第十九話 契約者
黒い羽根に触れた瞬間、大鎌に貫かれた胸の痛みが消えていった。
音も、息苦しさも、身体の感覚さえも遠ざかり、カイルの意識はそこで途切れた。
次に目を開けた時、カイルは白い石畳の上に倒れていた。
「ここは……?」
身体を起こしたカイルの前には、現実のどこにも属さないような空間が広がっていた。
床を形作る白い石畳だけが、果てのない虚空の中に敷き詰められていた。
壁も天井も存在せず、どれほど目を凝らしても、その空間の境目を見つけることはできない。
ただし、そこに何もないわけではなかった。
足元から伸びる石畳の両側には白い柱が並び、そのほとんどが途中から折れ、何本かには黒が染みついていた。
柱に挟まれた道を辿った先には幾つもの段が築かれ、その最上段に一つの黒い玉座が置かれている。
この場所に存在する全てが、そこへ向けて並べられていた。
そして、その玉座には誰かが座っていた。
漆黒の髪に、白い肌。
背後では、幾重にも重なった黒い翼が玉座を覆うように畳まれている。
その人物は頬杖をつき、黒い瞳でカイルを見下ろしていた。
その中心には、人のものとは異なる縦長の瞳孔が刻まれている。
まるで、龍の眼をそのまま宿したかのような瞳だった。
『……お前が、俺の契約者か?』
「契約者……? 何のことか分かりません。あなたは、誰なんですか?」
黒い瞳が僅かに細められる。
『お前、頭が高いな。質問しているのは俺の方だ。人間如きが、俺に問いを返すな』
「待ってください! 本当に分からないんです…僕はただ、ここから出て、ルカを助けに行きたいんです! ルカを見つけて、一緒に家へ帰るんです!」
『片手を失い、心臓を貫かれたお前に、何ができる?』
カイルの胸が詰まる。
「……それでも、僕がルカを助けます」
『己の命すら救えぬ人間が、他人を救うと言うか…傲慢だな』
何者かの口元が初めて愉しげに歪み、そのまま男は玉座から立ち上がった。
『身の程を知らぬ人間だ。だが、気に入った! 俺の名はルシファー。その傲慢さに免じて、お前を俺の契約者として認めてやる』
幾重もの黒い翼が、背後でゆっくりと開いていく。
『あいつと同じ運命を辿るのか……見届けてやる』
その言葉を最後に、白と黒の世界が途切れた。
※
サタナキアは、カイルの胸を貫いていた大鎌を引き抜いた。
力を失ったカイルの身体が、台座の前へ崩れ落ちる。
その拍子に、黒い羽根に触れていた右手も離れ、石畳へ落ちた。
『……危ない所でした。貴様みたいな無能がルシファー様の宝具に触れて良いわけがないですからね。では、残りのゴミも始末しましょうか』
サタナキアは、倒れたカイルへ背を向けた。
もはや、その少年が再び立ち上がることなどあり得ない。
胸を貫かれ、片手を失った人間に残されているのは、死を待つ僅かな時間だけなのだから。
カイルは石畳に倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。
広間には、再び静けさが戻り始める。
その時だった。
台座に残されていた黒い羽根が音もなく崩れ、黒い霧へと姿を変えながら、カイルの胸に開いた穴へ吸い寄せられていく。
黒い霧はそのまま胸の穴から体内へ流れ込み、引き裂かれた心臓の中へ入り込んだ。
次の瞬間、裂けていた心臓が元の形を取り戻し、それに続くように胸の傷も内側から閉じていった。
同時に、切断された左手首から細い黒の繊維が伸び始める。
何本もの繊維は石畳に転がる手へ絡みつき、そのまま左手首へと引き寄せていく。
二つの切断面が重なると、黒い繊維が傷口を覆うように絡み合い、離れていた左手を元の場所へ繋ぎ直した。
黒い繊維は切断面へ沈み込むように消え、そこには傷痕一つ残っていなかった。
――ドクンッ!!
修復された心臓が、大きく脈打つ。
その鼓動を合図にするように、黒を取り込んだカイルの身体へさらなる変化が現れる。
白い髪が根元から黒へ染まり始めるのと同時に、修復されたばかりの胸へ細い亀裂が走った。
亀裂は枝分かれしながら首元から両腕へ、腹部から両脚へと広がっていく。
それに合わせるように白い髪も次々と黒へ染まり、亀裂の隙間からは細い黒煙が立ち上り始めた。
やがて髪から最後の白が消え、全身へ走った亀裂から溢れる黒煙が倒れたカイルの身体を薄く包み込んでいった。
その黒煙に包まれたまま、閉じられていたカイルの瞼が僅かに震え、ゆっくりと持ち上がった。
最初に視界へ映ったのは、白い宝物殿の天井。
そこには炎の淡い赤色の光が揺れ、その届かない場所には黒い影が落ち、その手前をカイルの身体から立ち上った黒煙がゆっくりと昇っていた。
「……なんだ、これ……」
カイルは戸惑いながら上体を起こし、右手を台座の縁へ伸ばした。
そのまま片膝を立て、縋るように身体をゆっくりと持ち上げていく。
立ち上がったカイルの正面には、背を向けたサタナキアが立っていた。
その背に並ぶ翼を見た瞬間、カイルの視界が大きく揺らぐ。
左の目には、これまでと変わらない翼が映っている。
だが、右の目には同じはずの翼が一枚ごとにまるで異なるものとして映っていた。
二つの異なる景色が重なった瞬間、強い違和感がカイルを襲う。
「っ……」
視界がくらみ、カイルの身体がぐらりと傾いた。
倒れまいと台座へ縋った拍子に、靴底が石畳を擦る。
その音に、サタナキアの足が止まった。
ゆっくりと振り返ったサタナキアの視線が、立ち上がったカイルを捉える。
白かった髪は黒へ染まり、その身体からは今も黒煙が立ち上っていた。
サタナキアの視線が、そのままカイルの背後へ動く。
黒い羽根の置かれていた台座。そこに、羽根の姿はもうない。
再びカイルへ視線を戻した、その時。
二人の目が合う。
カイルの顔を見たサタナキアの表情が一瞬にして変わった。
そこに宿る二つの瞳を見た瞬間、驚愕はすぐさま激しい怒りへと変わった。
『ルシファー様の御力が、誰かの手に渡るなど……それだけでも許しがたいというのに、よりにもよって選ばれたのが貴様で、その上、多色だと……!』




