第九話 選別
「う、嘘だろ……」
誰かの震えた声が響く。
直後、一本の矢が広間の奥へ落ち、白い石畳へ突き刺さった。
続いて二本、三本。ぱらぱらと降り始めた矢は次第に数を増やし、床を埋めながら、少しずつ入口側へ迫ってくる。
「来る……!」
「矢が落ちて来るぞ!」
すぐに白の民からは悲鳴が上がった。
騎士達は真っ先に光の矢から逃れるように背後の扉があった場所に殺到し、何人もが人間が身体をぶつけて押し開けようとする。
「開けろ!」
「押せ! 早くしろ!」
扉を剣の柄で叩く者までいた。
だが、どれほど力を加えても、白い扉はびくともしない。
逃げ道はどこにもない。それでも、光の矢の進行は止まらなかった。
「どけ!」
扉の前にいた騎士が、近くの白の民を突き飛ばした。
「邪魔だ! お前は後ろに行け!」
「後ろには矢が降ってるだろ!」
白の民の一人が叫ぶ。
だが、別の騎士は目の前にいた男の肩を掴み、光の矢が迫る側へ力任せに押し出した。
「民を前へ出せ! 奴らを盾にして時間を稼げ!」
その言葉を聞いた瞬間、カイルは耳を疑った。
盾にするつもりなのか。国を守るはずの騎士が、自分達だけ助かるために民を矢の前へ押し出している。
けれど、抗議している余裕などなかった。
光の矢は広間の半ばまで迫り、人々の恐怖は瞬く間に広がっていった。
押された老人が膝をつく。
若い男が別の者の背中へぶつかり、大人達の足元では幼い少年が倒れそうになる。
「やめろ!」
「押すな!」
「転ぶ! 転ぶって!」
混乱しているのは騎士だけではない。
白の民も少しでも矢から離れようと、前にいる者を押しのける。
倒れた老人を助けるどころか、その身体を跨いで扉へ向かおうとする者もいる。
誰もが生きることに必死だったのだ。
だからといって、目の前にいる誰かを踏みつけていいはずがない。
「国を守っているのは俺達だ! こんなところで死ぬわけにはいかないんだよ!」
騎士の叫びに、誰も答えられなかった。
それも、当然だった。こんな救いようのない騎士の言うことを今頃聞くものはいるだろうか。
光の矢が近づくにつれ、人の波が一気に入口があった方へ押し寄せる。
その瞬間、誰かの肩がルカの小さな身体を横に弾いた。
「ルカ!」
考えるより先に、カイルは手が伸びていた。ルカの腕を掴み、自分の傍へ引き寄せる。
無事を確かめようとした時、そのすぐ近くで先ほどの老人が人の波に押し倒されていた。
老人は床へ手をつき、どうにか立ち上がろうとしている。だが、その上を何人もの足が通り過ぎようとしていた。
このままでは、人に踏み潰される。
カイルはルカだけを連れて逃げることもできた。
それでも、老人を置いていくという考えは、カイルの中には浮かばなかった。
「こっちに来てください!」
老人の服を掴み、ルカの傍へ引き寄せ、カイルは二人をまとめて床へ伏せさせると、その上へ覆い被さるように膝と両手を石畳についた。
「二人とも、動かないで!」
言い終えた瞬間、一本の光の矢が背中を貫いた。
「――っ!」
カイルの息が止まった。
背中から腹へ、灼けた鉄を突き通されたような痛みが走る。
支えている両腕が大きく震え、カイルの指先から力が抜けかけた。
カイルはこのまま倒れてしまえば、少しは楽になれると考えた。
だが、自分の下にはルカと老人がいる。
ここで腕を曲げれば、二人の上へ倒れ込んでしまう。
だが、間髪入れずに光の矢はカイルの背中を貫いた。
続けて三本目。さらに二本の光が両脚へ突き刺さり、カイルの身体を床へ縫い留める。
「が、ああああああああっ!」
痛みに耐えきれず、叫び声が漏れ、身体を支えている腕が震え続ける。
それでも、カイルは力を抜くわけにはいかなかった。
自分が倒れたら、二人に矢が当たると考え歯を食いしばり、石畳についた両手へ力を込め直した。
「カイル兄ちゃん……お腹から、血が……」
ルカの声に、カイルは僅かに顔を上げる。
腹を貫いた矢の先から流れた血が、ルカの頬へ飛び散っていた。
その目から、大粒の涙がこぼれている。
ルカ、泣かないでくれ。二人とも、矢には当たっていない。それなら、これでいい。
そう伝えたかった。けれど、口を開いても、まともな息さえ出てこない。
その時、刺さったままの光の矢が揺れた。
次の瞬間、矢の形がほどけ、背中を貫いていた三本も、足を床へ縫い留めていた二本も、細かな白い粒となって消えていった。
「……え?」
開いていた傷口が、淡い光に包まれる。
裂けていた肉がゆっくりと塞がり、腹から流れていた血も、ルカの頬に付いていた血も、光へ溶けるように消えていった。
あれほど激しかった痛みまで段々薄れていく。
カイルは荒い息を吐きながら、自分の身体を確かめた。矢に貫かれたはずの場所には、傷痕さえ残っていない。
「どうして、僕の傷が……?」
