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第十四話 灰の名は

「……化け物だ……」


誰かが、震える声でそう呟いた。


この世界に生きる者は、誰もが生まれた時から一つの色を宿している。


それは髪や瞳を染めるだけのものではない。


力となって全身に宿り、身体を動かし、その者が生きるための根幹を成している。


色を失うということは、ただ力を失うことではない。

身体から、生きるための力そのものを抜き取られるということだ。


現に、色を奪われた者達は誰一人として動かない。


だから、この世界において色とは命そのもの。


その命を、目の前の灰色の天使は他者から奪い、自らの色へと変えていた。


この場には、幾度となく死線を潜り抜けてきた冒険者も少なくない。異形の魔物も、命を奪う敵も見てきた。


それでも――人の色そのものを奪う存在など、誰一人として見たことがなかった。


だから、その言葉を否定する者は、この場には誰もいなかった。

やがて、冒険者達は誰からともなく出口の方へ一歩、また一歩と後ずさり始めた。


だが、その中で一人の少女だけは違った。


リセリアは大剣を握ったまま、灰色の天使を真っ直ぐ睨みつけていた。


すでに、藍と紫を奪っている。

もし、残る五色まで同じように奪えるのなら――。


七色すべてを翼へ宿した時、あれが何になるのかは分からない。


だが、色を奪い、その力を重ねていく存在が外へ出れば、この場にいる者達が殺されるだけでは済まない。


「……怯えている暇はないわ」


自分へ言い聞かせるようにリセリアは呟き、震えかけた手へ力を込めた。


だが、冒険者達は前へ出られない。

特に藍色と紫色の民は、強張った顔で灰色の天使を見つめていた。


奪われたのは、自分達と同じ色。

次に狙われるのは、自分かもしれない。


その恐怖が身体の動きを止めていた。


その様子を見たリセリアは、大剣を握り直すと一歩前へ出た。

動けなくなった冒険者達を立て直すように、周囲へ声を張り上げる。


「全員、あれに直接触れないで! 藍と紫は後方へ下がりなさい! フレイ・ガルドの騎士と赤色の冒険者が前を押さえる! 橙色、黄色、青色は後方から援護! 緑色は負傷者の救助を優先して!」


