいる。血色はいいが、頭髪から眉毛、長いひげに至るまで全てが真っ白。裾の長い紺碧のチャイナ服をまとっているが、それが何とも言えず神秘的な雰囲気を醸し出している。まさに仙人のような格好だ。
すると彼が藍光鶯か。深雪の背中を、ひときわ強い緊張が走った。藍光鶯は一見すると穏やかであるように見えるが、この年まで当主を務めてきたことを考えると、かなりの老練家であると見て間違いない。おまけに老人の周囲を守るようにして、立派な体格をした藍家の家人が取り囲み、深雪の方を睨んでいる。
深雪は中庭を進み、彼らから遠すぎず近すぎず、ちょうど良いところで慎重に足を止めた。すると、さっそく藍光鶯が声をかけてくる。
「ようこそ、藍家へ。君かね、東雲探偵事務所の《死刑執行人》というのは?」
「はい、そうです。突然、押しかけてすみません。俺は雨宮深雪といいます。お会いできて光栄です、藍光鶯さん」
「ふむ……東雲探偵事務所の《死刑執行人》はみな、それなりに顔と名を覚えているつもりだが、君は初めて見る顔だな」
「俺は最近、事務所に入ったばかりなので……御存じないのも無理はありません。ただ、俺が東雲探偵事務所の《死刑執行人》だというのは本当です」
それから深雪は藍家を尋ねるに至った経緯を説明する。封鎖されたこの街に《中立地帯》の方から侵入するのは難しかったので、《関東大外殻》を越え北側から入ったこと。本当は、《ヘルハウンド》の一員だった藍光霧を頼るつもりだったこと。それを聞いた藍光鶯は僅かに目を見開いた。
「ほう、光霧が《ヘルハウンド》に身を置いておったことを知っているとは……そういえば、東雲探偵事務所も《ヘルハウンド》出身の傭兵を雇っておったな。君があそこの《死刑執行人》だというのは事実という事か。……それにしても、いやに若いな」
「次の誕生日で十九になります」
「なるほど。君がこの時期、この街にいることを、《中立地帯の死神》は……」
「知っています。俺がここにいることは、所長の意思でもあります」
光鶯は顎を引き、じっと深雪を見つめる。まるで品定めをするかのように。彼が何をどう判断しているのか、その無表情な顔からは分からない。深雪は固唾を呑んで、ただ藍光鶯の瞳を見つめ返した。やがて藍光鶯は再び口を開き、周囲の守りを固める家人たちへ告げた。
「……よし、分かった。お前たち、下がっておれ」
「し、しかし……!」
「なりません、光鶯さま! せめて光霧さまがお戻りなるまでは、我々がそばでお守りします!!」
「これ、言う事を聞かんか。お客人に失礼だろう。それに、お前たちがそばにいると暑苦しくてかなわんわ。そう殺気立たれては、落ち着いて話もできんではないか」
「そうはおっしゃいましても!」
「心配はいらん。この若者とて、『敵地』で羽目を外すほど愚かでもあるまい? それに、警戒すべき相手は《死刑執行人》だけではない。外部の動きにしっかりと目を光らせておけ」




