第十一話 約束
白が弾けた。
カイルの目の前には、広間の中央で変わらず祈りを捧げる八枚翼の像が立っていた。
その姿を見て、レインとの記憶へ引き込まれる前にいた広間へ戻ってきたのだとすぐに分かった。
カイルはそのまま周囲を見渡す。
先ほどまで広間を埋め尽くしていた数百枚もの鏡は、すでに一枚も残っていない。
代わりに、白い石畳の上には何人もの人間が横たわっていた。
すでに起き上がっている者もいる。
けれど、誰もが無事に戻ってきたわけではないようだった。
膝を抱えたまま震えている者。
声を押し殺して泣き続けている者。
何も映していない虚ろな目で、ただ一点を見つめている者。
広間の至る所で、それぞれが鏡の中で見た何かに囚われていた。
その時、「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」同じ言葉を繰り返す声が聞こえた。
声の方へ目を向けると、白の民の男が石畳へ額を擦りつけながら、何度も謝罪を繰り返している。
身体にはどこにも傷はない。
それなのに、心だけはまだ鏡の中から戻ってきていないようだった。
また別の場所では、両腕で頭を抱えた男が意味を成さない言葉を呟いていた。
「違う……違う、違う……。あれは……俺じゃ……違う……」
周囲にいる者達も、自分のことで精一杯なのだろう。
誰も、取り乱す者達へ声をかけることができなかった。
「……試練に、負けたんだ」
近くにいた誰かが、掠れた声で呟いた。
その言葉を聞き、カイルはようやく理解した。
彼らの身体は、この広間へ戻っている。
けれど、心はまだ鏡の奥に囚われたままなのだ。
自分が犯した過ちと向き合うことができなかったのか。
それとも、過去に囚われたまま、そこから抜け出すことができなかったのか。
鏡はもう消えている。
それなのに、彼らは今もそこから離れられずにいる。
僕も、レインから目を逸らしていたら――同じようになっていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥へ冷たいものが広がった。
「カイル兄ちゃん!」
聞き慣れた声に、カイルは弾かれたように顔を上げた。
倒れている人々を避けながら、ルカがこちらへ駆けてくる。
その足取りは少しぎこちない。それでも、自分の足で立ち、真っ直ぐにカイルの元へ向かっている。
その事実を目にした瞬間、張り詰めていた息が細く抜けた。
「ルカ……」
「カイル兄ちゃん、大丈夫?」
駆け寄ってきたルカは、カイルの顔を覗き込んだ。
だが、大丈夫かと尋ねるルカ自身の顔色も悪い。
唇は僅かに震え、目の奥には今も鏡の中で見たものに怯えているような影が残っていた。
「ルカも……何か見たのか?」
カイルが尋ねると、ルカは一瞬だけ目を伏せた。
そのまま何かを堪えるように唇を結び、やがて顔を上げる。
「……大丈夫」
ぎこちない笑顔だった。どう見ても、大丈夫には見えない。
けれど、カイルはそれ以上聞けなかった。
誰にも触れられたくない過去がある。
口にするだけで、塞がりかけた傷が再び開いてしまいそうな過去が。
ルカもきっと、同じようなものを見たのだ。
「……そっか」
カイルがそれだけ返すと、ルカは小さく頷いた。
そして、離れないことを確かめるようにカイルの隣へ立つ。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
その時、八枚翼の像の向こう側にある巨大な扉が低い音を立てて開き始めた。
「開いた……」
騎士の一人が呟く。
扉の先には、光の届かない広い空間が口を開けていた。
奥行きも、天井の高さも、壁の位置さえ見えない。
「……何もないのか?」
一人が不安そうに呟き、扉の向こうへ一歩踏み出した。
「うかつに踏み込むな!」
中隊長の鋭い声が踏み込んだ者に飛ぶ。
その直後だった。
真っ暗だった空間の中に、一つ、また一つと炎が灯り始めた。
壁に沿って点々と生まれた炎は、奥へ向かって次々と続いていく。
それにつれて闇に沈んでいた空間が明るくなり、その全貌が徐々に姿を現した。
その空間の中央には、天井へ届かんばかりの長い階段が聳え立っていた。
あまりにも長い。
その場にいる者達が一斉に見上げた先、遥か高くにある階段の頂には、何かが小さく浮かんでいる。
一枚の黒い羽根だった。
「あ……あれが、宝具なのか?」
白の民の一人が呆然と呟いた。
「聞いた話だと……あれも宝具だ」
中隊長が答える。
「もう少し、剣とか……武具みたいなものだと……」
そう思うのも無理はない。
宝具と聞いて、多くの者が真っ先に思い浮かべるのは剣や槍、弓といった武具の類だろう。
だが、すべての宝具が初めから武具の姿をしているわけではない。
羽根や骨、牙、角――時には天使や悪魔の身体の一部が、そのまま宝具として残されていることもある。
そうした宝具を手にして契約した時、その者の願いや意志に応じて、ただ一度だけ姿を変える。
剣にも、槍にも、弓にも契約者が最も望む武具へと。
その時、この場にいる全員が疑問に思った。
――守護者は?
本来、宝具の前には守護者がいるはずなのに、その姿はそこにはなかった。
「いない……のか?」
民の一人が震える声で言った。
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
「守護者がいない……」
「じゃあ、もう終わったんじゃ……」
「あの宝具を取れば、帰れるのか?」
誰かの言葉をきっかけに、張り詰めていた空気が段々緩んでいく。
民達の顔へ、失われかけていた希望が戻り始める。
もう戦わなくていいのかもしれない。あの羽根を手に入れれば、この宝物殿から出られるのかもしれない。
守護者はいない。
あの羽根を取れば、もう帰れる。
ルカを連れて、トルガさんやアリアさん孤児院の皆の元へ帰れるんだ。
カイルは隣にいるルカへ顔を向けた。
「やったな、ルカ! これで生きて帰れ――」
その瞬間だった。
背後から、聞いたことのない声が響いた。
『――コード#FFFFFF#FF0000、確保』
人の声には聞こえなかった。
感情も、抑揚もない。ただ決められた言葉を告げるような、冷たい声。
カイルは反射的に振り返る。
「ルカ……今の、聞こえたか?」
そう言いながら、カイルは隣へ顔を戻した。
そこで、言葉が止まる。
「……ルカ?」
そこには先ほどまでいたルカの姿がなくなっていた。
カイルは慌てて周囲に目を走らせた。
階段の頂に浮かぶ宝具を見上げる民。
辺りを警戒する騎士達。
そのどこにもルカの姿はなかった。
ルカがこの場のどこにも……いない。
その瞬間、先ほど聞いた声が頭を過った。
『――コード#FFFFFF#FF0000、確保』
――確保。
あの言葉の意味が、今になって胸へ突き刺さる。
あいつだ。
あの声の主が、ルカを連れていった。
「ルカ!!」
カイルは声を張り上げた。
だが、その場に響くのはカイルの叫び声だけだった。
「ルカァァァッ!!」




