第3章 第98話 二つの井戸の正体! 子爵が命じた共同調査
ヴァルデン子爵領の土地管理官エーベルハルト・クラインは、夜明け前から古い帳簿と格闘していた。
机には三十年以上前の租税記録が積まれ、窓際の燭台には短くなった蝋燭が残っている。昨夜発見した二種類の井戸の名称が気になり、寝床に入っても落ち着かなかったのだ。
『石積みの共同井戸』と『北の古井戸』。
別々の項目に記された二つの名称。単なる呼び方の違いとも考えられたが、エーベルハルトは別の可能性を疑っていた。
彼が探していたのは、井戸の修繕費ではなく、実際に工事を担当した職人への支払い記録である。
「……あった」
古い帳簿の途中で、指が止まった。
同じ年の初夏に、石積みの共同井戸を修繕した石工への支払いが記されている。さらに、その三日後には、北の古井戸から崩れた土砂を取り除いた作業員への支払いもあった。
作業を監督した役人の名前も、使われた道具の数量も異なっていた。
決定的だったのは、二つ目の記録に添えられた一文である。
『共同井戸の修繕を妨げぬよう、北道を経て古井戸へ向かう』
エーベルハルトは何度もその文章を読み返した。
少なくとも、この記録を書いた役人は二つの井戸を別の場所にある施設として扱っている。長い年月の間に片方が埋まった可能性はあるが、当時、別々の井戸が存在したことを示す有力な証拠だった。
「……ようやく、一つ分かったか」
彼は安堵するより先に、別の問題を思い浮かべた。
子爵家が管理していたのは、どちらの井戸だったのか。そして古い台帳に記された境界線は、どちらを基準に引かれていたのか。
エーベルハルトは帳簿を閉じ、部下へ領主館への面会を申し込むよう命じた。
◇
そのころアストレアでは、神城皇牙が食堂で朝食を楽しんでいた。
「なあ、巴。食事会で肉を山ほど焼いたら、絶対盛り上がると思わねえ?」
皇牙はパンを片手に、楽しそうに笑った。
「ふふ。皆さん喜ばれるでしょうね。ただ、四百人以上の分となると、相当な量が必要ですよ」
「だよなあ。俺の《国家創造EX》で巨大な厨房は造れるけど、肉まで出てくるわけじゃねえし」
皇牙は少し残念そうに呟いた。
建物を造るのは簡単でも、料理を用意するには食材と人手が必要だ。以前なら勢いで開催を決めていたかもしれないが、今では住民たちの食事や備蓄まで考えるようになっていた。
「まあ、そこは尊徳とリーナに相談するか。俺は美味い料理を考える担当ってことで!」
「殿。それでは一番楽しいところだけではありませんか?」
「当たり前だろ! 楽するために国を作ってるんだからな!」
得意げに胸を張る皇牙を見て、巴は楽しそうに笑った。
朝食を終えた二人は、広間へ向かった。もちろん、毎朝のお楽しみである無料ガチャを引くためだ。
【無料召喚:3/3回】
【国家人口:453人】
【SR以上排出率:5%】
「昨日はN三連発だったし、今日は大物が来てもおかしくねえ!」
期待を込めて一回目を引くと、召喚陣が白く輝いた。
【N ペーター】
【適性:調理補助】
「おっ、料理人! 食事会を考えてたところだし、いいじゃねえか!」
二回目も白い光となり、荷運び補助のエルマーが現れた。倉庫での積み下ろしや荷車の整理が得意だと聞き、皇牙は満足そうに頷く。
そして三回目。今度は青い光が広間を照らした。
【R セシリア】
【適性:催事運営・人員配置】
「うおおっ! イベント運営!? しかもR!」
皇牙は思わず拳を握った。
「お前、最高のタイミングで来たな! 今ちょうど、街のみんなで食事会をしようと思ってたんだよ!」
召喚された女性は突然の歓迎に驚いたものの、すぐに落ち着いた表情で一礼した。
「催しの準備や人員の配置を得意としております。まずは、参加人数と会場について教えていただければ幸いです」
「もちろん! クラリスたちに案内してもらうから、あとで相談しようぜ!」
三人を歓迎し、生活案内の担当者へ引き継ぐ。セシリアについても、まずは街の施設と仕事の分担を教えてもらうことにした。
【無料召喚:0/3回】
