第十話 過ち
中隊長の命令に従い、生き残った者達は第二の扉へ向かった。
誰も、すぐには歩き出せなかった。
騎士団は半数近くまで減り、白の民の列にも所々不自然な空白が生まれている。
悲鳴も命乞いも、まだ耳の奥に残っている。
それでも、立ち止まっていたところで消えた者達が戻るわけではない。
生き残った者達は言葉を失ったまま、中隊長の背中に続いて第二の扉をくぐった。
その先にも、白い石で築かれた広間があった。
真円を描く石畳に遥か上にある天井。そこから降り注ぐ静かな光。造りは先ほどの試練とよく似ている。
だが、先ほどと違う所があるとすれば、広間の中央には一体の像が立っている。
その像は純白の衣を纏い、胸の前で両手を組んでいる。
祈るように閉じられた目と、男とも女とも判別できない整った顔立ち。それはただ祈っている人には見えなかった。
背には石で造られている八枚の翼が広がっている。天井から降る光を受け、白く浮かび上がっている。
今にも瞼を開き、こちらへ語りかけてきそうだった。
「……守護者が現れたのか?」
誰かが震える声で呟いた。だが、中隊長は答えようとせず一歩前へ出て剣を抜いた。
その視線は、中央の像から少しも外れていない。
その空気に民達は緊張を覚える。
「全員、動くな!」
白の民達は息を呑み、残された騎士達も一斉に武器へ手をかけた。
先ほどの試練を越えたばかりなのだ。
見た目がどれほど美しくても、ここにあるものを無条件に信じられる者など誰一人いなかった。
その直後、祈りを捧げていた像が淡く輝いた。
「また何か来るぞ!」
中隊長の声が広間に響く。
像から広がった白い光は空中で形を変え、平らな板のようなものへと変わっていった。
その縁へ、白金色の枠が浮かび上がる。その正体は何の変哲もない鏡だった。
だが、その鏡は一枚、また一枚と、等身大の鏡が広間の各所へ現れる。
いずれ、百枚を超える鏡がその場にいる者を逃がさないように広間を埋め、それぞれの人間の真正面で静止した。
もちろん、カイルの前にも一枚の鏡が立っていた。鏡面に映っているのは、いつもと変わらない自分の姿。
そのはずなのに、目を逸らすことができない。
「カイル兄ちゃん……!」
隣にいたルカの声が聞こえた。振り返ろうとしたが、身体が動かない。
中隊長が何かを叫んでいる。その声は急速に遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
「……っ」
カイルの背筋に冷たいものが走った。鏡面が水のように揺れ、中心から幾重もの波紋が広がっていく。
次の瞬間、カイルの視界が白く反転した。
※
雪の匂いがした。気づいた時、カイルは白い坂道に立っていた。
古びた家々の間を、細い坂道が上へ伸びている。
屋根にも道にも雪が積もり、遠くから子供の足音が聞こえてくる。
僕はこの日のことに見覚えがある。
忘れたことなど、一度もない。ただ、ずっと思い出さないようにしてきただけだった。
白の国にある、古い坂道。幼い頃、何度も通った道。
身体は自分の意思で動かすことはできなかった。
足は勝手に雪道を進み、前を走る小さな背中を勝手に追いかけていく。
古い上着を着た少年が、積もった雪に足を取られながら、一生懸命に坂を上っていたその姿は幼い頃のカイルだった。
少年は迷うことなく、坂の上に建つ一軒の家へ向かっている。
この道の先には、友達の家がある。
だが、この時のことを思い出したくなかったのか、カイルは顔を下に向ける。
その時、幼い自分が目的の家に着いたのか、その場で止まり扉を開いて家の中へ入って行く。
現在のカイルも、その後を追うように室内へ引き込まれた。
部屋の奥では、一人の少年が寝台に横たわっていた。
病弱で、身体は細く、起き上がるだけでも苦しそうに肩を上下させている。
それでも、カイルの姿を見た少年は、弱々しく笑った。
――レイン
色を見分けられない自分をいじめようとせず、いつも対等に接してくれる唯一の友人だった。
外へ出られない日が多かったレインにとっても、カイルが遊びに来ることは何よりの楽しみにしていた。
けれど、この日の僕は、レインの苦しさを理解できていなかった。
『ごめん……カイル……今日は、ちょっと……』
レインの顔色は悪く、言葉を発するだけで呼吸が乱れている。
この日は明らかに体調が悪かったのだろう。
幼いカイルはその言葉を聞き、あからさまに顔を曇らせた。
そして、その顔を見たレインは
『でも……少しだけなら……遊べるかも……』
レインは幼い僕を落胆させまいとしたのか、無理に笑みを作ってさっきの言葉を挽回するようにもう一度語りかけた。
