第3章 第96話 子爵家の領有権主張! ナポレオンが示す交渉の切り札
石の井戸は、誰のものなのか。
その問いに答えるため、ヴァルデン子爵家の外交官オスカー・ベルナーは、古びた羊皮紙を慎重に広げていた。
領都の使節用控室には、朝日が差し込んでいる。机の上には子爵本人の署名が入った書状と、色褪せた土地台帳の写しが並んでいた。
「……これだけでは、灰の荒野全体の領有権を証明できるとは限りませんな」
オスカーは台帳の一節を指でなぞり、独り言のように呟いた。
記録には、かつて旧集落の住民が利用していた井戸について、ヴァルデン家が修繕費を負担し、周辺の街道を管理していたと書かれている。
だが、どこからどこまでを領地としていたのかは明確でない。
子爵から託された任務は、アストレアへ服従を迫ることではなかった。双方の主張を確かめ、争いを防ぐための正式な協議を始めることである。
「……簡単な仕事ではありませんな」
小さく息を吐いたオスカーは、羊皮紙を筒へ収めた。
使節団は朝のうちに領都を出発し、街道の中継所で馬を替えながらアストレアへ向かう予定だった。
◇
同じころ、アストレアの城館では、神城皇牙が朝食のパンを頬張りながら、昨夜の大浴場について熱弁していた。
「いやあ、巴! 昨日の風呂は最高だったな! あの広さなら、何時間でも入ってられるぜ!」
「殿。それでは、のぼせてしまいますよ」
「……確かに。せっかく造った風呂で倒れたら格好悪いもんな」
皇牙が真剣な顔で頷くと、巴は笑いを堪えきれなかった。
黒竜の像を二体も飾った大浴場は、皇牙にとって自慢の施設である。昨日は無事に試験入浴を終え、湯温や給排水にも大きな問題は見つからなかった。
今日は少人数の住民を招き、実際の利用状況を確認する予定になっている。
「よし! 俺も見に行こうかな! みんなが喜んでくれたら嬉しいし!」
「その前に、いつものお楽しみがございますね」
巴の言葉に、皇牙は勢いよく顔を上げた。
「そうだった! ガチャだ!」
食事を終えるなり広間へ向かい、《英霊召喚ガチャEX》を呼び出す。
【無料召喚:3/3回】
【国家人口:447人】
【SR以上排出率:5%】
「昨日はRヘレナだったからな! 今日こそSR以上、頼むぜ!」
一回目の召喚陣は白く輝いた。
【N エリック】
【適性:記録整理補助】
「おっ、書類整理か! うちの役人たち、いつも紙の山と戦ってるから助かりそうだな!」
二回目も白い光となり、若い女性が姿を現した。
【N ソフィア】
【適性:浴場清掃補助】
「おおっ! 浴場の人材じゃねえか! これは大当たりだろ!」
皇牙は満足そうに頷いた。建物を造れても、毎日の掃除や備品の管理までは勝手に終わらない。大浴場を長く使うなら、こうした仕事を担う人材は欠かせなかった。
そして三回目。
召喚陣が青く輝き、落ち着いた表情の男性が現れた。
【R アウグスト】
【適性:古文書整理・土地記録照合】
「……土地記録?」
皇牙は目を瞬かせたあと、思い切り拳を握った。
「うおおっ! 今、一番欲しい人材じゃねえか!」
アウグストは突然の歓声に驚きながらも、丁寧に一礼した。
「古い記録を読み解き、異なる資料を比較することを得意としております。ただ、まずはこの土地の文字や制度を学ばせていただければと思います」
「もちろん! クラリスとオリヴィアに頼んでおく! うちは今、昔の土地が誰のものかって話で揉めてるんだよ!」
「承知いたしました。お役に立てるよう努めます」
皇牙は三人を歓迎すると、それぞれの担当者へ案内を任せた。アウグストも新しい土地の記録を理解するには時間が必要だが、今後の調査で頼りになるだろう。
【無料召喚:0/3回】
【国家人口:450人】
【SR以上排出率:5%】
「よっしゃ! 四百五十人! あと五十人で五百人だな!」
