第十三話 灰色の天使
カイルは、息を呑んだまま動くことができなかった。
灰色の天使は、つい先ほどまで祈りの像が立っていた場所から、カイル達を見下ろしている。
そのさらに向こうには、外へ戻るための通路がある。
カイルはその出口に目を向けた。ルカを探すには、あの通路へ戻らなければならない。
だが、そこへ向かうには、灰色の天使の前を通るしかなかった。
「……っ」
カイルは反射的に背後を振り返った。
そこには、天井へ向かうように伸びる長い階段がある。
その頂には、周囲の光を一切返さない一枚の羽根が浮かんでいた。
前には灰色の天使。後ろには、宝具へ続く階段。ほかに出口はない。
カイルは一瞬考える。
僕はどうすればいい?ルカを探しに行かないといけないのに、あれを越えなければ外へ戻れない。
だが、カイルには戦うための武器も、力もない。
今のカイルにできるのは、灰色の天使が動かないことを願うことだけだった。
何かに気づいた白の民達から、次々と怯えた声が上がる。
「ど、どけ……!」
「外へ……外へ出してくれ!」
「嫌だ! こんなところで死にたくない!」
出口を求め、白の民達が灰色の天使のいる方へ押し寄せていく。
それは当然の行動だった。
目の前にいる灰色の天使が、守護者なのか灰獣なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
だが、宝具の前に現れた以上、それを守るための存在だと考えるのが自然だった。
ならば、宝具とは反対にある出口へ向かう自分達まで襲われる理由はない。
今のうちに外へ戻ろうと、白の民達は灰色の天使の前を通り抜けようとした。
だが、騎士達は民を逃がそうとはしなかった。
「勝手に動くな!」
「列を乱すな!」
「下がれ! 邪魔をするな!」
出口へ向かおうとする白の民と、それを押し戻そうとする騎士達がぶつかり合う。
人の流れは、灰色の天使の前で詰まり始めた。
怒声と悲鳴が飛び交う中、灰色の天使だけは微動だにしない。
やがて、その八枚の翼が僅かに震えた。
一枚の灰色の羽根が抜け落ち、石畳へ触れる寸前に崩れる。
細かな灰となった羽根は床へ落ちず、天使の右手へ吸い寄せられていった。
続いて、身体の表面からも大量の灰が溢れ出す。
集まった灰が長い柄を形作り、その先端へ月のように湾曲した巨大な刃が生まれた。
――大鎌。
灰色の天使は、完成した大鎌を片手で持ち上げる。
「下がれ! 下がれと言っている!」
「嫌だ! 外へ出してくれ!」
「勝手に動くな! 列を乱すな!」
騎士も白の民も、自分達の間で押し合うことに必死で、大鎌に気づいていない。
その時、大鎌を持った灰色の天使から奇妙な音が鳴る。
ぎ……ぎ、ぎ……。
刃と柄が軋んでいるような、耳の奥を削る音だった。中隊長の顔色が変わる。
「全員! 伏せろ!!」
叫びを聞いた瞬間、カイルは何も考えずに身を伏せた。
その頭上を、灰色の線が通り過ぎていく。
速すぎて、何が起きたのか見えなかった。
何かが風を切る音。硬いものが落ちる音。
直後、前方から悲鳴が上がった。
「う、うわああああああっ!」
カイルは伏せたまま顔を上げ、息を止めた。
そこには出口へ向かっていたはずの者達が、上半身と下半身に分かれて石畳へ転がっている。
切断面から流れ出した血が、白い床へ急速に広がっていく。
つい先ほどまで生きていた人間が、今は二つに分かれていた。
中隊長の声を聞くのが、少しでも遅れていたら、そこに倒れていたのは自分だったかもしれない。
これまでにも、人が死ぬところは見てきた。
