第3章 第103話 もう一つの古井戸! 地図から消えた境界線
異世界生活九十二日目。
ヴァルデン子爵領の北西に広がる荒野では、朝から乾いた風が吹いていた。
昨日起きた崩落事故によって発見された地下空洞。その正体を確かめるため、アストレアとヴァルデン子爵家の調査隊は、新たな準備を進めていた。
ただし、すぐに穴の中を覗くわけにはいかない。
地面が崩れた原因も、空洞の広がりも、まだ分かっていないからだ。
土地管理官エーベルハルト・クラインは、領都へ戻る前に調査隊の宿泊先でまとめた記録を見つめていた。そこには、古い街道の遺構と、三本の刻みを持つ人工石、そして地下空洞の位置が記されている。
「……この三つが、同じ時代のものだったなら」
エーベルハルトは古い帳簿の写しを開いた。
石積みの共同井戸と、北の古井戸。
これまで子爵家では、現在も残る石積みの共同井戸が、古い境界の基準になっていたと考えていた。しかし修繕費の記録では、二つの井戸は別々に扱われている。
もし地下空洞がもう一つの井戸だったなら、長年の解釈を見直すことになるだろう。
エーベルハルトは帳簿を閉じ、窓の外へ目を向けた。
「……今日こそ、確かめねばなりませんな」
◇
一方、アストレアの城館では、神城皇牙が朝食の席で大きな欠伸をしていた。
「くああっ……昨日は歩いたなあ。歴史の調査って、もっと優雅なもんだと思ってたぜ」
「殿は、石を見つけるたびに走り回っておられましたからね」
向かいに座る巴が、楽しそうに微笑む。
「だって面白かったんだよ! 地図にない道が本当に残ってたんだぞ? 歴史好きなら興奮するだろ!」
皇牙はパンを手に熱弁したが、すぐに表情を曇らせた。
「……まあ、あの測量の兄ちゃんが落ちそうになったのは、さすがに焦ったけどな」
「大きなお怪我がなくて、何よりでした」
「巴が助けてくれたおかげだよ。ありがとな」
何気なく礼を言われ、巴は少しだけ目を見開いた。
「……殿。当然のことをしたまでです」
「それでも、助かったのは事実だろ?」
皇牙が笑うと、巴は照れくさそうに視線を伏せた。
その様子を満足げに眺めてから、皇牙は席を立つ。
「よし! 今日はガチャで運試しだ!」
「ふふ。結局、そちらが一番楽しみなのですね」
広間へ移動した皇牙は、いつもの召喚画面を開いた。
【無料召喚:3/3回】
【国家人口:474人】
【SR以上排出率:5%】
「そろそろ金色が来てもいいんだぞ! 張良みたいな大物、頼むぜ!」
一回目の召喚陣は白く輝いた。
【N カール】
【適性:木材加工補助】
「おっ、木工関係か! ガルドのところも仕事が増えてるし、ちょうどいいな!」
二回目も白い光となり、落ち着いた雰囲気の女性が現れた。
【N ソフィー】
【適性:食料配分補助】
「食料管理も大事だよな。尊徳たちに紹介しよう!」
そして三回目。
召喚陣が青く輝き、作業着姿の青年が現れた。
【R エリアス】
【適性:井戸管理・給水設備保守】
「……おい、井戸!?」
皇牙は思わず画面を二度見した。
「今まさに井戸を調べてるんだよ! お前、すげえタイミングで来たな!」
青年は困惑しながらも、丁寧に頭を下げた。
「エリアスと申します。井戸や給水設備の維持管理を得意としております」
「よし! 早速、井戸のことを教えてくれ!」
皇牙は目を輝かせたが、エリアスが現地の古井戸について何も知らないと分かると、すぐに考え直した。
「……ああ、そうか。召喚されたばっかりだもんな。まずは街の井戸を見てもらおう!」
案内役へ引き継ぎ、既存の給水設備を担当する者たちと顔合わせするよう頼む。
共同調査の参加者は子爵家と事前に決めているため、勝手に追加するつもりはない。
【無料召喚:0/3回】
【国家人口:477人】
【SR以上排出率:5%】
「四百七十七人か! 五百人までもう少しだな!」
満足げに画面を閉じた皇牙は、巴とともに出発の準備を始めた。
◇
昼前、調査隊は昨日の崩落地点へ戻った。
木杭と縄で囲われた場所には、まだ乾いた土が崩れたまま残っている。穴を直接覗き込まなくても、周囲の地面に細い亀裂が広がっていることが分かった。
「まず、ここから先へは近づかないでください」
アレクシスは昨日の測量図を広げ、新たに確認した亀裂の位置を書き足した。
マティアスは離れた場所に測量棒を立て、地面の傾きと沈み具合を確かめる。ヴァルデン側の測量官も同じ作業を行い、互いの記録を照合した。
「……崩れた場所の南側は、昨日より亀裂が広がっていますね」
