第一話 バス停にて
悲鳴が、頭の中で鳴っていた。
こめかみの両方に、同時に痛みがねじ込まれてくる。ゆっくりと、意図的に、歯の根が疼くほど冷たく。
寝不足の頭痛とは違う——選べるならまだそっちのほうがマシだった。
両手で頭を抱えた。意味はなかった。部屋の端が、灰色に滲んでいく。
いつ砕けてもおかしくない。
机に突っ伏さないよう堪えながら、上体を折る。缶のふちはべたつき、丸めた原稿の山がノートパソコンの脇に転がっている。パソコンは埃を被って何日も光っていない。
春から拭いていない窓から、灰色の光が漏れてくる。部屋を照らすというより、状況の酷さを再確認させるだけの光だった。
喉が、空を切るように動いた。胸の内に棲みついていた何かは、とうに麻痺して、感じることすらできなくなっていた。
心臓が喉元まで跳ね上がって、激しく鳴っていた。
「俺は何をやってるんだ」
口から出た声は、自分のものだとは思えなかった。
大学一年。工業大学。
かつては、これが出口だと思っていた。ちゃんとした学位、まっさらな再出発。
その希望が死に始めたのは十二歳のとき——父がバッグひとつだけ持って、家賃だけを残して出て行った日だった。
それ以来、学校は重荷がひとつ増えただけの存在になった。夜勤の上に積み重なる重荷。九時にはもう限界を迎える背中で、この手に向いていない荷物を運び続ける。
払えた請求書のひとつひとつに、同じ小さな恥がおまけでついてきた。勉強しろ、と自分に言い聞かせ続けた。それが出口だと。
頑張れば頑張るほど、出口は遠ざかった。予定通り育てていたはずのものは、もう希望ではなくなっていた。牙が生えていた。
「はっ」
口の端が歪んだ。笑みというより、しかめ面に近かった。
「知るか」
椅子から体を引き剥がし、昨日の服に袖を通し、ジッパーの壊れたリュックを片肩にかけた。また遅刻だ。教授はもう俺がどういう学生か決めつけている。説教のひとつやふたつ、どうでもよかった。
手をかけたキッチンのドアが、カチャリと開いた。
「ヤガミ! 早く来い、朝飯できてるぞ——全部俺が作ったんだ!」
継父の声は、朝七時にしては大きすぎるし、明るすぎる。もう三年、一度もペースを落としたことがない。
コンロの前に立つその姿は、誰かが面白いと思ったフォントで「フライパンの覇者」とでも書かれたエプロン姿だった。卵は完璧な焼き加減でテーブルに並び、トーストは斜めにカットされている。傍らでは紅茶が湯気を立てていた。
コウタは椅子の下で脚をぶらぶらさせながら、寝癖だらけの頭で、まるで今週一番の出来事みたいな顔でその食事を見つめていた。
母はテーブルの端で手を組んだまま、何も口にしていなかった。目の下の隈は、疲れというよりもう痣に近かった。
「ヤガミ」
テーブルを越えるのがやっとの声だった。「お願い。何か食べて」
母が手を伸ばしてくる。その手の甲に浮いた血管を見ながら、駆け寄りたい衝動を感じた——足が動くより先に、それは消えた。
継父はその間を見逃さず、すでに盛り付けた皿を持って回り込んできた。
「ほら、座れって。一日はこれで始めるのが一番だ」
「そんな余裕、今の俺にはない」
平坦な声だった。棘もなく、詫びもなく、ただそう言った。
継父の笑みが、スローモーションで崩れていくのを見た。母の目が、堪えきれずに潤んでいくのも。コウタの脚が、止まった。
その先を見る前に、俺はドアへ向き直った。手がドア枠に触れて、必要以上に半瞬、そこに留まった。
「ヤガミ、待——」
言葉の途中で、ドアが閉まる音がそれを断ち切った。
ドア越しに、母の息が詰まり、崩れる音が聞こえた。急ぐ足音。低い声——
大丈夫、俺がついてる。
その下で、小さく、まだ理解もできていないことを取り繕おうとする声——
お母さん泣かないで、兄ちゃんは急いでるだけだよ。
まるで木が熱を持ったみたいに、ドアから手を引いた。そして、雨の中へ出た。
***
雨は幕のように降っていた。冷たい水が襟の隙間を見つけるのに、十秒もかからなかった。
濡れたアスファルトを車が音を立てて過ぎていく。どこかで店のシャッターが下りる音——早すぎるのか遅すぎるのか、もう判断がつかなかった。
