第二十一話 予言
黒一色へ塗り替えられた八枚の翼が力なく垂れ下がる。
次の瞬間、幾本もの棘が、サタナキアの身体へ食い込んだまま石畳へ沈み始める。
まるで、貫いた獲物を黒の底へ引きずり込むかのように。
やがて、サタナキアの足先が石畳へ触れた。
固いはずの黒い地面が水面のように揺らぎ、何の抵抗もなく足首、脛、膝と呑み込んでいく。
その時、カイルの頬を走っていた亀裂が音もなく閉じた。
一本、また一本と全身を覆っていた亀裂が薄れ、完全に形を消した。
だが、黒はカイルの身体から、全てを持ち去ったわけではなかった。
髪は黒く染まったまま、左右の瞳も残ったままだった。
そして、右手に握られた黒剣もまた、一本の武器として確かに存在していた。
その一部始終を見届けていたリセリアが、少し離れた場所で膝をついた。
二人の変化を見届けたことで、張り詰めていた力が、ようやくリセリアの瞳から抜けていった。
「……終わった、のね」
掠れた声は、張り詰めていた力を手放すための確認だった。
その言葉を最後にリセリアの身体から力が抜け、黒く塗り替えられた石畳へ崩れ落ちる。
背後で響いた音に、カイルは反射的に振り返ろうとした時、沈み切っていないサタナキアの声がその動きを止めた。
『……カイル・レヴナード』
呼びかけられた名が、カイルの意識を再び沈みゆくサタナキアへ引き戻した。
その身体は、すでに胸元まで黒い石畳に呑まれている。
もはや抗う力は残されていない。
それでもサタナキアは沈み切る前に何かを告げようと、辛うじて声を絞り出していた。
『いずれ貴様は、その黒に全てを奪われる! そして最後には――貴様が自らの手で、世界を終わらせるのだ!』
「僕が……世界を……?」
カイルの身に宿った黒は、いつか世界そのものを滅ぼす力になる。
サタナキアが告げたのは、そういう未来だった。
言葉を失ったカイルを見て、サタナキアの口元が僅かに緩む。
『最後に一つ、忠告してやろう。貴様の左手は――』
その先が語られようとした時には、サタナキアの顔が黒い石畳に呑み込まれ、その声は途中で断ち切られた。
「待ってくれ!僕の左手が……どうしたんだ!」
問いかけに答える者は、もういない。
やがてサタナキアは跡形もなく姿を消した。
後に残されたのは、何事もなかったかのように静まり返る黒い石畳だけだった。
世界を終わらせるという予言。
そして、最後まで語られなかった左手への警告。
カイルのもとには、その二つだけが残された。
カイルはしばらく沈んだ場所を見つめ、恐る恐る自らの左手へ視線を落とした。
……一体、僕の左手に何があるんだ?
サタナキアが最後に残した言葉が、胸の内を駆け巡る。
ふと、カイルの目は頂上の石畳へ向いた。
石畳は、端まで余すことなく黒く塗り替えられている。
ただ一か所、宝具の置かれていた台座だけを除いて。
周囲のすべてが黒となったことで、取り残された台座の白い石肌はかえって異様なほど鮮明に浮かび上がっていた。
白は、カイルにとって見慣れたもののはずだった。
それにもかかわらず、異なる景色を映す二つの瞳を得た今、その白は、まるで初めて存在を意識した色のように見えた。
カイルは右手に握っていた黒剣を、足元の石畳へ静かに置いた。
サタナキアはなぜ右手ではなく、左手と言ったんだ? 右手で触れたら、一体どうなる?
警告が左手に向けられたものならば、まず右手との違いを確かめる必要があった。
カイルは右手を台座へ伸ばし、白い石肌へ掌を触れさせた。
しかし、何も起こらない。
カイルは台座から手を離し、今度は自らの左手へ視線を落とした。
右手では、何も起こらなかった。
なら、サタナキアが最後に口にしたこの左手なら――?
答えを確かめることへの恐れが、指先を止める。
だが、何も知らないままこの力を抱えて生きることもカイルにはできなかった。
カイルは息を詰め、先ほど右手で触れた場所へ、恐る恐る左手を重ねた。
――その瞬間。掌の下から、黒が滲み出した。
「……え?」
黒は石の表面を這い、カイルの掌を中心として外側へ広がっていく。
台座に残されていた白は、触れられた場所から黒へと塗り替えられていった。
何が起きているのか理解するより早く、カイルは弾かれたように左手を離した。
すると、黒の広がりも同時に止まった。
カイルの左手が触れている間だけ、白い石を侵していたのだ。
離した左手と、黒く染まった台座を見比べた。
右手では、何も起こらなかった。
だが左手で触れた場所には、はっきりと黒が残されている。
「これが……サタナキアが言っていた僕の左手なのか……?」
右手と左手の違いは、もはや疑いようがなかった。
カイルは僅かに震える左手を見つめ、サタナキアが消える寸前に残した言葉が蘇った。
『いずれ貴様は、その黒にすべてを奪われる!そして最後には――貴様が自らの手で、世界を終わらせるのだ!』
あの言葉どおりの未来が、本当に訪れるとは限らない。
ただカイルを恐れさせるために残した、根拠のない脅しだと思いたかった。
だが、サタナキアの言葉は、すでにその一端を現実として見せていた。
カイルは足元から頂上の端まで続く石畳を見渡した。
頂上を塗り替えた黒と、左手から台座へ広がった黒。
二つが同じ力によるものだと、今のカイルには理解できた。
知らず知らずのうちに、左手を胸元へ引き寄せる。
ようやく目にした七色の違いが、次々と黒へ呑まれていく光景が脳裏をよぎった。
――僕が、この左手で……七色でできている世界を黒く塗り潰してしまうのか?
サタナキアの予言を、もう単なる脅しとして切り捨てることはできなかった。




