第十八話 届いた右手
次の瞬間、サタナキアの姿が消えた。
「そこの冒険者!! 私に活性化を使って!」
リセリアは四重の檻の黄髪の少女――ニアへ叫んだ。
赫色の炎を使い続けたことで、身体はすでに限界を迎えている。
息は荒く、大剣を握る手にもほとんど力が残っていない。
それでも、今止まるわけにはいかなかった。
「でも、あなたもう限界じゃ……」
「いいから早く!手遅れになる前に!」
カイルが黒い羽根へ伸ばした指先は、触れる寸前まで迫っていた。
あと少し。ほんの少しだけ、手を伸ばせば届く。
これに触れれば、ここから出られるかもしれない。
早くルカを探して、助けないと。
だが――その真上に、サタナキアはいた。
灰色の瞳が、黒い羽根へ迫る指先を捉える。
大鎌を振るうよりも、降下して追いつくよりも早く届く一撃。
黄色の翼が強く光り、カイルの頭上に魔法陣が広がった。
バヂンッ!!
一条の雷がカイルの背中へ落ちた。
全身が一瞬で強張り、黒い羽根へ伸ばしていた腕がわずかに下がった。
触れる寸前だった指先が、黒い羽根の下へ逸れた。
サタナキアはカイルの左側へ降下しながら、大鎌を斜めに振り抜く。
足が石畳へ着くより早く、刃が黒い羽根へ伸ばされていた左手首を通り過ぎた。
「――え」
何かが、台座の左手前へ落ちた。
黒い羽根へ向けて指を伸ばしたままの、カイルの手だった。
その指先は、宝具へ届いていなかった。
遅れて、手首の切断面から血が噴き出した。
「あ、ああああああッ!!」
弾けるような痛みに、カイルは台座の手前の石畳へ崩れ落ちた。
右手で切断された手首を押さえ、身体を丸める。
サタナキアはカイルの左側へ着地し、倒れたカイルへ向けて大鎌を振り上げた。
その刃がカイルへ振り下ろされようとした瞬間、黄色い残像が階段を駆け上がった。
最後の段を蹴ったリセリアは、そのまま左斜め前へ飛び込んだ。
赫色の炎を纏う身体に、黄色の光が重なっている。
振り抜いた大剣が、サタナキアの横合いへ迫った。
サタナキアはカイルへの攻撃を中断し、大鎌を引き戻す。
身体を回しながら刃を割り込ませ、リセリアの大剣を受け止めた。
ガギィンッ!!甲高い音とともに、火花が散る。
階段から左斜め前へ飛び込んだ勢いを乗せて、リセリアは大剣を押し込んでいく。
サタナキアの足が石畳を滑った。
その身体がカイルの左側から離れ、頂上の左壁へ向かって押し退けられていく。
リセリアはサタナキアが立っていた場所へ着地した。
背後には、倒れたカイルと黒い羽根。
正面には、左壁側へ退いたサタナキア。リセリアが、その間へ立っていた。
『本当にあなたは鬱陶しいですね!!』
サタナキアが大鎌を横薙ぎに振るう。
リセリアは大剣で受け止め、そのまま前へ踏み込んだ。
大鎌と大剣が噛み合い、互いの刃を押し返そうとする。
一見、力は拮抗しているように見えた。
だが、リセリアを包む赫色の炎は、先程よりも弱く揺らいでいる。
黄色の光は、失われた体力を取り戻しているのではない。
限界を迎えた身体を、無理やり動かしているだけだった。
それでも、サタナキアが中央へ動こうとするたび、リセリアは進路に大剣を差し込んだ。
一歩も、トーンレスへ近づけさせない。
リセリアは頂上の左側でサタナキアを押し留め、再び大剣を振り抜いた。
刃のぶつかる音が響く中、カイルは左手首の切断面を押さえ、台座の手前でうずくまっていた。
頬を伝った涙が、石床へ落ちていく。
痛いッ!痛い、痛い、痛い――ッ!!
ルカのことも、目の前の宝具も、一瞬すべてが頭から消えた。
ただ、この痛みから逃げたかった。
痛みに震えながら、カイルは顔を上げる。
少し離れた頂上の左側で、光を纏った誰かがサタナキアと戦っていた。
身体を覆う色が何色なのかは分からない。
それでも、大剣を振るう姿が宝物殿前で語っていたリセリア・フレイであることだけは分かった。
見るからにボロボロで、限界のはずなのに、まだ戦っている。
倒れたカイルとサタナキアの間に立ち、黒い羽根へ触れるための時間を稼いでいる。
その姿を見ていると、聞いたばかりの声が頭の中に蘇った。
――ここで足を止めないで!
あの言葉が、止まっていた僕の足を動かした。
僕はただ、帰りたい…。
ルカを見つけて、一緒に孤児院へ帰りたい。
また皆で、平和の日々を過ごしたい。
ここで止まればルカを探しに行くことも、助けることも、孤児院に帰ることもできない……。
死ぬと思うほどの痛みなら、僕はもう知っている。
ここで、残っている力を全部使い切ってもいい!
だから、動け! 動いてルカを探しに行くんだよ!
痛みが引いたわけでもない。
それでも、カイルは切断面を押さえていた手を離した。
血に濡れた手で台座の縁を掴み、その腕に力を込める。
切断面から血が再び溢れ出す。
少し身体を持ち上げるだけで、手首から全身へ痛みが突き抜けた。
それでも、台座を掴んだ手だけは離さなかった。
片膝を立て、台座へ縋りながらもう片方の膝も石床から持ち上げる。
痛みで何度も力が抜けそうになりながら、カイルはゆっくりと立ち上がった。
そして、切断された左手首を台座へ押しつけるようにして身体を支えた。
「ぐっ……!」
傷口から、再び血が溢れ出す。
それでも構わず、台座を掴んでいた右手を離す。
その手を、黒い羽根へ伸ばした。
その時、頂上の左側でリセリアと刃を交えていたサタナキアがその動きに気づいた。
灰色の瞳が、黒い羽根へ伸びていくカイルの手を捉える。
『無能の分際で、その羽根に触れるな!!』
その視線を追い、リセリアもカイルが立ち上がったことに気づいた。
サタナキアがカイルへ踏み出すより早く、その進路へ身体を滑り込ませる。
「行かせない!」
リセリアは残る力を振り絞り、大剣を振りかぶった。
その時、身体を包んでいた黄色の光が消えた。
踏み込もうとした脚から力が抜けていく。
大剣を振り下ろすこともできず、リセリアは膝から石畳へ崩れ落ちた。
それでも、石畳へ手を突き、身体を起こそうとする。
だが、腕は震えるばかりで、脚には力が入らない。
リセリアの身体は、もう限界だったのだ。
目の前なのに。あと少しなのに。体が言うことを聞かない。
サタナキアは、石畳に崩れ落ちたリセリアには目も向けず、カイルへ顔を向けた。
黄色い翼が、強く光る。
次の瞬間、その姿が黄色い残像へ変わる。
残像は頂上の左側からカイルの後方へ一直線に走り途切れた。
リセリアはもう一度、石畳へ手を突く。
必死に立ち上がろうとするが、もう間に合わない。
「触れろ!トーンレス!」
サタナキアが大鎌を引き、切っ先を突き出した。
その刃は、カイルの背中から胸を貫いた。
それと同時に、カイルの右手が――黒い羽根に触れた。