「ええ。ですが、西側の岩盤に近い部分は変化が見られません」
アレクシスは慎重に頷いた。
それでも安全と決めつけることはできない。調査隊は立ち入り禁止の範囲をさらに広げ、作業を行う場所を岩盤側へ限定した。
勘助は周囲の地形を確認し、コルベールとエーベルハルトへ説明する。
「本日は穴の内部へ人を入れず、長い測量具で確認できる範囲だけ調べるでござる。地面が再び動けば、すぐに中止するのがよろしかろう」
「異存ありません」
エーベルハルトが答え、コルベールも頷いた。
皇牙はその様子を眺めながら、少し不満そうに腕を組んでいた。
「……俺の魔法なら、地面を固めるくらい簡単なんだけどなあ」
「殿。固めたことで古い石積みが動いてしまっては、調査になりません」
巴が諭すと、皇牙は苦笑した。
「分かってるって! せっかくの遺跡を壊したくねえしな」
今回は、自分の力を使わないことも大切な仕事なのだ。
◇
調査が始まると、最初に確認されたのは地下空洞の形だった。
安定した岩盤側に設けた作業場所から長い測量棒を差し入れると、穴の内部には円形に組まれた石積みが続いていることが分かった。
アレクシスは棒に付けた目盛りを確認し、マティアスへ数値を伝える。子爵家の測量官も別の棒で深さを測り、結果を照合した。
「……かなり深いですね」
マティアスが呟いた。
地表から見える石積みは崩れているものの、下へ進むほど円形の壁が残っている。途中には、木材を固定するために造られたと考えられる穴もあった。
さらに、壁の一部には細く深い溝が残されていた。
子爵家の測量官が、思わず声を上げる。
「……これは、縄が擦れた跡では?」
アレクシスは位置を変えて確認した。
石の縁から内側へ向かって、同じ方向に擦れた跡が何本も続いている。長い年月をかけて、同じ場所に縄を通し続けたような形だった。
「なるほど。上部に滑車か横木を置き、水を汲み上げていたのでしょう」
勘助も静かに頷いた。
「円形の石積みに、深い縦穴。そして縄の摩耗痕。井戸として使われていたと考えるのが自然でござるな」
最後に、測量棒の先へ細い布を巻き、底まで慎重に下ろした。
引き上げた布には、湿った泥が付着していた。
アレクシスはその状態を確かめ、エーベルハルトへ目を向けた。
「……水を汲み上げるために造られた井戸の遺構と判断してよさそうです」
子爵家側の測量官も頷いた。
「同意します。貯蔵穴や排水施設とは構造が異なります」
エーベルハルトは深く息を吐いた。
「……ついに、確認できましたな」
調査隊の間に、静かな興奮が広がった。
昨日までは正体不明だった空洞が、今は古い井戸の遺構として、双方の記録に残されることになったのである。
「うおおおっ! やっぱり井戸だったのか!」
皇牙は思わず拳を握った。
「すげえ! 昔の人がここで水を汲んでたんだな!」
興奮した皇牙は穴へ近づきかけたが、巴に袖を引かれて踏みとどまった。
「殿。危険区域です」
「……あっ、そうだった!」
その場にいた者たちから、小さな笑い声が漏れた。
◇
調査隊は続いて、二つの井戸の位置関係を確認した。
現在も残る石積みの共同井戸と、今回発見された古い井戸の遺構は、明らかに別の場所にある。
ここまでは現地で確認できる事実だ。
問題は、古い台帳に記された二つの名称が、それぞれの施設と一致するかどうかだった。
エーベルハルトは持参した帳簿を開き、古い記述を読み上げた。
「石積みの共同井戸は、旧集落の住民が利用する施設として記されています。一方、北の古井戸は、街道を通る旅人や商人のための給水場所として扱われていたようです」
勘助は地図の上で、二つの井戸と道路遺構を順に指した。
「昨日確認した道は、旧集落の北西を通り、今回の井戸の近くへ続いているでござる。記録の説明とは、よく合っておる」
「ええ」
エーベルハルトは頷いた。
さらに帳簿を確認すると、二つの井戸には別々の修繕費が計上されていた。工事を担当した役人の名前も異なっている。
「……少なくとも、当時の記録では二つの井戸を別の施設として扱っていたことになります」
コルベールは測量図へ視線を落とした。
今まで子爵家が境界の基準と考えていた共同井戸は、現在の街道に近い場所にある。
しかし、今回確認された井戸はそこから北西へ離れており、古い道の曲がり角に近かった。
その違いは、決して小さくない。
「……なあ、これってさ」
皇牙が地図を覗き込んだ。
「昔の境界線、今まで思ってた場所と違うんじゃねえの?」
勘助は静かに頷いた。
「その可能性が高まったでござるな」