辛いはずなのに、一生懸命絞り出してくれた言葉を聞き、胸が締めつけられた。
やめろ。それ以上は何も言うな。お前は何も理解していない。
声に出しても、届かない。目の前で起きているのは、すでに終わった過去なのだから。
「……何それ」
幼いカイルの顔に、露骨な不満が浮かぶ。
レインがどれほど無理をしているのかも、少しだけでも一緒にいたいと思ってくれていることも、幼い頃の僕には一切分からなかった。
「いつも“少しだけ”じゃん。もういい」
『え……カイル……?』
レインの声が揺れた。それでも、幼いカイルは止まらなかった。
遊べない日が続いていた苛立ちを、目の前の友人へそのままぶつけてしまった。
「そんな身体なら……もう一緒に遊ばなくてもいい!」
レインの顔から、笑みが消えた。
その表情を見た瞬間、カイルは息を詰まらせた。
何度思い返しても、取り消すことのできない言葉。
幼いカイルはレインへ背を向け、部屋の出口へ向かった。
『カイル……待って……!』
レインが必死に身体を起こそうとして、身体も限界のはずなのにカイルに向かって手を伸ばす。
それでも、幼いカイルは呼び止める声にも気づかないふりをして、扉を開けた。
そして、白い坂道を逃げるように駆け下りていく。
次に景色が変わった時、幼い僕は孤児院の玄関を開けていた。
雪の付いた靴のまま室内へ駆け込み、奥にいたアリアへ飛びつく。
「アリアさん……レインが、僕に……!」
幼いカイルは泣いていた。
自分が傷つけた側であるにも関わらず、さも自分だけが傷つけられたような顔をして。
アリアはそんなカイルの前へ膝をつき、落ち着かせるように両肩へ手を置いた。
「カイル。ちゃんと話して。何があったの?」
「レインが、また遊べないって……少しだけならって……。僕、ずっと楽しみにしてたのに……!」
「それで、あなたは何て言ったの?」
幼いカイルは口を閉ざした。自分が何を言ったのか。
それを口にすれば、悪いのがどちらなのか分かってしまうから。
だが、このままでは何も進まない。そう思ったのか恐る恐る口を開いた。
「……そんな身体なら、もう一緒に遊ばなくてもいいって……」
アリアの表情から、普段の柔らかさが消えた。
「カイル。それは、あなたが悪いわ」
思いもしなかった返答に幼いカイルの涙が止まる。
アリアはカイルの味方をしてくれると思ったのだろう。
だが、アリアは間違っていることは間違っていると、きちんと指摘してくれる大人だった。
「病気で苦しんでいる子に、そんなことを言ってはいけないでしょう?」
「でも……」
「でも、じゃないわ」
幼いカイルは何も言えなくなった。
本当は、言った瞬間から分かっていたのかもしれない。
言ってはいけないことを言ったと。それでレインを深く傷つけた。
けれど、自分の過ちを認めることが怖くて、アリアの元へ逃げ帰ってきたのだ。
「ひどいことを言ったと思うなら、謝らないといけないわ」
アリアは幼いカイルの目を真っ直ぐに見つめた。その顔はいつも通りの顔に戻っていた。
「謝るべき相手は、分かるわよね?」
幼いカイルは袖で涙を拭い、小さく頷いた。
「……レインに、謝る」
そう告げると、幼いカイルは立ち上がり、来たばかりの玄関へ駆け出した。
扉を開き、雪の積もった坂道を必死に上っていく。
「はぁ……はぁ……っ!」
子供の短い足では、思うように前へ進めない。
何度も雪に足を取られ、転びそうになる。それでも幼いカイルは止まらなかった。
今すぐレインに謝りたい。傷つけるつもりではなかったと伝えたい。もう一度、一緒に遊びたい。と考えながらレインの家に向かった。
その背中を、カイルは黙って追い続けた。
※
レインの家へ辿り着き、幼いカイルは扉を叩こうと手を伸ばした。
その直前、扉がゆっくりと開く。
『あら……カイルちゃん……』
現れたのは、レインの母親だった。
目元は泣き腫らしており、手には固く握られたハンカチがある。
その姿を見ただけで、今のカイルには何が起きたのか分かる。だが、幼い僕にはまだ分からない。
「レイン……いる?」
カイルは走ってきたから息が上がっている。
ただ、問いかけられたレインの母親は涙をこぼしながら微笑んだ。
『ありがとうね、カイルちゃん……あの子と仲良くしてくれて……』
レインの母親は震える声で、それでも幼いカイルへ感謝を伝えようとしていた。
『あの子、今日もね……カイルちゃんと遊びたくて、外に出ようとしていたのよ……』
幼いカイルは、言葉の意味を理解できずに立ち尽くしていた。
半開きになった部屋の扉の隙間から、寝台を覆う白い布が見えた。
その下にいるレインが、もう動かないことだけは、子供のカイルにも分かった。