【国家人口:456人】
【SR以上排出率:5%】
「四百五十六人! あと四十四人で五百人か。いやあ、順調だな!」
皇牙は嬉しそうに頷いた。
もっとも、五百人になってもガチャの確率が上がるわけではない。それでも自分の街が少しずつ大きくなるのは、素直に楽しかった。
◇
昼前、市場の隣にある集会所へ、皇牙と巴が姿を現した。
すでにリーナと二宮尊徳、クラリスが集まり、食事会について相談していた。新たに加わったセシリアも、クラリスの説明を受けながら街の施設を確認している。
「で、みんなで飯を食うなら、どれくらい用意すればいいんだ?」
皇牙が尋ねると、尊徳は帳簿を開いた。
「全住民が参加すると考えるのではなく、まず希望者を確認するべきでしょう。仕事の都合で来られない方もおりますし、必要以上に食材を使うわけにはまいりません」
「なるほど。じゃあ、参加したい奴だけ来る形にするか!」
「それがよろしいかと。料理についても、現在の備蓄を使いすぎないように考えましょう」
リーナは提供できそうな献立をいくつか挙げた。焼き肉だけではなく、野菜を使った煮込み料理やパンも用意すれば、少ない肉でも満足できる食事にできそうだった。
セシリアは話を聞きながら、広場の出入口や調理場所を確認していた。
「皇牙様。会場を一度に満員にするより、昼から夕方まで時間を分けて開催してはいかがでしょうか。警備や商店のお仕事がある方も、交代で参加できると思います」
「おおっ! それならみんな来やすいな!」
「それと、参加希望は事前に集めましょう。料理を作る方々の負担も減らせます」
クラリスも頷いた。
「では、本日から希望を聞き取ります。開催は三日後を目標にいたしましょうか」
「よし、決まり! 三日後に食事会だ!」
皇牙は嬉しそうに笑った。
もっとも、全員が同時に休むわけにはいかない。関羽の警備担当者たちや、厨房で働く者にも交代で食事を楽しんでもらえるよう、勤務の調整を進めることになった。
「……へへっ。楽しみだな!」
皇牙は広場を見渡しながら、すでに美味しい料理のことを考えていた。
◇
午後、アストレアの城館では、コルベールとナポレオン、山本勘助が共同調査の準備を進めていた。
子爵家への提案書は今朝、定期便で発送されている。返答が届くまでは、境界未確定の区域に立ち入って調査を始めることはできない。
そこで三人は、現地調査を実施する場合の記録方法について話し合っていた。
「調査結果は、必ず双方の担当者が確認できる形にするべきだ」
ナポレオンが地図を指した。
「同じ場所を調べても、後から互いに違う説明を始めれば意味がない。確認した事実と、そこから推測した内容を分けて記録するのだ」
コルベールは頷いた。
「調査記録を双方で作成し、同じ内容に署名するということですね」
「そうだ。少なくとも、どこで何を見つけたかについては争わずに済む」
勘助も感心したように頷いた。
「なるほど。土地の所有権まで決めずとも、現地の状態については共通の記録を残せるのでござるな」
ナポレオンは満足そうに笑った。
「交渉は相手を言い負かすことだけではない。次に争う必要のない部分を、一つずつ増やしていくことも重要なのだ」
その言葉に、コルベールも深く頷いた。
調査隊の編成については、アレクシスを測量担当、勘助を地形と防衛上の助言役、アウグストを資料整理の補助とする予定だった。アウグストは現地の文字を学習中のため、土地台帳の解釈を単独で任せることはしない。
また、関羽には調査隊の安全確保について相談することにした。ただし、約二十名しかいない警備担当者を大きく動かすわけにはいかない。
必要最小限の護衛を同行させ、子爵家側にも事前に人数を知らせる方針である。
「……これなら、無用な誤解は避けられそうですね」
コルベールが書類をまとめると、ナポレオンは静かに頷いた。
「後は、相手の返答を待つだけだ」
◇
そのころ、ヴァルデン子爵領の領主館では、エーベルハルトがアルブレヒト子爵へ報告を行っていた。
机には、土地台帳と租税記録の写しが並べられている。