皇牙は満面の笑みを浮かべた。
その直後、クラリスが広間へ入ってきた。
「皇牙様。オスカー・ベルナー殿からの先触れが届きました。本日午後、正式な書状をお持ちになるそうです」
「……おっ、ついに来るのか!」
皇牙は少し考えたあと、巴へ顔を向けた。
「今日は昼寝、無理そうだな」
「ふふ。大切なお話ですから、頑張りましょうね」
◇
午後、ヴァルデン子爵家の紋章を掲げた使節団が、アストレアの西門へ到着した。
関羽は事前に知らされていた人数と携行品を確認すると、使節団を城館へ案内した。護衛は必要最小限で、石橋の向こうに駐留する子爵軍の部隊が同行しているわけではない。
馬車から降りたオスカーは、街並みを見渡して感嘆の息を漏らした。
「……また随分と発展しましたな」
以前訪れたときより商人の数が増え、道路には荷車が行き交っている。庭園の向こうには、見覚えのない青い屋根まで見えた。
城館の応接室では、皇牙と巴、コルベール、ナポレオン、山本勘助が待っていた。
「久しぶりだな、オスカー! 遠いところまでご苦労さん!」
皇牙の気さくな挨拶に、オスカーは少し緊張を解いた。
「ありがとうございます、皇牙殿。本日はアルブレヒト子爵閣下の正式な回答をお持ちしました」
差し出された書状には、交易に関する措置の見直しと、石の井戸周辺における現状維持の継続が明記されていた。
コルベールが内容を確認し、皇牙へ頷く。
「これで、監視所の検査方法が変更されたことを正式に確認できました」
「よし! 商人たちも安心できるな!」
皇牙は嬉しそうに笑った。
だが、オスカーが次に取り出した羊皮紙を見て、室内の雰囲気が変わった。
「ここからが、本日のもう一つの用件でございます」
机へ広げられたのは、古い土地台帳の写しだった。
黄ばんだ紙には、旧集落の名前と井戸の位置、周囲の街道についての記載が残されている。
「子爵家には、かつて旧集落の井戸を管理し、その修繕費を負担していたという記録がございます。また、近くの街道を管理していた記録も残されております」
「……なるほど。それが、向こうの土地だって証拠になるのか?」
皇牙が尋ねると、オスカーはすぐには答えなかった。
「少なくとも、子爵家がこの地域に古くから関わっていたことを示す資料ではあります。ただし、灰の荒野全体の境界を明確に示したものではございません」
コルベールは羊皮紙を覗き込み、慎重に言葉を選んだ。
「井戸の管理記録と、その周辺一帯の領有権は、同じものではありません。街道の維持管理についても、どこまでが子爵家の正式な管轄だったのか確認が必要でしょう」
「おっしゃるとおりです。子爵閣下も、その点を正式に協議したいとお考えです」
オスカーは落ち着いて答えた。
そのやり取りを聞いていたナポレオンが、机に広げられた地図へ目を向けた。
「ならば、最初から灰の荒野全体を一括して争うべきではないな」
彼は地図の上に置かれた木片を四つに分けた。
「まず、現在のアストレア市街地。次に旧集落。石の井戸。そして、旧街道だ。この四つを分けて考えよう」
「……分ける?」
皇牙が首を傾げる。
「そうだ。現在の市街地で誰が生活しているかという問題と、昔の井戸を誰が管理していたかという問題は別だ。街道についても、通行の権利と土地の所有権を混同すべきではない」
勘助が身を乗り出した。
「なるほど。旧集落と井戸の位置は近くとも、同じ範囲を指しているとは限らぬでござるな」
「そのとおり。曖昧なまま大きな土地を争えば、双方とも引けなくなる。だが、争点を分ければ、どこに証拠があり、どこが未確定なのか分かる」
ナポレオンは静かに笑った。
前世で戦争と政治の両方に関わってきた彼にとって、勝負は敵の主張を力任せに打ち砕くだけのものではない。対立を細かく分け、有利に解決できる部分から動かすことも重要だった。
