意地
王都の中央通りを、一台の豪奢な馬車が走っていた。
黒塗りの車体は純金製の金具で飾られ、車輪が石畳を踏むたびに小さな鈴が涼やかに鳴る。
車内では、エリシアが鏡を覗き込んでいた。
艶やかな金髪に真珠をあしらった髪飾り。
淡い薔薇色のドレスを纏い、細い指には昨日贈られたばかりの指輪。
どこから見ても、非の打ち所がない。
「アレクシス様。今日のわたくし、どうかしら?」
「とても美しいよ」
返事に一瞬の迷いもなかった。
エリシアは満足そうに微笑む。
「まあ。昨日も同じことをおっしゃいましたわ」
「昨日も今日も美しいのだから、仕方ないだろう」
「ふふ。では、明日もそう言ってくださる?」
「もちろん」
アレクシスは笑った。
彼女の笑顔を見ると、胸の奥が熱くなる。
この女性と結婚できるというだけで、自分は正しい選択をしたのだと思える。
「ところで今日、宝石商へ寄ってくださるでしょう?新しい耳飾りが欲しいの」
エリシアが扇を開いた。
「先週、首飾りを買ったばかりだろう?」
「首飾りは耳につけられなくてよ。それに、来週の舞踏会には新しいものを身につけたいの」
「……分かった。好きなものを選ぶといい」
「まあ、嬉しい」
エリシアはまた笑った。
その笑顔に見惚れながら、アレクシスは彼女の手を取った。
「君が喜ぶなら何でもしよう」
「本当に?では、遠慮しませんわ」
一瞬アレクシスの指が止まったが、すぐに笑みを戻した。
*
数か月前、アレクシスはポンポコナー・ポンポコピー・アウレリウス・フォン(以下略)との婚約を名前が長すぎることを理由として破棄した。
だが本当の理由は、別にあった。
アレクシスは抗えなかった。
舞踏会で見たエリシアは華やかだった。
会場のどこにいても視線を集め、誰と話していても自然と人が集まる。
その隣に立つ自分を想像すると、胸の奥に甘いものが広がった。
ポンポコナーではなく、エリシアを選びたい。
それを正直に言うと世間体が悪いので名前を理由にした。
「私にはあの長い家名を名乗ることはできない」
苦しい言い訳だと思っていたが、堂々と語れば案外あっさり通ってしまった。
他人は意外と話の内容そのものは聞いていないようだ。
どうやら大衆は簡単に騙せるらしい。
*
結婚式の日、大聖堂には多くの貴族が集まった。
エリシアが祭壇へ歩いてくると、あちこちから感嘆の声が漏れた。
「お美しい……」
「まさに今日のための花嫁ですな」
「アレクシス殿は幸運だ」
その言葉を聞くたびにアレクシスは誇らしくなった。
エリシアが隣に立つと花の香りがする。
彼女の瞳は宝石よりも鮮やかだった。
「緊張していますか?」
「少しな」
「わたくしは平気ですわ、アレクシス様が一緒ですもの」
エリシアは微笑んだ。
その言葉に、アレクシスは満面の笑みを浮かべた。
二人は誓いを交わした。
指輪を交換すると拍手が巻き起こった。
「これで、ずっと一緒ですね」
「ああ、君を幸せにするよ」
その言葉は、嘘ではなかった。
*
「アレクシス様。この椅子、気に入らないわ」
「昨日、君が選んだものだろう?」
「昨日はこれがよかったけれど、今は別のものがいいの」
*
「アレクシス様。今度の晩餐会、あの方も来るのでしょう?今のドレスは着られませんわ」
「この会話は何度目だ?先週仕立てたばかりだろう」
「だったら何でしょう?わたくしが恥をかいてもいいのですか?」
「そんなつもりはない」
「なら、新しいものを。急いでくださいまし」
*
「アレクシス様。別邸へ行きたいわ」
「先月も行っただろう、私にも仕事がある」
「仕事とわたくし、どちらが大切なの?」
「……君だ」
「なら、行けますわね?」
*
「アレクシス様。宝石商を呼んでください」