彼は三本の刻みを持つ石と、新たに確認された井戸の位置を結ぶように指を動かした。
「台帳にある『三つの刻みを持つ石より、北の古井戸へ至る道を境とする』という記述が、昨日確認した石と道を指すならば、境界の候補はこの線となる」
続いて、従来の解釈に基づく線を示した。
二本の線は、旧集落の近くでは重ならなかった。
現在の街道と共同井戸を基準に考えていた場合とは、境界の候補となる位置が明らかに異なっている。
「……おおっ!」
皇牙は目を見開いた。
「地図の上だと、こんなに違うのかよ!」
エーベルハルトは、しばらく無言で二本の線を見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……これまでの子爵家の解釈は、見直す必要があるかもしれません」
その声には、隠しきれない驚きがあった。
ただし、今日の調査だけで現在の領有権が確定したわけではない。二本の線はあくまで古い境界を読み解くための候補であり、台帳の記述との最終的な照合も残っている。
それでも、子爵家がこれまで前提としていた位置関係を、そのまま使い続けることは難しくなった。
◇
調査を終えるころには、太陽が西へ傾き始めていた。
コルベールとエーベルハルトは、井戸の構造と測量結果を照合し、双方の記録に食い違いがないことを確かめた。
危険な空洞の周囲は引き続き立ち入り禁止とし、次の調査を行う場合には安全対策を改めて協議することになった。
「……本日は、大きな成果が得られましたな」
エーベルハルトが静かに言った。
「ええ。少なくとも、二つの異なる井戸施設が存在することを確認できました」
コルベールも頷いた。
さらに、古い道と井戸の位置関係が、土地台帳の記述とよく一致していることも分かった。
エーベルハルトは、アストレア側の調査隊へ深く頭を下げた。
「調査にご協力いただき、ありがとうございました。子爵へは、今回の結果を正確に報告いたします」
「こちらこそ。今後ともよろしくお願いいたします」
コルベールが礼を返す。
皇牙は二人の様子を眺めながら、満足そうに笑った。
「へへっ。やっぱ、ちゃんと調べてみるもんだな!」
巴も微笑んだ。
「はい。皆さんの努力が実りましたね」
帰路につく皇牙の頭の中では、すでに別のことが浮かんでいた。
「……なあ、巴。ああいう古い道って、ちゃんと保存したら観光名所にならねえかな?」
「ふふ。殿らしいお考えですね」
「だろ? 歴史好きには絶対人気が出るって! まあ、土地の問題が片づいてからだけどな!」
皇牙は楽しそうに笑った。
面倒な交渉は、ナポレオンや張良たちに任せればいい。
自分は、古い道をどう残すか考える方がずっと楽しい。
◇
翌朝、ヴァルデン子爵領の領主館。
エーベルハルトは、夜のうちに整理した共同調査の記録を携え、アルブレヒト・フォン・ヴァルデン子爵の執務室を訪れていた。
机の上には、二枚の地図が並べられている。
一枚は、これまで子爵家が使っていた境界の推定図。
もう一枚は、共同調査で確認した古い道路遺構と井戸の位置を反映した、新たな境界候補の図だった。
「……これは、どういうことだ?」
アルブレヒトは、二枚の地図を見比べて眉をひそめた。
エーベルハルトは静かに説明した。
「閣下。これまで我々が境界の基準と考えていた石積みの共同井戸は、台帳に記された北の古井戸とは別の施設だった可能性が高まっております」
「……つまり、我々が考えていた境界の位置が、違っていたというのか」
「その可能性があります。ただし、現在の領有権が確定したわけではありません」
アルブレヒトはしばらく黙っていた。
従来の主張を支えていた地図の前提が揺らいだことは、子爵家にとって小さな問題ではない。
だが、エーベルハルトは目を逸らさなかった。
「閣下。都合の悪い結果であっても、記録を改めるべきかと存じます。誤った地図を使い続ければ、今後の交渉でより大きな不利益を招くおそれがあります」
その言葉に、アルブレヒトはゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。オスカーを呼べ」
「はっ」
「アストレア側との協議を進める。古い権利の話だけでなく、今後の街道と井戸の利用についても検討させよ」
エーベルハルトは深く頭を下げた。
長く争点となっていた境界問題は、ようやく新しい段階へ進もうとしていた。
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