オスカーも興味深そうに地図へ目を落とした。
「……確かに、その方法なら議題を整理しやすいでしょうな」
皇牙はしばらく地図を見つめていたが、やがて真剣な表情で口を開いた。
「なあ、オスカー。俺は別に、子爵家と土地を取り合いたいわけじゃねえんだよ」
これまでの軽い調子とは違う声に、オスカーが顔を上げた。
「でも、ここにはもう人が住んでる。農地を耕して、家を建てて、家族で暮らしてる奴らがいるんだ」
皇牙は地図の市街地を指した。
「昔の記録があるからって、今住んでる連中を追い出せとか、勝手に税を取らせろとか、そういう条件だけは認めねえぞ」
隣に立つ巴が、静かに頷いた。
彼女は荒野に皇牙と二人きりで立っていたころを覚えている。最初は城と農地しかなかった場所へ、少しずつ人が集まり、ようやく今の街になったのだ。
オスカーはその視線を受け止め、ゆっくり頭を下げた。
「ご懸念は理解いたしました。皇牙殿のお考えは、子爵閣下へ正確にお伝えします」
「おう。あとはコルベールたちと話してくれ。俺、細かい交渉は苦手だからな!」
真面目な空気を自分で壊すような台詞に、ナポレオンが小さく吹き出した。
「……君は本当に、肝心なところだけ決めて、あとは人任せだな」
「それが俺の理想の働き方なんだよ!」
皇牙は悪びれずに笑った。
その後、コルベールとオスカーは初回の正式協議について条件を整理した。
会談場所は境界未確定の井戸周辺を避け、双方が同意した場所を選ぶ。参加者は必要な人数に限り、武装した大部隊を伴わない。現地調査は事前に相手へ知らせ、交渉中も井戸の独占や通行料の徴収などは行わない。
そして、土地台帳と現地の測量図を持ち寄ること。
この最後の条件については、オスカーも強く賛成した。
「子爵家の記録だけでは、現在の地形まで把握できません。アストレア側の資料も拝見できれば、より正確な話し合いができるでしょう」
「こちらには測量図がございます。ただし、古い土地の所有関係を直接証明するものではありませんので、資料の性質を分けて整理いたします」
コルベールの返答に、オスカーは満足そうに頷いた。
領有権の結論は出ていない。それでも、双方が何を確かめるべきかは明確になった。
会談を終えたオスカーは、子爵家へ持ち帰るための記録を丁寧にまとめた。皇牙の言葉も、ナポレオンの提案も、誤解を招かないよう書き留めている。
◇
オスカーを見送ったあと、皇牙は城館の廊下で大きく伸びをした。
「くああっ! 疲れた! やっぱ外交って面倒くせえ!」
「ですが、殿のお考えが先方へ伝わってよかったですね」
巴が微笑むと、皇牙は少しだけ照れたように頭をかいた。
「……まあな。俺が守りたいのは、立派な国って名前じゃねえし。ここで暮らす奴らが安心できりゃ、それでいいんだよ」
「はい。私も、殿のお考えを大切にしたいと思います」
その言葉に皇牙は嬉しそうに笑った。
「よし! 難しい話は終わり! 今度こそ楽しいことをしようぜ!」
二人が向かったのは、庭園の大浴場だった。
入口には数人の住民が集まり、案内役から利用方法の説明を受けている。今日からは男女別の浴室で、少人数ずつ試験利用を始めることになっていた。
ヘレナとアルベルトが給排水設備を確認し、エルザたちが清掃を担当する。浴槽の湯は燃料を使って温められ、利用者の人数と時間も記録されていた。
「皇牙様! 本日から住民の試験利用を始めております」
ヘレナが笑顔で報告すると、皇牙は目を輝かせた。
「おおっ! どうだ? みんな喜んでくれてるか?」
「はい。大変好評です。ただ、初めて利用される方も多いので、入浴方法や注意事項を説明しながら進めております」
浴室から出てきた年配の男性が、皇牙の姿を見つけて駆け寄った。