「あ……あ……」
声にならない音が、幼いカイルの口から漏れた。
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
雪の上についた小さな両手が震え、指先が何かへ縋るように積もった雪を掻いた。
そんなカイルの姿を見て、レインの母親が抱きしめようと手を伸ばす。
抱きしめられたカイルは何度も何度も一つの言葉を繰り返すことしかできなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝罪は、もうレインには届かない。
幼いカイルの泣き声だけが、静かな部屋へ落ち続けた。
カイルは、その光景から目を逸らさなかった。ずっと胸の奥へ押し込めてきた記憶。
自分はレインを傷つけた。最後に交わした言葉が、あの冷たい言葉になってしまった。
謝りに戻った時には、もう遅かった。
だから僕は赦されていいはずがない、そう思い続けてきた。
謝る相手は、もういない。赦してほしい相手も、どこにもいない。――その時だった。
『カイル』
背後から、懐かしい声が聞こえた。
優しく、穏やかで、何度も耳にした声。カイルはゆっくりと振り返った。
そこに、レインが立っていた。寝台で苦しんでいた姿ではない。
カイルと遊んでいた頃と同じように、自分の足で立ち、昔と変わらない笑顔を浮かべている。
「……レイン」
すぐに駆け寄って抱きしめようとしたのだが、身体はまだ自由に動かない。
カイルはその場に立ったまま、震える唇を開いた。
「君は……僕があの言葉を言った後、追いかけてこようとしていたんだね」
レインは小さく頷いた。
「うん。君と遊ぶ約束をしていたからね」
その言葉を聞いた瞬間、カイルの目から涙がこぼれた。
「なんでだよ! どうして追いかけようとしたんだよ。僕は君にあんなひどいことを言ったのに、しかも、こんなのたかが子どもの約束じゃないか!」
カイルは声を荒げた。それでも、その言葉にレインは笑った。
「たかがじゃないよ、カイル。僕には大事な約束だった。カイルが来てくれることも、話をしてくれることも、一緒に遊べる
ことも、全部!全部!」
カイルは何も言えなくなった。
自分にとって当たり前だった時間が、病弱で外へ出られなかったレインにとって、どれほど大切なものだったのか。
あの頃のカイルには、最後まで気づくことができなかった。
だが、失って初めて大切なものの存在に気づいたのだ。
「でも……僕は君を傷つけたんだ。謝りたかった。すぐに戻って、あんなことを言うつもりじゃなかったって伝えたかったんだ。でも、僕は間に合わなかった」
レインは急かさなかった。カイルが言葉を探し、最後まで話し終えるのを、昔と同じように待っていた。
「ずっと、謝りたかったんだ……レイン。ごめんなさい」
あの頃伝えることができなかった言葉をカイルはようやくレインに伝えた。
それに応えるようにレインは静かに笑った。
「うん。ちゃんと聞こえたよ、カイル」
「……レイン」
「謝ろうとしてくれたんだね。あの日も、ここでも」
その言葉に、胸の奥へ刺さっていたものが僅かにほどけた。
けれど、カイルはまだ顔を上げられなかった。
「でも、僕は……」
「僕が死んだのは、カイルのせいじゃない……カイルがあんなことを言わなくても、僕の身体はもう限界だったんだ。自分の身体は僕が一番わかっているからね! だから、僕との最後をあの言葉だけにしないで」
カイルは涙に濡れた目で、レインを見つめた。
「あの日より前にも、僕達はたくさん話したよ。たくさん笑ったし、遊ぶ約束もした。僕にとってのカイルは、最後にひどい
ことを言った人だけじゃない」
レインは昔と同じ笑顔を浮かべた。
「僕の大切な友達だよ」
その一言を聞き、カイルは堪えていた声を漏らした。
赦してほしかった。けれど、赦されることが怖かった。
レインを忘れたように生きることも、自分だけが救われることも、カイルには裏切りのように思えていた。
「カイル!また、僕と遊ぶ約束をしよう」
それはかつて果たせなかった約束。
もう二度と交わすことはできないと思っていた言葉だった。
「……うん。遊ぼう、レイン! 次は思い切り!」
カイルは涙を流しながら、それでも今度は逃げずに答えた。
レインはその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。
その約束を交わした瞬間、周囲の景色へ無数の亀裂が走った。
雪の積もった坂道も、レインの家も、目の前に立つ友人の姿も、白い光の中へほどけていく。
最後まで、レインは笑っていた。そして、世界は白く弾けた。




