第3章 第104話 二人の天才軍師が動く! 子爵家との新たな交渉
異世界生活九十三日目。
ヴァルデン子爵領の領主館では、アルブレヒト・フォン・ヴァルデンが二枚の地図を前に、難しい顔をしていた。
一枚は子爵家が長年使ってきた境界の推定図。もう一枚は、アストレアとの共同調査で発見された道路遺構と古井戸の位置を反映したものだ。
問題は、二枚の地図に引かれた境界候補線が、旧集落付近で大きく食い違っていることだった。
「……つまり、我々は違う井戸を境界の目印だと考えていたかもしれんのだな」
「はい。現在の共同井戸と、地中で発見された井戸は別の施設です。後者が台帳に記された『北の古井戸』である可能性が高まっております」
土地管理官エーベルハルトは、曖昧な表現を避けずに答えた。
古い境界の位置が判明したとしても、それだけで現在の領有権が決まるわけではない。しかし、従来の地図を唯一の根拠として主張を続けることも難しくなっていた。
アルブレヒトはしばらく沈黙したあと、外交官オスカー・ベルナーへ視線を向けた。
「アストレアの街には、すでに住民と商人が集まっている。今さら街そのものを明け渡せと言っても、受け入れるまい」
「その可能性は低いでしょう」
「ならば、こちらに必要なものを見極めねばならん」
アルブレヒトは地図上の街道を指した。
子爵領から東へ向かう商隊にとって、アストレアを経由する道は重要になり始めている。街が発展すれば、交易先としての価値もさらに高まるだろう。
「我が領の商人が、理由もなく通行を止められないこと。街道沿いで水を補給できること。そして、通行に関する条件を一方的に変更されないことだ」
オスカーは手元の紙へ書き留めた。
「それらを正式な協議の条件として提示するのですね」
「そうだ。過去の権利をすべて放棄するつもりはないが、守る必要のない面子のために、利益まで失う気はない」
アルブレヒトは静かに告げた。
「ただし、我が領の商人だけを特別扱いしろとは言わん。双方に適用できる取り決めを考えよ」
オスカーは深く頭を下げた。
その日の夕方、三つの要求を記した正式協議の申し入れが、アストレアへ向けて発送された。
◇
「よっしゃ! 今日は料理人を頼む!」
同じ日の朝、アストレアの城館では、神城皇牙が元気よく《英霊召喚ガチャEX》を起動していた。
昨日は地下に眠る古井戸の調査に立ち会い、すっかり歴史探検の面白さに目覚めている。とはいえ、ガチャに対する熱意が薄れたわけではない。
【無料召喚:3/3回】
【国家人口:477人】
【SR以上排出率:5%】
一回目の白い光から現れたのは、製粉と穀物加工を得意とするNヘルマンだった。
「おっ、パンが美味くなるかもしれねえな!」
二回目も白い光となり、調理補助のNミラが姿を見せる。
【N ミラ】
【適性:調理補助】
「来たああっ! 料理関係!」
「と、殿。驚かせてしまっていますよ」
巴に袖を引かれ、皇牙は慌てて咳払いした。
「悪い悪い。美味い飯が好きなもんでさ。よろしく頼む!」
最後の召喚陣は青く輝いた。
【R フェリクス】
【適性:商隊運行・荷役管理】
「おおっ、Rか! 最近は西門も混んでるし、ちょうどいいじゃねえか!」
三人を生活案内の担当者へ引き継ぎ、皇牙は満足そうに表示を確認した。
【無料召喚:0/3回】
【国家人口:480人】
【SR以上排出率:5%】
「四百八十人! 五百人まであと二十人か!」
「ふふ。楽しみですね」
巴が微笑むと、皇牙は大きく頷いた。
「その前に昼寝したいけどな!」
◇
その日の午後、皇牙は巴とともに西門へ出かけた。
荷車の列が門前まで伸びていると聞いたからだ。自分が造った街が便利になるのは嬉しいが、混雑で住民が困るのは面白くない。
現場では、街道管理を担当し始めたヴィルヘルムと、新たに加わったフェリクスが、荷車の動きを観察していた。
「皇牙様。現在は荷物の確認を門の正面で行うため、後続の荷車が待ち続ける状態です」
フェリクスが説明する横を、野菜を積んだ荷車がゆっくり進んでいく。荷物の確認に時間がかかり、後ろから来た商人が困った顔をしていた。
「なるほどな。じゃあ、別の場所で荷物を調べればいいんじゃねえ?」
「はい。ただ、待機場所と通路を分ける必要があります」
ヴィルヘルムが指したのは、西門の外側に広がる空き地だった。
そこはアストレアが日常的に管理している区域で、子爵家との境界紛争の対象地からも離れている。関羽の部下も、門の防衛や見通しを妨げない位置なら利用できると確認していた。
「よし! 造るだけなら任せろ!」
皇牙が《国家創造EX》を発動させると、空き地の一角に石畳が広がった。
