白鳥を脱いだ男
「おはよう、ポンポコナー」
ヴァルグレン邸の前に見慣れない青年が立っていた。
白い髪に端正な顔立ち、すらりとした長身。
銀糸で刺繍が施されている黒を基調とした正装の胸元にはヴァルグレン家の紋章があった。
手袋をはめた繊細で大きな手をこちらに差し出している。
「……おはようございます、ジークフリート様」
初対面での姿があまりにも強烈だったせいで、目の前の青年が同一人物だと認識するのに少し時間がかかった。
ジークフリートは微笑む。
「どうした?」
「いえ……その……随分と普通、というか、凛々しくなられましたね、とても似合っております」
ポンポコナーは頬を赤らめ視線を逸らした。
ジークフリートは満足そうに頷いた。
「もう白鳥になる必要がなくなったからな」
その言い方があまりにも真面目だったので、ポンポコナーは思わず吹き出した。
「ふふっ……申し訳ありません。でも……」
「いい。君が笑顔になるなら私も嬉しい」
あれほど白鳥にこだわっていた男とは思えない。
あの瞬間まで胸の奥に沈んでいた重たいものが少しずつ薄くなっていくような、そんな時間だった。
そのとき、足音が聞こえ、いつぞやの老執事があらわれた。
厳めしい顔をしているが、今日はどこか落ち着かない様子だった。
「ジークフリート様、旦那様がお呼びです。それと……」
老執事がポンポコナーを見る。
「ポンポコナー様にも、同席していただきたいとのことです」
二人は顔を見合わせた。
やがてジークフリートが言った。
「行こう」
ジークフリートが手を差し出した。
ポンポコナーは一瞬だけその手を見つめ、それから自分の手を重ねた。
「……温かいですね。少しだけ、慣れました」
ジークフリートの目元が柔らかくなる。
「それは嬉しい」
二人が階段を上がっていく。
その後ろ姿を見送りながら、老執事は小さく息を吐いた。
「……ようやく、ですな。あの方が来て良かった」
*
通されたのは、広々とした応接室だった。
窓からは日光が差し込んでいる。
長いテーブルの向こうには、ヴァルグレン家当主と夫人が座っていた。
当主は目頭を押さえ、夫人も口元を手で覆っている。
「どうかなさいましたか?」
ポンポコナーが尋ねると、夫人は慌てて姿勢を正した。
「失礼しました、感極まってしまって。この子が服を着て歩いているところを、何年ぶりに見たでしょう。こんな日が来るとは思ってもみませんでした……」
ジークフリートは少し照れたように目を伏せた。
当主が咳払いをする。
「ポンポコナー嬢、詳細も知らされず地下牢へ連れて行かれ不安だっただろう。まず謝罪させてほしい」
当主が深く頭を下げた。
「本来ならば、婚約という人生に関わる話を、本人の意思も確認せず進めるべきではなかった」
「ですが……」
ポンポコナーが言いかけると、当主は首を横に振った。
「事情があったとしても、それで君の不安が消えるわけではない」
その言葉に、ポンポコナーは黙って頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
「そして、もう一つ礼を言いたい。ジークフリートを救ってくれたことだ」
当主の声が少し震えた。
ポンポコナーは目を丸くする。
「最初からこうではなかった。この子は元々優秀だった。剣も学問も人並み以上にこなした。だが、白鳥に取り憑かれてからは何を言っても『白鳥になれば彼女に会える』の一点張りだった。手を使わずにパンを食べる。教師が叱れば白鳥の真似をする。白鳥になるための研究に明け暮れ、しまいにはあのおかしな服を着て池で泳ぎ始め……」
当主は苦笑した。
「噂も広がり我々には打つ手もなく、閉じ込めておくしかなかった」
ポンポコナーはジークフリートを見る。
彼は何も言わず指を静かに組んでいた。
夫人が微笑みポンポコナーへ向き直った。
「でも、わたくしは知っています。この子は本来真面目な子です。あなたが元に戻してくれました。あなたは悪魔祓いの聖女だったのですね」
ポンポコナーは胸元に手を添えた。
「特別なことをしたつもりはありません。そもそもわたくしは聖女では……」
「感謝してもしきれません。元の優しいジークフリートと話ができる、それがとても嬉しいのです」
夫人の声は明るかった。
ポンポコナーは少し考えてから、微笑んだ。
「そうですね、ジークフリート様は優しいです」
ジークフリートが顔を上げポンポコナーを見つめていた。
二人の視線が重なり、ポンポコナーは笑った。
その様子を見ていた当主が、わざとらしく咳払いをした。
「それで、だ。ポンポコナー嬢、この縁談について改めて君たちの意思を確認したい」
部屋の空気が変わった。
ポンポコナーは椅子から立ち上がった。
「わたくしは、結婚を前提にジークフリート様ともっとお話をしたいと思っています」
ジークフリートの髪を見ると、かつて地下室の薄暗がりに溶けていた髪が、日の光を受けて銀色に輝いていた。
ジークフリートも立ち上がる。
「私ももう決めています。ポンポコナーと結婚したい。ヴァルグレン家の今後の方針については兄上にお任せします」
その言葉に迷いはなかった。
当主はしばらく二人を見つめ、それから微笑んだ。
「よし。それでは婚約者候補として正式に交流を認めよう」
「ありがとうございます」
ポンポコナーが頭を下げる。
その日から、ヴァルグレン家の空気は少しずつ変わっていった。
屋敷では笑い声が聞こえるようになり、使用人たちはポンポコナーをより丁重にもてなした。
*
ある日、ジークフリートは湖畔に立ち静かに笑っていた。
「どうしたのですか?」
ポンポコナーが隣に立つ。
ジークフリートは湖を見つめたまま答えた。
「いや、君とここにいるのがあまりに幸せでな。ここに初めて来た時には、こんな運命が私を待ち受けているとは知らなかった」
ポンポコナーの頬が、わずかに赤くなる。
「……そうですね」
風が吹き、揺れた湖面が陽光を弾く。
その景色の中で、二人は体をもたれ合わせるようにそっと寄り添っていた。