だが、目の前で身体を両断され、死体となって転がる人間を見るのは初めてだった。
白い石畳へ広がっていく血を見つめながら、カイルの脈は激しくなり、呼吸が浅くなっていく。
だが、灰色の天使は飛び散った血を見ても、悲鳴を聞いても何も変わらない。
大鎌を振り抜いた姿勢のまま、感情のない顔を前へ向けている。
その時、天使の向こう側から、複数の足音が響いてきた。
出口へ続く通路の奥。
そこから、見慣れない外套を纏った一団と、異国の武具を携えた冒険者達が駆け込んでくる。
宝具の部屋へ踏み込んだ彼らの足が止まった。
「あれが、守護者なのか……?」
「いや、違う……灰獣か?」
「灰獣? でも、天使の翼があるわよ……」
「天使型の宝物殿に灰獣だと? そんなもの、聞いたこともねぇ……」
冒険者達から、戸惑いの声が上がる。
彼らが困惑するのも当然だった。
なぜなら、本来天使の宝具の守護者にだけ翼は許される。
そして、悪魔の宝具の灰獣にだけ灰色が許される。
だが、目の前にいるのは――灰色の天使だった。
その中で、リセリアは僅かに息を呑みながらも、すぐに部屋全体へ視線を走らせる。
白い石畳へ広がる血。
胴を両断された白の民と騎士達。
階段の手前へ追い詰められたハクレイン側の人間。
その中央には、大鎌を構えた灰色の天使。
さらに奥には長い階段と、その頂に浮かぶ黒い羽根がある。
灰色の天使は、出口とハクレイン側の間に立っていた。
この状態では、白の民を出口へ戻すことはできない。
武器も持たせられていないハクレインに残された活路は一つだけ。
灰色の天使は自分達が止める。
その間に、ハクレイン側を階段の頂にある宝具へ向かわせるしかない。
リセリアは灰色の天使から目を逸らさず、宝具側へ向かって声を張り上げた。
「ハクレイン側は階段へ向かって! 私達がここであれを止めるから!」
白の民と騎士達が、弾かれたように階段の頂を見上げた。
だが、誰もすぐには動かなかった。
目の前で人間が両断されたばかりなのだ。
もう一度動けば、次は自分が狙われるかもしれない。その恐怖が、全員の足を石畳へ縫い留めている。
「今は動いて!ここで立ち止まっていても、次の攻撃を待つだけよ! 生きて出たければ、あの宝具を手に入れなさい!」
リセリアのその言葉を聞き、白の民達が一人、また一人と階段へ走り始めた。
やがて恐怖に押し出されるように、残りの者達も一斉に続く。
カイルも人の流れへ加わった。
本当なら、今すぐ出口へ戻ってルカを探しに行きたい。
だが、その出口は灰色の天使に塞がれている。
ここから出なければ、ルカを探しに行くことすらできない。
誰も宝具が欲しくて走っているわけではなかった。
それぞれが、生きてここから出るために階段を駆け上がっていく。
ハクレイン側が動き始めたことを確認し、リセリアは背負っていた大剣を引き抜いた。
「冒険者達! あれを宝具側へ行かせないで!」
命令を受けた冒険者達が、一瞬だけ顔を見合わせる。
彼らの視線は灰色の天使ではなく、その向こうに浮かぶ黒い羽根へ向いていた。
「くそっ……宝具は目の前なのによ」
誰かが悔しそうに吐き捨てる。だが、すぐに別の冒険者がそれに対して怒鳴った。
「宝具どころじゃねぇだろ! あれを止めなきゃ、俺達も斬られるぞ!」
宝具への欲と、生き延びたいという本能。二つが今、同じ方向を向いた。
「生きて帰りたかったら、今はあれを止めることだけ考えて!」
リセリアは大剣を構え、灰色の天使との距離を詰めた。
「そうだな……やるしかねぇ!」
「足止めだ! 宝具側へ行かせるな!」