「またか?」
「また、とは何ですの?欲しいものを買ってくださるとおっしゃったでしょう?」
「言ったが……」
「では、お願いしますね」
*
「アレクシス様、聞いていらして?今度の舞踏会、わたくしは誰よりも目立たなければいけませんの」
「エリシア。先日の支払いもまだ――」
「では、わたくしに恥をかけと?」
「そういう意味ではない」
「なら、何でしょう?」
「……何でもない」
エリシアは不満そうに唇を尖らせた。
「最近のあなた、少し変ですわ。以前はもっと優しかったでしょう?」
嫌がらせがしたかったわけではないのだが、余裕がなくなりつつあった。
だが、それを口にすることはできなかった。
「……すまない」
「謝罪は結構。謝るくらいなら、ちゃんとしてください。それでは、お願いしますね」
エリシアが部屋を出ていく。
アレクシスは机に手をついた。
そこには請求書が何枚も積み重なっている。
どれもエリシアのために支払ったものだった。
アレクシスは一枚を手に取り、金額を確認する。
「……これほど、か」
以前なら払えたが、家を整え、衣装を揃え、交際費を払い、エリシアの望みをすべて叶えていると蓄えは目に見えて減っていった。
「旦那様。先ほど商会から使いが参りまして、奥様が注文された宝飾品の代金についてとのことです」
アレクシスは眉間を押さえた。
「……分かった。私が払う」
「ですが、旦那様。今月は――」
「払うと言っているだろう!」
声が響き、使用人が肩を震わせる。
アレクシス自身も驚いた。
「……下がれ」
使用人が頭を下げて出ていく。
アレクシスは椅子へ座り、机の端に残っていた古い書類へ目を向けた。
婚約破棄の書類だった。
『家名が極端に長く、将来的な生活に支障をきたすため――』
指先で、その一文をなぞる。
本当は、エリシアが欲しかった。
美しく華やかな彼女を妻にすれば、自分まで価値のある男になったような気がした。
「私は……」
言葉が続かない。
そのとき、廊下からエリシアの声が聞こえた。
「アレクシス様!明日の予定、覚えていらっしゃる?」
「明日は仕事が――」
「わたくしと劇場へ行く約束でしょう?忘れていたのかしら?」
「いや」
「なら、ちゃんと覚えておいてくださいね」
足音が遠ざかる。
アレクシスは目を閉じ、ふと気づいた。
ポンポコナーなら、こんなふうに何度も要求を重ねたりはしなかった。
あの少女は、いつもこちらの都合を聞いていた。
アレクシスが忙しいときは静かに待っていた。
贈り物をすれば、金額ではなく選んだ気持ちを喜んでくれた。
それなのに、自分は彼女に何をした?
「……名前が長いから」
口にしてみるとやはり一人の女性を切り捨てるには軽薄だった。
エリシアを見れば見るほど、その選択の重さが増していく。
エリシアが悪いのではない。
彼女は欲しいものを欲しいと言い、アレクシス自身がそれを与えると言ったのだ。
「……私が選んだんだ」
アレクシスは書類を伏せた。
エリシアと共にいられて誇らしいと今でも思う。
その一方、他でもない自分がポンポコナーを捨てたという事実を認めたくはなかった。
*
エリシアは寝台の前で新しい宝石箱を開いた。
「ねえ、アレクシス様。これ、素敵でしょう?明日の劇場へ着けていくわ。あなたが買ってくださったものですもの、きっと似合いますわ」
エリシアは鏡の前で耳飾りを当てた。
その横顔を見ながら、アレクシスは微笑んだ。
「よく似合っている」
「でしょう?では、明日もよろしくお願いしますね」
エリシアは満足そうに笑った。
しかしアレクシスの笑顔の奥には、以前とは違うものがあった。
自分だけは間違っていないと思いたい、そんなかすかな意地が亀裂となり広がっていた。