荷車を止める区画と、人が歩く通路を分離し、門の警備を妨げないよう出入口を配置する。立派な施設があっという間に完成したが、皇牙はそこで仕事を終えた。
「はい、完成! あとの運用は頼んだぜ!」
フェリクスは驚きながらも、すぐに手元の板へ荷車の順番を書き始めた。ヴィルヘルムは門番と相談し、まずは試験的に数台を新しい待機場所へ誘導する。
ところが、一頭の馬が知らない場所に驚き、首を振って立ち止まってしまった。
「おっと!」
荷車の御者が慌てて手綱を引く。巴はすぐに近づき、馬の正面を避けながら御者へ声をかけた。
「無理に引かず、少し落ち着かせてください」
穏やかな声と御者の手綱さばきに、馬はやがて歩き出した。
荷車が所定の区画へ収まると、後続の馬車は門の前で止まらず進めるようになった。フェリクスが荷物確認の順番を整理し、ヴィルヘルムが歩行者の通路を確保する。
すべての混雑が一瞬でなくなったわけではない。それでも、試験運用を始めてしばらくすると、門の正面にできていた列は目に見えて短くなった。
「おおっ! ちゃんと流れてるじゃねえか!」
皇牙は嬉しそうに笑った。
「建物を造ったのは皇牙様ですが、使いやすくなったのは皆さんが工夫してくださったおかげですね」
巴の言葉に、皇牙は素直に頷いた。
「だよな。俺一人じゃ、荷車の順番なんて考えたくもねえもん!」
関羽の部下や商人たちが礼を述べると、皇牙は照れくさそうに手を振った。
◇
翌九十四日目。
皇牙は朝の無料召喚で、Nの家具修理補助ハンス、Nの野菜選別補助リディア、Rの帳簿点検担当アルノルトを迎えた。
国家人口は四百八十三人。SR以上の排出率は変わらず五パーセントである。
「また書類に強い奴が来たのか! いいぞ、俺の仕事をどんどん減らしてくれ!」
そんな皇牙の願いをよそに、城館の執務室ではコルベールたちが交渉書面を完成させようとしていた。
ナポレオンが机に並べた紙には、アストレア側の譲れない条件が書かれている。
現に暮らしている住民を一方的に退去させないこと。アストレアの市街地へ子爵家が独自に課税しないこと。双方で確認していない土地を、どちらかが勝手に占有しないこと。
張良はそれとは別の紙へ、相手に提示できる利益を書き加えていた。
商隊の通行を原則として認めること。安全に利用できる給水場所を確保すること。通行に関する条件を変更する場合には、事前に協議すること。
「……ただし、給水施設の維持費は誰が負担する?」
ナポレオンが問いかける。
「まずは利用状況を調べ、双方で分担方法を決めるのがよいでしょう。片方だけが負担すれば、後に不満が残ります」
張良はそう答え、文面を修正した。
コルベールは二人の意見をまとめ、正式な提案書を作成していく。
単に仲良くしましょうと呼びかけるのではない。双方が何を守り、どこまで協力できるのかを具体的に示すための書面だった。
「これなら、相手が何を選ぶべきかも明確になる」
ナポレオンは満足そうに頷いた。
「ええ。こちらの望みだけを並べるより、交渉の余地が生まれるはずです」
張良も静かに微笑んだ。
その日の夕方、子爵家からの使者が西門へ到着した。
九十三日目に発送された正式協議の申し入れが、一日余りかけて届いたのである。
書状を開いたコルベールは、思わず目を見開いた。
「……これは」
そこには、商隊の通行、給水施設の利用、条件変更時の協議という、子爵家の三つの要求が記されていた。
張良が作成した提案書と、驚くほど方向性が近かったのである。
「……まるで、こちらの考えを読まれていたようですな」
コルベールが呟くと、張良は穏やかに首を振った。
「相手もまた、自分たちに必要な利益を考えたのでしょう。利害が重なるなら、話は早くなります」
ナポレオンは愉快そうに笑った。
「ならば、遠慮する理由はない。正式な協議を始めよう」
◇
翌九十五日目。
朝の無料ガチャではNの倉庫清掃補助エルザ、Nの畑管理補助ローレンツ、Rの薬草管理担当ベアトリスが召喚され、アストレアの人口は四百八十六人となった。
「うおおっ、またRだ! 最近、優秀な奴が結構来るな!」
皇牙は大喜びで三人を迎えたあと、巴に朝食の時間だと促されて広間を後にした。
そのころ、西門の外では子爵家の外交官オスカー・ベルナーを乗せた馬車が到着していた。
彼は前日の朝に領都を出発し、途中で一夜を過ごしてからアストレアへ向かったのである。護衛は最小限で、正式な協議に必要な書記と資料を同行させていた。
城館の会議室では、コルベールがオスカーを迎えた。
「ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ。共同調査では、我が方の者を救っていただいたことも含め、感謝しております」
