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第十六話 賭け

サタナキアの顔が、ゆっくりと階段側へ向いた。


『……?』


赫焔《かくえん》によって生まれた濃い煙は、まだ広間を覆っている。

倒れた者も、立ち尽くす者も、その姿は黒い幕の向こうで輪郭を歪ませていた。


その煙の中を、一人だけが走っている。


白い髪を揺らし、階段の頂へ向かう青年――カイルだった。


息は荒く、石段を駆け上がる足も震えている。


一方、他のハクレインの民達は動けずにいた。


先に宝具へ向かった者達が、サタナキアの斬撃によって胴を断たれた。

もう一度動けば、次は自分が斬られるかもしれない。


その光景が今も恐怖となって足へ絡みつき、誰も先へ進むことができない。


そして、サタナキアと対峙する騎士や冒険者達もまた、別の恐怖に囚われていた。


攻撃を放てば、その色を喰われる。

近づけば、身体から色そのものを奪われる。


次は自分かもしれない。

そう思えば、武器を握っていても簡単には前へ出られなかった。


そんな中、七色の祝福を持たないカイルだけが、黒煙の向こうを駆け抜けていく。


サタナキアの顔が、僅かに階段側へ向いた。


『……なんですか、あの白は?』


予想外の動きに、初めて疑問の声が漏れる。


その頃、カイルはそんなことなど知る由もなく、階段を駆け上がっていた。


頭の中にあるのは、先ほど聞いたリセリアの言葉だけだった。


『帰りを待っている人がいるなら。帰らなければならない場所があるなら――ここで足を止めないで!』


あの言葉を聞いた瞬間、身体が先に動いていた。

アリアさんやトルガさん、孤児院の子供達が僕達の帰りを待っている。


それなのに、僕はルカを守れなかった。


すぐ隣にいたはずのルカは、正体の分からない何かに連れ去られた。

どこへ消えたのか。何のために攫われたのか。


それさえ分からない。


今も、もっと遠くへ連れて行かれているかもしれない。

ここで怖がって動けずにいたら、探しに行くことすらできない。


肺が焼けるように苦しく、足を踏み出すたびに膝が崩れそうになる。


それでも、カイルは階段の頂だけを目指して走った。

そこには、周囲の光を返さない一枚の羽根が浮かんでいる。


あれを取れば、何かが変わるかもしれない。

この宝物殿から出られるかもしれない。


確かなことなど、何一つなかった。


あの羽根が本当に出口を開くのかも、カイルに扱えるのかも分からない。


それでも今は、あの羽根に縋るしかない。

ルカを探し出し、一緒にアリアさんとトルガさんが待つ孤児院へ帰るために。


カイルは止まりかける足を前へ出し、石段を一段ずつ駆け上がっていった。

 

その頃、サタナキアの背で紫の翼が淡く光っていた。


煙の中を走るカイルと、大剣を構えるリセリア。

その光景から何かを察したように、サタナキアの口元へ笑みが浮かぶ。


『……なるほど。そういうことですか。赫色の女、あなたの赫焔《かくえん》は、我を焼くためだけのものではなかったのですね』


リセリアは何も答えず、大剣を構えたまま動かなかった。


『煙で我が視界を遮り、赫焔の残滓によって、広間に満ちる色《トーン》の気配を乱した。その中を、七色の祝福を持たない白の民だけが抜けていった。なかなか策を弄するのですね』


狙いを見抜かれた。でも、白《トーンレス》はすでに階段を上っている。


サタナキアが今から追おうとするなら、私がここで止めればいい。


『ですが、一つ分かりません。なぜ、あの白が動くと分かったのですか?』


リセリアは答えなかった。


サタナキアの紫の翼が光を強めると、心の内側へ冷たい指を差し込まれたような感覚が走った。


『……いえ、違いますね。あなたは、あの白が動くと確信していたわけではなかった』


煙幕を作れば、サタナキアの視界を遮ることはできる。

赫焔の強い色が広間を満たせば、ほかの色の気配も捉えにくくなる。


その中なら、初めから七色の祝福を持たない白だけは気づかれずに階段へ向かえるかもしれない。


だが、恐怖に囚われたハクレインの民が本当に走り出してくれるかまでは分からなかった。


誰か一人でも走って。この機会を、無駄にしないで。

そう願いながら、リセリアは赫焔を放った。


そして、その賭けに応えたのがカイルだった。


「そうよ。あの子が動くと分かっていたわけじゃない」


『では、なぜ?』


「あの子でなくてもよかった。白の民の誰か一人が、階段へ走ってくれればよかったの」


『誰も動かない可能性もあったというのに?』


「ええ。だから賭けだった。でも、実際にあの子が動いてくれた。だったら、私はあの子を宝具《ほうぐ》まで行かせる!」


黒煙は少しずつ薄くなっていた。

その向こうでは白い髪が揺れ、階段の頂に浮かぶ羽根との距離が着実に縮まっている。


『そして、その奇跡のような細い糸を掴んだのが、あの白だったと?』


「奇跡なんかじゃないわ。あの子が、自分で走ると決めたのよ」


サタナキアの笑みが消えた。


その身体がカイルを追うように傾いた瞬間、リセリアは一歩踏み込み、大剣を構え直す。


「行かせない!」


『……そうでしょうね』


サタナキアはカイルを追わず、リセリアの背後に残る遠征隊と冒険者達へ顔を向けた。


すでに翼へ宿した赤色、橙色、藍色、紫色。

そして、まだ手に入れていない黄色、緑色、青色。


サタナキアの八枚の翼が、広間を覆うようにゆっくりと開かれた。


『あの白を追えば、あなたは背後から斬りかかる。ほかの者達まで一斉に動けば、さすがに少々面倒です』


「何をする気……?」


『決まっているでしょう。あの白を追う前に、邪魔なあなた方を黙らせておくのです』


紫色の冒険者の一人が息を呑んだ。

術式の光が激しく揺れ、その顔から血の気が引いていく。


「違う……。あれは、私達を倒すだけじゃない!」


紫色の冒険者は周囲へ声を張り上げた。


「あいつは、まだ持っていない色を奪うつもりよ!」

「まだ持っていない色……?」

「黄色と緑色と青色よ!その三色を持つ奴は、今すぐ下がって!」


その言葉に、広間の空気が凍りついた。


黄色、緑色、青色の冒険者達は、ようやく自分達が次の標的だと悟った。

逃げようと後ずさる者。武器を構えながらも、足を震わせる者。


互いにぶつかり合い、戦列が再び崩れ始める。


『察しがいいですね。では、話はこれくらいにして――足りない色を揃えるとしましょうか』


「黄、緑、青は下がって!全員、防御態勢!」


リセリアが後方へ向かって叫ぶ。


しかし、サタナキアはすでに動いていた。


赤色、橙色、藍色、紫色。

四枚の色を宿した翼が一斉に開き、それぞれの光が広間を染め上げる。


赤い炎が翼の先で渦を巻き、橙色の岩が石畳を突き破る。

藍の光が逃げ惑う者達の動きを正確に捉え、紫の術式が足元へ音もなく広がっていく。


次の瞬間、奪われた四つの色《トーン》が、冒険者達へ牙を剥いた。


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