冒険者達と遠征隊が一斉に武器を構える。
その動きを察したように、灰色の天使がゆっくりと顔を動かした。
向いた先は、リセリア達ではなく階段へ走るハクレイン側だった。
リセリアは即座に灰色の天使の進路へ踏み込んだ。
「行かせない!」
その声を合図に、冒険者達も動き出した。
藍の民である複数の冒険者へ、藍色の光が集まっていき、紫の民達の足元には術式が広がる。
床を這うように淡い紫色の光が伸び始めた。
他の冒険者達も、それぞれの色を武器や両手へ集め、灰色の天使へ狙いを定める。
魔法が放たれようとした、その直前だった。
灰色の天使が大鎌を構え直す。
ぎ……ぎ、ぎ……。
耳の奥を削る軋みが、再び部屋へ響いた。
その音を聞いた瞬間、階段へ向かっていたカイルが弾かれたように振り返る。
「全員、伏せてください!」
カイルの警告に、リセリアが即座に反応する。
「伏せて!」
宝具側にいた中隊長も、その意味を理解した。
「全員、伏せろ!」
出口側では、戦い慣れた冒険者達と遠征隊が一斉に身を低くする。
宝具側でも、白の民と騎士達が階段や石畳へ身体を投げ出した。
次の瞬間、灰色の斬撃が部屋全体を横切る。
外套の端を切り裂かれた者はいたが、出口側の冒険者と遠征隊に死者は出なかった。
だが、ハクレイン側は違った。
突然の警告へ反応できず、伏せるのが一瞬遅れた白の民と騎士を灰色の線が横切っていった。
数人が胴から二つに分かれ、勢いのまま階段へ倒れ込む。
ただ宝具へ走るだけでは、生き残れない。
その事実が、宝具へ向かっていた白の民達の足が止まった。
一方、カイルの警告で斬撃を避けた冒険者達は、その攻撃に規則性があると気づいていた。
「……単調だな」
「ああ。あの大鎌の攻撃さえ避ければ、やれる」
数人の冒険者が、身を低くしたまま前へ出る。
先ほどまで異形を前に怯えていた顔へ、僅かな余裕が戻り始めていた。
灰色の天使が、再び大鎌を構える。
ぎ……ぎ、ぎ……ぎ。
冒険者達は、音が鳴り終わる前から身を低くした。
また、同じ斬撃が来る。
誰もがそう考えていた。次の瞬間、灰色の天使の姿が消えた。
「なっ――」
声を上げる間もなく、灰色の天使は冒険者達の目の前にいた。
その光景を目の当たりにした冒険者は息を呑む。誰もがまた同じ攻撃がくると思っていた。
だが、それはフェイクであり灰色の天使の大鎌は前へ出ていた藍色の冒険者の肩に深く食い込んでいた。
「がっ……!?」
刃は肩口から胸元へ沈み、骨へ食い込んだところで止まった。
同時に、灰色の天使の左手は隣にいた紫の冒険者の頭を掴んでいた。
「な、何よ……これ……!放して!」
二人は抵抗しようとした。
だが、身体に力が入らない。大鎌を受けた冒険者の髪と瞳から、藍色が急速に失われていく。
それは頭を掴まれた冒険者も同じだった。
紫色の髪が根元から白へ近づき、瞳からも色が剥がれ落ちていく。
色そのものが、身体から引き抜かれていた。
「た、助け……」
二人の声が途切れる。
色を失った身体から力が抜け、糸の切れた人形のように動かなくなってしまった。
灰色の天使の背中で、八枚の翼のうち二枚が光り輝く。
一枚は藍。もう一枚は紫。翼へ宿った色は、元の使い手から奪われたものだった。
リセリアの顔から血の気が引く。
色を奪っている。しかも、奪った色を自分の翼へ宿している。
藍と紫だけじゃない。もし、ほかの色まで同じように奪えるのなら――七色すべてを翼へ宿した時、あれが何になるのか。
リセリアには、想像することさえできなかった。
「……化け物だ……」
誰かが、震える声で呟いた。