イヤホンを差し込み、ギターの音で街の音をかき消す。その下に、自分の脈拍のノイズ。スニーカーの防水は十月にとうに死んでいて、そのままだった。
この道を歩くといつもそうなるように、診察室の記憶が蘇る。白い壁、塗料に染み込んだ消毒液の匂い。平坦な、事務的な声が告げる——血栓症。このままの生活を続ければ、三十まで生きられない。
怖さより先に驚きがあったのを覚えている。店でありふれた商品が売り切れていたときのような驚き。もうとっくに驚かなくなっていたリストに、また一行増えただけだった。
治療費はまったく別の計算の中にあった。母の薬代とコウタの学費が先に来て、そのあとにようやく、少しずつ失いつつあるこの部屋の電気代が並ぶ。どう計算し直しても、答えはいつも同じだった。残りはゼロ。
この手が温かかったのは、もう何週間も前だ。
気づけばポケットからスマホを取り出していた。ヒビの入った画面。冷たいガラスが、雨の中で灰色に光った。
中学の同級生が、ガラス張りのビルの前で笑っている投稿。それから、彼女。
元カノが、誰かの肩に顔を埋めて笑っていた。清潔な服。この街のどこにも存在しないような陽射し。かつて俺に向けられていたのと同じ笑顔。
顎に力が入る。なんであいつには、何も壊れない側の人生があるんだ。そしてもっと小さく、その下で——なんで俺じゃ、足りなかったんだ。
「クソが——」
指が開いた感覚はなかった。スマホはただ手から離れ、縁石の水たまりに落ち、一度だけ青く光って、そのまま消えた。
そのまま放っておいた。それが繋いでいたものが何であれ、沈むに任せて、歩き続けた。
そのころには、思考はどこか斜めにずれていた。今朝の残骸を一つずつなぞる——医者、金、そのすべてが、かつて俺に向けられていた笑顔に絡みついて——やがて、どれも自分のものだとは感じられなくなっていった。目を瞑っていても歩ける道の上の、ただのノイズ。
大体そんな調子で歩いていたから、角の信号が赤になったことにも気づかなかった。
誰かの手が襟を掴み、後ろへ引き倒すように歩道の縁から引き戻した。よろけて見知らぬ誰かの肩にぶつかる。クラクションが額の髪を揺らすほど近くを通り過ぎていった——風と水しぶきの壁が、身をすくめきる前に消えていった。
「頭おかしいのか!?」
作業着の男が、片手で俺の襟を掴んだまま怒鳴った。顔は真っ赤で、最後の数メートルを全力疾走したような息づかいだった。「トラックの前に平気で出るのか? どうかしてるぞ?」
「すみません」
声は平坦で、他人事のようだった。本来あるべき恐怖が、そこにはなかった。
「……考え事をしてて」
男は襟が急に熱くなったみたいに手を離すと、短く汚い言葉を吐き捨てて、もう興味を失ったように立ち去った。
しばらくその場に立ち尽くす。心臓が肋骨の内側で、ぎこちなく飛び跳ねていた。ほとんどは残響——衝撃の前ではなく、後にやってくる余韻のようなものだった。
そのとき、見た。
道路の向こう、人波が途切れてバス停に変わるあたり——誰も使っていないその場所に、バスを待っているのではない何かが立っていた。
頭から爪先まで黒い。雨の伝い方がおかしい——まるで布ではないみたいに。フードの下に顔はなかった。あるのはただ二つの赤い点、低く、揺らがず、俺だけに向けられていた。混み合う通りの中で、誰もそんな注意を向けられることはない、そんな種類の視線だった。
周りの誰も、そちらへ目をやりもしない。傘から雫を垂らしながら、みんなその隣を、その空間を通り抜けていく。誰の目も別のどこかに向いたまま。一人として、足を緩めなかった。
俺は動かずに、目だけをそこに固定した。
配送トラックが、俺とそれとの間をゆっくりと、何でもないふうに通り過ぎる。ワイパーが動いていた——一秒半だけ、それしか見えなくなった。
トラックが過ぎ去ると、バス停にはスマホを覗き込む女性がいるだけだった。
ちょうど、あの赤があった場所に。
胸骨の奥で、何かが静かに鳴った。今まで合わなかった鍵が、ようやく鍵穴で回ったような感触だった。
雨の中に立ち尽くし、襟の後ろを水が伝う感触の中、何の異常もないバス停をただ見つめていた。
そのとき、歯に響くほど近くで、二度目のクラクションが背後で鳴った——突然に、そしてもう手遅れに。




