新たな縁談
ポンポコナーは自室へ戻り、扉を閉めた。
普段なら窓辺から庭の噴水が水を吐く音や、使用人たちの行き交う気配が感じられたが、今日は雨がそれらをすべて覆い隠していた。
ポンポコナーはベッドの縁に腰を下ろし、枕元に置かれていた一冊の本を手に取る。
名前を正確に言い当てられると消えてしまう小人の絵本で、アレクシスから贈られた本だった。
子供扱いされているのか、ポンポコナーを皮肉っているのか、なんにせよバカにされているに違いない。
表紙を撫でると革の感触が指先に伝わる。
本の装丁は傷ひとつなく、ページも綺麗なままあの頃と何も変わっていない。
変わったのはポンポコナーのほうだった。
「……わたくし、これからどうすればいいのかしら」
部屋には一人きりで当然返事はない。
ポンポコナーは本を閉じて膝の上に置いた。
もしかすると泣いてしまえば楽になるのかもしれないが、涙すら出てこない。
胸の奥に大きな石を詰め込まれたようで、息をするたびに重かった。
やがて扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
「……今、参ります」
ポンポコナーは立ち上がった。
泣いている暇もないらしく、いっそ可笑しかった。
*
父の執務室には、母もいた。
二人とも表情が硬い。
「座りなさい、ポンポコナー」
椅子に腰を下ろす。
父はしばらく沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。
「アレクシスから婚約の破棄を告げられたそうだな」
「はい。お父様、わたくしなら大丈夫です」
父は深く息を吐いた。
怒りに燃えることも、悲しみに泣くこともせず、ただ目の前の現実を前に、どうしようもなく途方に暮れていた。
「無理をする必要はない」
「無理など……」
「ポンポコナー」
母が静かに名前を呼んだ。
それだけでポンポコナーの喉が詰まり、ポンポコナーは唇を噛んだ。
そのとき、父が机の上に一枚の書状を置いた。
「実はな。お前の婚約破棄を受けて、すでに別の縁談が持ち上がっている」
「……え?別の……縁談ですか」
ポンポコナーは目を見開いた。
父は視線を落とした。
「ああ、ヴァルグレン家からだ」
聞き覚えのある家名だった。
王国北方の広大な領地を治める名門。
国境に近い土地を代々守り、魔獣や盗賊から王国を守る役目も担っている武門の家だ。
「そこの令息、ジークフリート殿との縁談だ」
アレクシスとの婚約を破棄された、その日のうちに次の婚約。
いくらなんでも話が早すぎる。
「お父様。それは……どのような方なのですか?」
父と母が顔を見合わせた。
その沈黙が、何よりも不安だった。
「非常に優秀な青年だ。ただし、少し変わったところがある」
父が言った。
その「少し」が信用できない。
「どのように、でしょう?」
「噂では、気がふれていると言われている」
ポンポコナーは、瞬きをした。
父が苦い顔をしながら付け加える。
「あくまで噂だがな。雄叫びが聞こえたかと思えば屋根からジークフリート殿が降って来た、だの自殺志願者だの。脚刳りが臍の高さまである衣装を作らせ攫って来た乙女たちに着せて愉しんでいる変態男、毒薬を蒐集している、黒魔術のグリモアを探している悪魔崇拝者、悪魔憑き。あまりいい話は聞かない」
雨音だけが部屋に響いた。
ポンポコナーは慎重に言葉を選んだ。
「それは確かに、個性的ですね」
父が咳払いをした。
何も分からないのに縁談だけは進んでいる。
書状へ目を向けるとヴァルグレン家の紋章が刻まれている。
由緒ある黒地に銀色の狼が紙上で睨みを利かせていた。
「お父様、わたくしはこれからどうなるのでしょう」
父は答えず、代わりに母がポンポコナーの肩に手を置く。
「数時間後、ヴァルグレン家へ向かうことになっています」
ポンポコナーは時計を見た。
夕刻にはまだ時間があるが、準備をするには十分とは言い難い。
「わたくし達もさすがにどうかと思いました。そんなまともじゃない男が婿入りだなんて、家の恥ですから。ていのいい厄介払いのおつもりでしょうね。でも、一人娘であるあなたが結婚せずにいれば家の存続に関わるので背に腹はかえられません。わたくしの言いたいことは分かりますね」
母の声はいやに優しかった。
けれど、その優しさがかえって苦しかった。