そう口にした時、周りから絶望するような声が宝物殿内に響き渡った。
「な、なんで……!」
カイルは顔を上げた。
白の民を矢の前へ押し出していた騎士にも、光の矢が突き刺さっている。
だが、その傷は塞がっていなかった。矢が消えた直後、騎士の指先が白い粒となって崩れ始める。
「やめろ……! 俺は国を守るために――」
叫びは最後まで続かなかった。
腕から肩へ、肩から胸へ身体が次々と白い粒へ変わり、床へ落ちることなく天井へ吸い込まれていく。
それは石碑を読み上げた隊長も同じだった。
胸を貫いた矢を見下ろし、信じられないものを見るように目を見開いている。
「なぜだ……私は、試練の秩序を……」
その言葉とともに、肩口から身体が崩れた。
やがて中身を失った鎧だけが、重い音を立てて石畳へ落ちる。
別の場所でも、同じことが起きていた。
幼い少年を突き飛ばした者。倒れた老人を踏み越えようとした者。助けを求めて伸ばされた手を振り払った者。そうした者達の傷だけが塞がらず、身体ごと光の粒へ変わっていく。
「嫌だ! 消えたくな――」
命乞いの声さえ途中で途切れ、天井へ吸い上げられた。
光の矢が止むと、広間には人がいたはずの空白と持ち主を失った武器や防具だけが残された。
騎士達は半数近くまで減っていた。白の民も、三分の一ほどが姿を消していた。
その時、カイルは石碑に刻まれていた言葉を思い出した。
――慈愛。
他人を犠牲にすることを選んだ者だけが、光の中へ消えている。
「僕は二人を守ろうとした。だから、僕の傷が治ったのか……?」
慈愛を示した者は癒やされ、捨てた者は存在そのものを消される。
頭上から降り注いだ光は美しかった。けれど、人の心を選ぶその光を、カイルは少しも優しいとは思えなかった。
「ルカ、大丈夫か?」
「カイル兄ちゃん……もう、こんなことしないでよ……」
ルカは泣きながらカイルへ抱きついた。
もう同じことをしないと約束すれば、安心させられるのかもしれない。
けれど、カイルはそんな約束はできなかった。
同じことが起きたら、カイルはきっとまたルカを庇う。目の前で誰かが倒れていたら、その人にも手を伸ばす。
それをしなければ、自分だけが助かっても、きっと後悔する。
カイルは何も答えず、震えているルカの頭を撫でた。
「……坊主」
不意に声をかけられ、カイルが顔を向ける。
そこにいたのは、先ほどカイルが助けた老人だった。
老人はまだ足元がおぼつかないのか、ゆっくりと歩み寄ってくると、カイルとルカを見て柔らかく笑った。
「ありがとうな。お前さんが手を伸ばしてくれなかったら、わしは今頃ここにはおらんかった」
「いえ……僕は、ただ……」
「それでもじゃ」
老人は穏やかにそう言うと、今度は泣き腫らしたルカへ目を向けた。
「いい兄ちゃんじゃな。大事にせんとな」
ルカはカイルへ抱きついたまま、小さく頷いた。
老人はそんな二人を見てもう一度笑うと、
「お前さん達も、ちゃんと生きて帰るんじゃぞ」
そう言い残し、生き残った者達の中へ戻っていった。
その時だった。広間の奥にある白い壁が、音もなく左右へ開き始める。
その向こうから現れたのは、さらに奥へと続く新たな通路だった。
まるで、試練を越えた者達へ先へ進めと告げるかのように。
だが――ほとんど同時に、背後からも石の擦れる音が響いた。
その場にいた者達が、一斉に振り返る。
後方の白い壁も左右へ開き、その向こうには、ここへ辿り着くまでに通ってきた道が続いていた。
誰もが同じことを思った――戻れる。
この先へ進めば、また同じことが起こるかもしれない。
次も生き残れる保証など、どこにもない。もう十分だと、あの道を引き返せばいい。
けれど――誰一人として動かなかった。
――王命。
その二文字が、全員の頭を過った。
だが、静まり返った広間の中で一人だけが動いた。
隊長に次ぐ立場にいた中隊長だった。
中隊長は石畳へ落ちていた隊長の剣を拾い上げると、消えた者達がいた場所を一度だけ見回す。
「……これが、“慈愛”のふるいか」
その声に悲しみがあるのか、カイルには分からなかった。
中隊長は後方に開かれた道から目を逸らし、拾い上げた剣を握り直す。
そして、前方に現れた新たな通路へ身体を向けた。
「生き残った者、列を整えろ」
その言葉に、数人の騎士が信じられないように顔を上げる。
「……中隊長、今ので隊長も……」
「隊長は死んだ。ここからは私が指揮を取る」
中隊長は僅かに間を置いた。
「進むぞ」
王命があるから誰も反論できなかった。
生き残った者達が、一人、また一人と立ち上がり、前方に開かれた通路へ列を作り始めた。
カイルもルカの手を握り、最後にもう一度だけ後ろを振り返った。
ここは、天使の宝物殿だ。
けれど、本当に慈愛のある場所なのか?
カイルには、もう分からなかった。