明確な指示が飛んでも、冒険者達はすぐには動けなかった。


彼らは善意だけで、この宝物殿へ入ったわけではない。


元々はその奥に眠る宝具を求めて集まった者達だ。

それがフレイ・ガルド第一王女と言う名を出されて半ば強引についてきただけだった。


ましてや、目の前にいるのは人の色を奪う化け物だ。


いくら指示を与えられたところで、その恐怖まで消えるわけではない。


冒険者達の視線はリセリアへ向いていた。


冒険者達をここまで連れてきた第一王女は、大剣を握ったまま、誰よりも灰色の天使に近い場所へ立っている。


「怖くても構わないわ。でも、今だけは足を止めないで! ここであれを押さえなければ、誰も生きて帰れない!」


リセリアの命令を受けた騎士達が、一斉に前へ出る。


「リセリア様の指示に従え! 奴を宝具側へ近づけさせるな!」


それでも、冒険者達の足はまだ動かなかった。

そんな冒険者達の間をかき分けるように、四人が前へ進んでいく。


四重の檻《しじゅうのおり》だ。


冒険者より前に出るとミラは振り返った。


「……何を今さら怖がってるの?」


冒険者達の視線が、四重の檻へ集まる。


「命を懸けるのが冒険者だ。魔物に殺されることも、宝物殿に入ってそのまま帰ってこない奴だっている」


ロウが低い声で言った。


「そんなこと、冒険者になった時から分かってたことです。ここにいる皆さんだって、今まで何度も死線を潜り抜けてきたんでしょう?」


セイルが静かに続ける。


「だったら――今さら足を止めてどうするのよ」


ニアが、立ち尽くす冒険者達を見据えた。四人は灰色の天使へ向き直る。


「さぁここから開戦だね! いくよ、ドロム!」


最初に動いたのは、橙色の髪と瞳を持つ女――ミラだった。


ミラは岩でできた巨大な槌を振り上げ、石畳へ叩きつける。


衝撃とともに、槌を中心として橙色の術式が広がった。

術式から幾つもの岩がせり上がり、鋭く尖った槍へ形を変えていく。


その隣で、赤色の髪と瞳を持つ男――ロウが剣を構えた。


「いつも通りだな、ミラ!」


ロウが剣の切っ先を、並び立つ岩の槍へ向ける。


「纏え!フウロッ!」


剣から放たれた深い赤の炎が、岩の槍へ次々と絡みついた。

橙が形を作り、赤が火力を与える。


炎を纏った岩の槍が、四方から灰色の天使へ襲いかかった。


「まだ終わりじゃありません!ルネル!」


僅かに遅れて、青色の髪と瞳を持つ男――セイルが杖を掲げた。

粉塵の中心、その真上へ青色の魔法陣が展開される。


それを見た黄の少女――ニアが、すぐに槍を頭上へ向けた。


「いいね! 雷、いくよッ! リテル!」


青の魔法陣よりもさらに高い位置に、黄色の魔法陣が重なるように広がった。


まず、炎を纏った岩の槍が灰色の天使へ到達する。

幾つもの槍が、逃げ場を塞ぐように四方から突き立った。


石畳が砕け、赤い炎が爆ぜる。その直後、頭上の青い魔法陣から大量の水が落下した。


滝のような水を追うように、黄色の魔法陣から雷が落ちる。

水と雷が重なり、一本の巨大な槍となって灰色の天使へ迫った。


地上からは、炎を纏った岩槍。頭上からは、水を伝う雷。


僅かに時間をずらし、逃げ場を潰す四重の連携だった。


「すげぇ……!」

「さすが四重の檻《しじゅうのおり》だ!」


周囲の冒険者達から歓声が上がる。


「決まったな!」


ロウが剣を肩へ担ぎ、口元を吊り上げた。だが、セイルだけは粉塵の向こうから目を逸らさなかった。


「まだです。姿を確認するまでは、油断しないでください」


やがて、巻き上がっていた白い粉塵がゆっくりと晴れていく。


「なっ……」


誰かが、声を失った。


灰色の天使は一歩も動いていなかった。

身体にも傷らしい傷はない。


ただ、灰色の天使の周囲には、どこから現れたのかわからない岩壁が展開されていた。


「そんな……」


ミラが、自分の槌を握ったまま目を見開く。


「あれは、私の……?」


その場にいる全員の視線が、灰色の天使の翼へ向いた。


八枚の翼のうち、四枚が色を宿している。


藍、紫。そして、新たに加わった橙色と赤色。

先にロウとミラが放った炎を纏った岩の槍は、灰色の天使を傷つけたのではなかった。


触れた瞬間に色を喰らい、またも自分の力に変えてしまっていたのだ。


「人からだけじゃない……」


冒険者の一人が、震える声を漏らす。


「放った魔法からも、色を奪えるのか……?」


その理解を嘲笑うかのように、灰色の天使の口元がゆっくりと歪んだ。


『あなた方のような下等な者が振るう宝具では、我を傷つけることなどできませんよ』


広間が静まり返った。


数百人もの人間がこの場にいるとは思えないほど、誰も言葉を発しない。


灰色の天使が人間の言葉を話したからだ。

そしてその事実を誰もすぐ受け入れられることができなかった。


「……は?」


ロウの口から、掠れた声が漏れる。


「今……あいつが喋ったのか?」

「そんなわけないだろ……灰獣だぞ……」

「いや、けど翼はあるから守護者でしょ……」


灰獣なのか、それとも守護者なのか。

灰色の天使を前に、冒険者達の判断は一瞬で分かれた。


だが、今重要なのはそこではない。


守護者も、灰獣も、人の言葉を介して意思を伝えることはない。


唸り声を上げることはあっても、言葉を理解し、人間へ語りかけるような存在ではないのだ。