「皇牙様! こんな立派な風呂に入れるなんて、夢みたいです!」
「おう! 気に入ってくれたか?」
「もちろんです! 身体の芯まで温まりましたよ!」
男性の嬉しそうな笑顔に、皇牙もつられて笑った。
別の住民からは、休憩室が広くて使いやすいことや、湯船から庭園が見えることを喜ぶ声が聞こえてくる。子供たちは入口に並ぶ黒竜像を見上げ、目を輝かせていた。
「すげえ! この竜、今にも動きそう!」
「へへっ! だろ!? 俺が考えたんだぜ!」
皇牙は得意げに胸を張った。
最初は自分が豪華な風呂に入りたいだけだった。それなのに、こうして住民たちまで喜んでくれるなら、造った甲斐があるというものだ。
「……いやあ、最高だな。俺の趣味が、ちゃんとみんなの役に立ってるじゃねえか!」
巴はその横顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「はい。殿が楽しんでおられることが、街の人々の喜びにもつながっているのですね」
「だよな! だったら次は、もっと面白い施設を造ろうかな!」
「ふふ。まずは、この大浴場を長く使えるようにするのが先ですよ」
「……それもそうか!」
皇牙は苦笑しながら頷いた。
◇
夕方、城館の会議室では、コルベールと勘助が土地の資料を確認していた。
机の上には、アレクシスが以前作成した測量図と、旧集落周辺の調査記録が広げられている。
「こちらの図では、石の井戸と旧街道の位置関係は分かります。しかし、昔の集落の境界までは明確ではありませんな」
勘助が指で地図をなぞると、コルベールも頷いた。
「はい。ですから、子爵家の土地台帳と照合する必要がございます」
そこへクラリスが、今日召喚されたアウグストを伴って現れた。
「コルベール様。アウグスト殿に、こちらで使用している土地記録の形式をご説明しております」
アウグストは机の上の資料を見つめ、興味深そうに頷いた。
「なるほど。まずは、この地域で使われている地名と記録の書き方を覚える必要がありますね」
「急がず進めてください。重要な資料ですから、思い込みで判断してはいけません」
コルベールの言葉に、アウグストは真剣な表情で頷いた。
その様子を見ていたナポレオンは、地図の四か所に置かれた木片へ視線を落とした。
「……よし。これで、ようやく交渉の準備が整い始めたな」
彼の指先が、石の井戸を示す木片の上で止まる。
「昔の井戸を管理していた者が、今の街まで支配できるとは限らん。だが、記録を軽視すれば相手にも同じことをされる。互いの主張を分け、事実を確かめることだ」
その言葉に、コルベールと勘助が静かに頷いた。
一方、ヴァルデン子爵領へ戻る道中、オスカーは馬車の中で今日の会談を振り返っていた。
皇牙は、想像していたような野心的な支配者ではなかった。政治や外交の話を面倒がる一方で、住民を追い出すような条件だけは絶対に認めないと、はっきり言い切った。
「……あの若者、侮れませんな」
オスカーは小さく呟いた。
そして、子爵へ伝える報告書の余白に、短い一文を書き加えた。
――アストレアの代表者は、領土の拡大よりも、現在の住民の生活と安全を重視している。
そのころ皇牙は、大浴場の休憩室で住民たちの笑い声を聞きながら、満足そうに椅子へ腰掛けていた。
「……やっぱ、こういうのが一番だな」
美味しい飯を食べ、好きな建物を造り、皆が笑って暮らせる街でのんびり過ごす。
皇牙が望んでいるのは、それだけだった。
だが、その小さな願いを守るための交渉が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
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