「……つまり、井戸は二つあったということか?」
子爵が尋ねると、エーベルハルトは慎重に答えた。
「少なくとも、当時の役人は二つの施設として扱っていたと考えられます。同じ年度に別々の作業員へ費用を支払った記録が残っておりますので」
彼は帳簿の該当箇所を示した。
「こちらが石積みの共同井戸の修繕費。そしてこちらが、北の古井戸へ向かう道の整備と土砂の除去に関する支払いです。さらに、北道を通って古井戸へ向かったという記述もございます」
子爵はしばらく無言で記録を読み進めた。
これだけの記載があれば、二つの井戸が別々に存在したという見方には十分な根拠がある。ただし、現在の石の井戸がどちらに当たるのか、もう一つがどこにあったのかまでは分からない。
「……なるほど。では、土地台帳に記された境界の解釈も変わる可能性があるな」
「はい。井戸の位置を誤って理解していた場合、古い境界の説明も違った意味になります」
エーベルハルトの言葉に、子爵は小さく息を吐いた。
「……分かった。現地調査の準備を進めよ」
その場にいたオスカーが顔を上げた。
「閣下。アストレア側からも共同調査を提案する意向が示されております」
「承知している。正式な書状が届き次第、条件を確認して回答する。ただし、こちらの準備まで止める必要はあるまい」
子爵はエーベルハルトへ向き直った。
「クライン。お前を子爵家側の調査責任者に任命する。必要な記録の確認と、現地調査へ同行する人員の選定を進めよ」
「承知いたしました」
エーベルハルトは深く頭を下げた。
子爵はさらに、調査の際には双方が確認できる記録を残すよう命じた。井戸や道の痕跡を勝手に掘り返すことは認めず、必要な作業は事前に協議する。
「我々が求めるのは、事実を明らかにすることだ。領有権の結論は、その後で判断する」
子爵の言葉に、オスカーも静かに頷いた。
こうして子爵家側でも、共同現地調査へ向けた準備が正式に始まった。
◇
夕方、アストレアでは皇牙が市場の広場を歩いていた。
セシリアが開催予定の食事会について、会場の配置を確認している。リーナたちも献立を検討し、尊徳は備蓄に無理が出ないよう食材の数量を調整していた。
「おおっ! もう準備が進んでるじゃねえか!」
皇牙が嬉しそうに声をかけると、セシリアが微笑んだ。
「はい。まずは参加希望者を確認しております。明日には、おおよその人数が分かると思います」
「よし! 無理しない範囲で頼むぜ!」
皇牙は満足そうに頷いた。
最初は自分が美味しい料理を食べたいだけだった。それでも、住民たちが楽しめる催しになれば、これほど嬉しいことはない。
隣を歩く巴も、楽しそうに微笑んでいた。
「殿。皆さん、食事会をとても楽しみにしておられるようですね」
「へへっ! じゃあ、俺も当日はちゃんと参加しないとな!」
「ふふ。もちろんです」
皇牙は笑いながら、広場の向こうに見える城館を眺めた。
灰の荒野に最初の城を建てたころ、ここにこんなに多くの人が集まるとは思っていなかった。
今では四百五十人を超える住民が暮らし、商人が行き交い、畑では農民たちが働いている。
「……何だか、すげえことになったよな」
思わず呟くと、巴が穏やかに頷いた。
「はい。ですが、殿の望まれる暮らしは、少しずつ形になっているのではありませんか?」
「……そうだな!」
皇牙は嬉しそうに笑った。
その夜、ヴァルデン子爵領では、エーベルハルトが調査隊の人選を始めていた。
古い地図を扱える役人、土地の記録に詳しい書記、そして現地を案内できる者。
まだ正式な共同調査の日程は決まっていない。しかし、子爵家とアストレアの双方が、同じ謎を解き明かすために動き始めていた。
石積みの共同井戸と、北の古井戸。
二つの井戸が別々に存在したことを示す記録は見つかった。だが、その正確な位置と、かつての境界線は依然として謎のままである。
そして、その答えを探す調査が、いよいよ現実のものになろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