オスカーは丁寧に頭を下げた。
席にはナポレオンと張良も同席し、子爵家側の書記が資料を広げる。
皇牙も巴とともに顔を出したが、会議を進める気はさらさらなかった。
「今日はよろしくな! 難しい話はコルベールたちに任せるけど、街のみんなが安心して暮らせるようにしてくれよ!」
オスカーは一瞬驚いた顔をしたあと、穏やかに微笑んだ。
「承知しております。我々も、無用な争いは望んでおりません」
「よし! それなら話は早いな!」
皇牙は満足そうに頷き、会議の進行をコルベールへ任せた。
オスカーが最初に提示したのは、子爵家の商隊がアストレアを通行する際の取り決めだった。
「我々は、街道を安全に通行できることを重視しております。また、商隊が利用する給水施設についても、今後の扱いを明確にしたいと考えております」
コルベールは用意していた提案書を差し出した。
「アストレア側も同じ点を重視しております。こちらをご覧ください」
オスカーが書面へ目を落とす。
通行を原則として認めること、給水施設の利用方法を協議すること、条件の変更は事前に知らせること。そこには、子爵家の要求と重なる項目が並んでいた。
「……これは、驚きました」
オスカーは顔を上げた。
「我々が求めていることと、かなり近い内容ですな」
ナポレオンは小さく笑った。
「それなら、双方が利益を得られる条件から先に決めればよいでしょう」
張良も穏やかに頷いた。
「境界の問題は引き続き協議が必要です。しかし、商人たちの暮らしを支える取り決めまで、すべて止めておく必要はありません」
オスカーはしばらく考え、やがて頷いた。
「……その考えには賛同できます」
こうして、正式な外交協議は予想以上に穏やかな雰囲気で始まった。
ただし、話し合いがすべて順調だったわけではない。
「一点、確認させてください」
オスカーが書面の一部を指した。
「この提案には、アストレア市街地への課税を子爵家が行わないとありますが、我が方としては古い権利の扱いをまだ確定させておりません」
会議室の空気が、わずかに引き締まった。
コルベールは落ち着いた声で答えた。
「それは承知しております。こちらが求めているのは、現在の協議期間中に一方的な課税を行わないという取り決めです」
オスカーは再び書面へ目を落とした。
「……なるほど。恒久的な権利放棄ではなく、協議中の措置ということですな」
「そのとおりです」
張良が静かに続けた。
「今の段階で最終的な権利を決めることは、双方にとって早計でしょう。まずは争いが拡大しないよう、必要な範囲を取り決めることが重要です」
オスカーはしばらく考えたあと、深く頷いた。
「……その条件なら、検討する価値は十分にあります」
会議はそこで一度休憩となった。
正式な合意には、双方の責任者による確認と、子爵家への報告が必要である。それでも、商隊の通行と給水施設の利用について、共通の方向性が見えたことは大きな進展だった。
◇
休憩中、皇牙は城館の庭園で巴と並んで座っていた。
「……いやあ、やっぱり会議は面倒だな」
皇牙は大きく伸びをした。
「でも、何かいい感じに進んでるみたいじゃん!」
「はい。皆さんが力を尽くしてくださっていますからね」
「だよな。張良を召喚できて、本当によかったぜ」
皇牙は嬉しそうに笑った。
「ナポレオンもいるし、コルベールもいるし。これなら、俺が毎日書類とにらめっこしなくても国が回るじゃん!」
巴は少し呆れたように微笑んだ。
「ふふ。ですが、最後に決断されるのは殿ですよ」
「……そこだけは逃げられねえか」
皇牙は苦笑したあと、庭園の向こうに広がる街へ目を向けた。
今日も西門では商隊が行き交い、昨日造った待機場所ではフェリクスとヴィルヘルムが荷車の順番を整理している。
自分の造った街が、少しずつ本物の都市へ近づいている。
そう考えると、面倒な仕事が増えることも、少しだけ我慢できる気がした。
「……まあ、みんなが安心して暮らせるなら、多少の面倒は仕方ねえな!」
皇牙はそう言って笑った。
そのころ会議室では、オスカーがアストレア側の提案書を改めて読み返していた。
土地の権利を巡る問題は、まだ解決していない。
しかし、双方が協力できる部分を見つけたことで、長く続いていた対立には確かな変化が生まれていた。
そしてオスカーは、提案書の最後に書かれた一文へ目を留めた。
『双方の住民および商人の安全と生活を、いかなる協議においても優先するものとする』
「……なるほど。これが、アストレアの考え方なのですな」
オスカーは小さく呟き、静かに紙を閉じた。
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