家名と、白鳥と、それからわたし
ジークフリートの手は、ポンポコナーの手を優しく包み込み、それがどうにも照れくさかった。
「……あの、白鳥と目が合った気がします」
「彼も君に会いたかったのだろう」
「白鳥に意思があるのですか」
「少なくとも私はそう思っている。名前だってある、シスネという」
白鳥の頭が上下に揺れた。
「『コォー』……ほら」
「腹話術ですか?何が『ほら』なのかわたくしには分かりません、でも上手な鳴き真似ですね」
ジークフリートが小さく笑った。
噂に聞いた狂人とはとても思えない。
怖くはなく、むしろ奇妙さが心地よかった。
「……わたくしは今日、婚約を破棄され、そのままこちらへ連れてこられました。相手の方は、わたくしの名前が長すぎるから嫌だと仰いました」
ジークフリートの眉が僅かに寄った。
「君の名前がか?それは理由にならない」
即答だった。
ポンポコナーは目を瞬いた。
「……そうでしょうか、名前を書くのが大変だとのことでした」
「だったらなんだというのだ、書けばいいだろう」
「紹介するのにも時間がかかるそうです」
「かければいい、どんなに長い名前だったとしても私がここで籠の中の白鳥として過ごした時間よりは短く済むだろう」
「……名前を呼ぶだけで夜が明けるかもしれないと」
「夜が明けたら朝食のパンを食べればいい、簡単なことだ」
あまりにも真顔で言うので、ポンポコナーは笑い声を響かせた。
ジークフリートも嬉しげに目を細める。
「そのほうがいい、君はずっと泣くのを我慢しているだろう」
図星だった。
ジークフリートはそれ以上何も言わず、ただ静かに手を握っている。
やがてポンポコナーは、小さく息を吐いた。
「……変わってますね」
「よく言われる」
「わたくしも変なのです、こんなに長い名前を持っていますから」
ジークフリートは少し考えた。
「その長い名前とやらは君が決めたことなのか?」
「いいえ。代々受け継いでいるものです」
「ならば、君自身が変わっている理由にはならないと思うが?」
また胸の奥が、きゅっと締まる。
今日一日、誰も言ってくれなかった言葉だった。
「……あなたは、どうしてそんなに優しいのですか?」
ジークフリートは首を傾げた。
「優しい?私は事実を言っているだけだ」
「優しいですよ」
「……ポンポコナー、君に頼みたいことがある」
ジークフリートはポンポコナーの手を離すと、その場で膝をついた。
純白のチュチュがふわりと広がり、股間から生えた白鳥がポンポコナーの視界いっぱいに入った。
「あの、白鳥が気になるのですが」
「シスネも立ち会うのだろう」
「そういう問題ではなくて……」
ジークフリートは白鳥のことなど一切気にせず、その瞳はまっすぐに彼女を見つめている。
「ポンポコナー。私と結婚してもらえないだろうか」
飾り気のない声で迷いなく告げた。
「君が私のことをどう思っているのか、今すぐ答えを求めるつもりはない。私は長い間、白鳥になろうとしてきた。笑われても、気持ち悪がられても、地下に閉じ込められても君に会える可能性が少しでもあるなら、それでよかった」
ジークフリートが顔を上げた。
その瞳に、揺るがない光が宿っている。
「君にも、そのままでいてほしい。君の家名も、君が大切にしているものも、君の癖も全部君だ。私は、それを愛している」
胸の奥で、何かがほどけた。
ポンポコナーの目が潤み、涙が頬を伝い止められなかった。
ポンポコナーは慌てて指で拭う。
「今日は、泣かないつもりだったのに」
「泣いてもいい、というか許可など必要ないだろう」
「簡単に仰いますね」
ポンポコナーは笑った。
「わたくしはあなたのことをまだよく知りませんので、今すぐ一生を誓うことはできません」
ジークフリートは静かに頷いた。
ポンポコナーは自分からジークフリートの手を取った。
「ですが、もっとあなたのことを知りたいです。わたくしのことも知っていただき、それでも互いに一緒にいたいと思えたなら……そのときは、あなたとの結婚をお受けします」
ポンポコナーは少しだけ照れながら微笑んだ。
ジークフリートの瞳が大きく見開かれる。
「ではこれから毎日、君に会いに行こう。食事を共にして、庭を散歩し、たくさん話をしよう」
「意外と普通ですね」
「あとは君のフルネームを覚える」
「……そこだけ少し不安です」
ジークフリートは胸を張った。
「覚えられるさ。他でもない君の名前だからな。一度聞いたらもう忘れない」
ポンポコナーはいたずらっぽく笑った。
「では、試してみましょう」
ポンポコナーは一度深く息を吸い、自分の名前を口にする。
「ポンポコナー・ポンポコピー・アウレリウス・フォン・エルドヴァーン・ルナセリア・ヴァレンシュタイン・ド・セレナディア・クロノフェルム……」
白鳥も首を傾げそうなほど長い名が、地下室の静寂を少しずつ満たしていく。
最後まで聞き終えると、ジークフリートは静かに言った。
「美しい名前だ、ポンポコナー」
ポンポコナーは目を伏せた。
「……ありがとうございます」
冷たい石壁に囲まれた地下室で、二人はしばらく話をした。
好きなものや幼い頃のこと、これまで誰にも話さなかったこと。
「これまでの縁談は全て断ってきた。大きな声を出しながら翼をはためかせて威嚇すれば、どんな令嬢も一目散に逃げ出した」
「腕を振り回したのですね。わたくしが同じ立場でも逃げ出していましたよ」
話すたびに、知らなかった相手の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
気づけば時間も忘れて話し込んでいた。




