第十五話 計画
「勝てるわけが……ない……」
誰かが漏らした言葉が、広間へ重く落ちた。
否定する声は上がらない。
武器を握る手が震え、サタナキアへ向けられていた切っ先が少しずつ下がっていく。
リセリアも、恐怖を感じていないわけではない。
大剣を握る手へ力を込めていなければ、指先が震えてしまいそうだった。
「……確かに、そうかもしれないわね。怖くなるのも、足が竦むのも当然よ。私だって、怖くないわけじゃない」
リセリアは、宝具へ向かう途中で足を止めているハクレインの民達へ視線を向けた。
「それでも、あの階段の上にある羽根へ届かなければ、誰も帰れない」
今度は、背後にいる冒険者達へ視線を向ける。
「帰りを待っている人がいるなら、
帰らなければならない場所があるなら――ここで足を止めないで!
あれが色を奪い続け、この世界へ出ようとするのなら、ここで止める。
私には守りたい人達がいる。帰らなければならない場所がある!だから、私はここで下がらない!」
リセリアの身体から、朱色の炎が立ち上った。
瞳の奥へ、朱色よりも暗い別の色が滲み始める。
長い髪も根元からゆっくりと色を変え、その変化に呼応するように周囲の熱が急激に高まっていった。
怖くても、やるしかない。
今ここで、私が前に立たなければ。
「リセリア様、前へ出るのは危険です! お下がりください!」
フレイ・ガルドの騎士が叫ぶ。
リセリアは振り返らず、片手だけを後ろへ向けた。
「下がらないわ。今、あれの相手ができるのは私だけよ」
「ですが、それは――」
騎士達が言葉を失う。
その間にも、リセリアの変化は進んでいた。
朱色だった髪と瞳が、これまでにないほど暗く鮮烈な色へ染まっていく。
リセリアは静かに息を吸い、その名を告げた。
「――赫式」
次の瞬間、赫色の炎が全身から噴き上がった。
炎はリセリアを焼くことなく、身体と大剣を包み込む。
広間の空気が一瞬で熱せられ、白い石畳の表面が揺らいで見えた。
「なんだよ、あの色……」
「赤じゃないのか……?」
「見たことがないぞ……」
冒険者達が、呆然とリセリアを見つめる。
その声を聞いたフレイ・ガルドの騎士が、息を呑みながら答えた。
「冒険者には分からないだろう。あれは、フレイ・ガルド王家の血を継ぐ者だけが宿せる色だ」
赫色の炎が、大剣の刃を這うように燃え上がる。
「リセリア様は宝具を持たず、自らの力だけで朱色へ至った。そして王族に伝わる赫式によって、その先にある赫色を引き出しているんだ……!」
サタナキアはすぐには動かなかった。
ただ、リセリアを観察するように目を細めた。
『赤の系統ですか』
サタナキアの背後で、赤を宿した翼が前へ広がった。
翼の表面を赤い炎が覆い、リセリアの前へ盾のように立ちはだかる。
次の瞬間、リセリアが石畳を蹴ると、足元で赫色の炎が爆ぜた。
炎に押し出されるように、その身体が一気に加速する。
「はあああっ!」
赫色の炎を纏った大剣が、サタナキアの赤い翼へ振り下ろされる。
赫色と赤。
二つの炎が衝突した瞬間、広間の空気が爆ぜた。
衝撃が石畳を伝い、周囲の冒険者達の外套を激しく揺らす。
サタナキアの赤い翼は、赫色の大剣を受け止めていた。
だが、サタナキアは止めきれてはいなかった。
赫色の炎が赤い炎を押し込み、翼の表面を覆っていた炎を少しずつ削っていく。
押し切れる……!リセリアは歯を食いしばり、さらに大剣へ力を込めた。
『……?』
次の瞬間、橙を宿した翼が横から滑り込み、赤い翼へ重なるように前へ出た。
橙色の岩がその翼の表面を瞬く間に覆う。
赤い炎を纏った翼と、岩に覆われた橙の翼。
二枚の翼が重なるように赫色の大剣を受け止めた。