「……承知しました」
*
雨はいつの間にか止み、空は夕暮れ色に染まりつつあった。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
王都の華やかな街並みは遠ざかり、石造りの建物が増えていった。
さらに進むと家々の数も減り、やがて鬱蒼とした森が現れた。
膝の上には母が用意してくれた小さな旅行鞄がひとつ。
自分の人生が大きく変わろうとしているというのに、荷物は驚くほど少ない。
「まるで追い出されるみたい」
向かいに座る侍女が、悲しそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。変なことを言ったわね」
ポンポコナーは微笑んだが、その笑顔は自分でも分かるほど弱々しかった。
アレクシスに婚約を破棄されたその日のうちに別の男との縁談を決められ、相手は得体の知れない男。
「……わたくしの人生、どうなってしまうのかしら」
手鏡に映った自分の顔を見ると、目の下には薄く疲れが滲んでいる。
それでも泣いてはいなかった。
正確に言えば、泣く気にもなれなかった。
やがて馬車が大きく揺れた。
「お嬢様、もうすぐです」
御者の声が聞こえ、ポンポコナーは背筋を伸ばした。
前方を見ると森の向こうに、巨大な屋敷が見えてきた。
灰色の石壁に高い塔、鋭い屋根は王都の貴族邸とはまるで違っていた。
周囲を取り囲む鉄柵には狼の紋章が刻まれている。
要塞を思わせる重厚さが、夕闇の中ではひどく冷たく見えた。
ぎいぃ、と金属が軋み門が開く。
馬車が玄関へ近づくにつれ、屋敷の巨大さがはっきりと分かってくる。
「随分立派ね」
「昔は砦だったそうです」
侍女が答える。
ポンポコナーは一度だけ目を閉じた。
馬車から降り、扉が開かれるとそこでは数人の使用人が整列していた。
中央に立つ老執事が深く頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました、ポンポコナー様」
「こちらこそ、お世話になります」
顔を上げた老執事の口元は微笑んでいたが、目の奥には憐れみが滲む。
まるで生贄にされた山羊の気分だった。
「それでは早速こちらへ」
案内されるまま長い廊下を歩く。
壁に飾られた歴代当主の肖像画たちは全て目が鋭く、ポンポコナーは背筋に緊張を覚えていた。
やがて、廊下の奥に一つの扉が現れた。
「こちらです、お足元にお気をつけください」
扉のさきにあったのは、じっとりした暗闇へ降りてゆく石造りの階段であった。
ポンポコナーは階段を降り、その先には金属製の重厚な扉が現れた。
老執事は極めて真面目な顔で頷いた。
「ジークフリート様は、現在こちらでお過ごしになっております。どうか、くれぐれもジークフリート様を刺激なさらぬようお願いいたします。それから、白鳥の首を掴むような行為は決して――」
「待ってください、白鳥の首を掴むことなどあるのですか」
ポンポコナーは思わず老執事の言葉を遮った。
老執事は沈黙した。
「以前、一度だけ」
「何があったのですか」
「長くなりますので」
老執事は静かに扉を閉めた。
ポンポコナーはその音を聞きながら、呆然と立ち尽くした。
今日一日で、婚約者を失い、次の婚約者が決まり、挙げ句の果てには気味の悪い座敷牢に入れられた。
「……どうして、こうなったのかしら」
床に膝をつく。
もう何も考えたくなくて、ポンポコナーは両手で顔を覆った。
そのとき、奇妙な声が聞こえた。
「……クエッ……」
ポンポコナーの指の隙間から、目だけが覗く。
ヒタヒタヒタと声の主がが近づいてくる。
「コホー……コォー……」
「……な、何かしら?」
低く澄んだ男の声がした。
「その声、まさか……」
ポンポコナーの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
そしてポンポコナーは、生涯忘れられない姿を目にすることになる。
薄明かりに照らされた白い髪。
雪のような肌。
息を呑むほど整った顔立ち。
その青年は、純白のバレエのチュチュを纏っていた。
衣装の股間部分から白鳥の頭が生えていた。
ポンポコナーは言葉を失った。
白鳥と目が合った。
白鳥もまた、じっと彼女を見つめている。
青年が震える声で呟いた。
「……やっと、見つけた」