それなのに――目の前の灰色の天使は、確かに言葉を発した。


しかも、それはただ音を真似ただけではない。

人の言葉を理解し、自らの意思を持って語りかけてきていた。


冒険者達の間に、新たな恐怖が広がっていく。


リセリアは、灰色の天使の翼へ目を向けた。

藍の翼――あれは知を司る色。まさか、奪った藍の力で。


『難しいことではありませんよ』


リセリアの思考を見透かしたように、灰色の天使が答えた。


『藍の力で、あなた方の言葉を理解しただけです。紫の力で、あなた方の心理も少し覗きましたが……』


その言葉に、リセリアの背筋へ冷たいものが走った。

奪っているのは、色だけじゃない。その色が持つ力まで、自分のものにしている。


色を増やすほど、あれは強くなる。


目の前にいるものは、ただ色を奪うだけの化け物ではない。

奪った色を理解し、状況に応じて使い分け、こちらの攻撃を利用して成長する存在だった。


それでも、リセリアは退かなかった。

大剣を握り締め、一歩前へ出る。


「あなた……ただの灰獣ではないわね」


灰色の天使は、不思議そうに首を傾げた。


『灰獣? 人間の物差しは、実に理解しがたいですね』


その視線が、ゆっくりとリセリアへ向けられる。

藍、紫、橙、赤。四枚の色を宿した翼が、背後で静かに揺れた。


リセリアの頬を、一筋の汗が伝う。


紫の力でこちらの心理を読めるのなら、下手な探りは通用しない。

それでも、何か一つでも情報を引き出さなければならなかった。


「これまでの行動と言葉を聞いて確信したわ。そこまでの知性を持つあなたが、名もなき灰獣だとは思えない」


リセリアは灰色の天使から目を逸らさなかった。


「あなたの名は?」


灰色の天使は、すぐには答えなかった。

ただ、紫の翼だけが、リセリアの心を撫でるようにゆっくりと揺れる。


『なるほど』


灰色の天使の笑みが、さらに深くなった。


『名を知れば、あなた方の言う悪魔目録から我が正体を探れると考えましたか。そして、あわよくば攻略の糸口まで見つけようと』


リセリアの考えは、すべて見抜かれていた。

それでも、灰色の天使は愉快そうに両腕を広げた。


八枚の翼が、広間を覆うように大きく開かれた。


『いいでしょう! それでも、名乗って差し上げます!』


灰色の天使は、舞台の上で喝采を求める者のように声を張り上げ、片手を胸に当てた。


『我が名は――サタナキア』


“サタナキア”――その名を聞いても、冒険者達の多くは呆然としたままだった。


宝物殿へ挑む冒険者にとって、そこに潜む守護者や灰獣、天使や悪魔について事前に調べることは珍しくない。


パーティーの中に一人くらいは、それらについて記された書物を読み漁っている者がいるものだ。


それでも、その名に覚えのある冒険者はいなかった。


「サタナキア……? なんだよ、その名前は」


「誰も知らないってことは、そんなに知られた悪魔じゃないんじゃ……」


「違うわ」


リセリアの声が、そのざわめきを遮った。

彼女は大剣を握ったまま、灰色の天使を見据えている。


その表情からは、先ほどまでの強気さが消えていた。


「サタナキアは、ソロモンの書には載っていない」


冒険者達の視線がリセリアへ集まる。


「大奥義書《グラン・グリモワール》――そっちに記されている名よ」


その場にいた何人かが、息を呑んだ。


ソロモンの書――藍色の国が悪魔について調査し、その名や性質を記録した書物だ。


冒険者の間にも広く流通しており、悪魔について調べるなら、まずその名が挙がるほど知られている。


だが、大奥義書《グラン・グリモワール》は違う。通常の冒険者には、閲覧すら許されていない禁書だった。


リセリアも、フレイ・ガルドの第一王女という立場だからこそ、その記述の一部を知ることを許されていたにすぎない。


「じゃあ……なんで、そんなところに載ってる奴がここにいるんだよ……」


誰かが漏らした言葉に、答えられる者はいなかった。

サタナキアは、冒険者達のざわめきなど気にも留めず、大きく両手を広げる。


『そして、この宝物殿の主は――』


その声に合わせ、四枚の色を宿した翼が大きく揺れた。


『堕天使ルシファー様なのです!』


その名が告げられた瞬間、広間の時間が止まったかのようだった。

誰も“堕天使ルシファー”の名を知らなかったわけではない。


むしろ、その逆だ。


この世界に生きる者なら、一度はその名を聞いたことがある。


幼い頃、誰もが聞かされるノアの物語。

七色の世界が生まれ、やがて災厄が訪れるその歴史の中に、ルシファーの名も刻まれている。


だからこそ、誰もすぐには声を発することができなかった。


冒険者達はようやく理解した。


自分達が求めていたものは、ただの黒い羽根などではない。

幼い頃から物語の中で聞いてきた、あのルシファーに連なる宝具なのだ。


「勝てるわけが……ない……」


誰かが、掠れた声を漏らした。

その一言をきっかけに、冒険者達から戦意が急速に失われていく。


武器を握る手が震え、前へ踏み出しかけていた足が止まる。


階段の頂に浮かぶ黒い羽根は、もはや富をもたらす宝には見えなかった。触れてはならない悪魔の証。


自分達は知らぬ間に、堕天の王の領域へ踏み込んでしまったのだ。


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