鈍い衝突音が、広間へ響き渡る。
先ほどまで押し込んでいた刃が止まった。
岩に覆われた橙の翼が加わったことで、二枚の翼が赫色の大剣を押し返す。
「っ……!」
リセリアの身体が後方へ弾き飛ばされた。
両足を石畳へ擦りつけながら数歩分の距離を滑り、大剣を支えにしてどうにか転倒を免れる。
だが、橙の翼が加わるまで赫色の大剣を受け止めていた赤い翼には、赫色の火が食い込むように残っていた。
翼の表面には、焼け焦げた跡が刻まれている。
サタナキアは自らの赤い翼を一瞥した。
『……なるほど。これは見誤りましたね。通常の赤とは異なる色、ということですか』
その時、リセリアの口元が僅かに持ち上がる。
『まだ、何かするつもりですか?』
その変化を見逃さず、サタナキアが問いかける。
『あなたと、その不可解な色には驚かされました。しかし、その程度では我へ届きませんよ』
リセリアは答えなかった。
大剣を握る両手へ力を込める。
赫色の炎が再び刃へ集まり始め、熱によって広間の空気が震えた。
サタナキアの前では、橙色の翼が大きく広がる。
翼の表面を分厚い岩が包み込み、その後ろでは赤い翼が炎を纏っていた。
先ほどのように、赫色を赤い炎だけで受けるつもりはないらしい。
防ぐなら、防がせればいい。
リセリアは大剣を肩の高さまで持ち上げ、刃へ集まった炎が限界まで圧縮されていく。
石畳が軋み、リセリアの足元から赫色の亀裂のような光が広がった。
「――赫焔!!」
大剣が振り抜かれる。
咆哮とともに、巨大な赫色の斬撃が放たれた。
それは、四重の檻のロウが放った赤い炎とは、まるで別物だった。
進路上の空気を焼き、石畳の表面を熱で歪ませながら、赫焔が一直線に広間を走る。
サタナキアは橙の翼を前へ出した。
岩で覆われた翼の後ろへ赤い翼が重なり、二色の防壁が赫焔を迎え撃つ。
次の瞬間、赫色の斬撃が岩壁へ激突した。
轟音が宝物殿の中で響き渡る。
橙の岩が砕け、赤い炎と赫色の炎が入り乱れる。
爆炎が広間を覆い尽くし、膨れ上がった黒煙がサタナキアの姿を完全に飲み込んだ。
「うわっ!」
「目を庇え!」
熱風が広間を駆け抜け、冒険者達が反射的に腕で顔を覆う。
爆炎はしばらく荒れ狂い、やがて少しずつ収まっていった。
だが、濃い黒煙は消えない。
サタナキアの姿も、その向こう側も見えなくなっていた。
「……やった、のか?」
「さすが、王族の炎だ……!」
「ああ。リセリア様は宝具を持たずに朱色へ至った方だ。その上で、赫式まで使っている」
「あれがルシファーの配下だろうが、あれほどの攻撃を受ければ――」
冒険者達の間へ、僅かな希望が戻り始める。
その時だった。
黒煙の奥で、四枚の翼が光を放った。藍、紫、橙、赤。煙が晴れたわけではなかった。
ただ、翼に宿った色だけが、黒い幕越しに滲んで見えている。
その中で、橙色の光が最も前へ出ていた。
岩で覆われた翼が、今も防壁のように広がっている。赫焔は確かに広間を焼いた。
だが、サタナキアの身体には届いていなかった。
「おいおい……どこまで頭が回るんだよ、あの化け物……」
「藍と紫まで持ってるんだぞ……。もう、あいつに攻撃なんて通らないんじゃ……」
戻りかけていた希望が、再び萎んでいく。
だが、リセリアだけは違っていた。
赫焔を防がれたにもかかわらず、口元へ笑みを浮かべている。
サタナキアの姿を覆う黒煙は、今も広間に残っている。
あれなら、サタナキアにも煙の向こうで誰がどこへ動いているのかは見えない。
その時、黒煙の中で一つの影が動いていた。
サタナキアの背後――階段へ続く方角を、一人の人影が静かに進んでいる。
その姿を確認し、リセリアの笑みがさらに深くなった。




