目覚めると、別世界
なんだか──不思議な夢を見た気がする。
深い水の底からゆっくりと浮上するように、ラヴィーネは目を覚ました。
こんなによく眠ったのは久々だ。眠りの浅いラヴィーネは、夜半過ぎには一度目覚めて、朝が来ないように祈るような日々を送っていた。
ジェイセンとはじめてまともに言葉を交わし、そしてもう一人、ラヴィーネの願望が作り出した理想のジェイセンが存在しているような夢をみてしまった。
願望が作り出した、というのも妙な話だ。
ジェイセンに愛して欲しいなんて、思っていないのに。
ただ彼はラヴィーネの夫だ。彼の気持ちがどうであろうと、ラヴィーネを娶り、家に置いてくれているのは確かだ。
彼は他の女と子を作るのかもしれない。それでも──ほんの少しだけ期待を、してしまっていたのだろうか。
いつか彼がラヴィーネの抱えている事情に気づいて、アイビーではなくラヴィーネを信じてくれることを。
そんな日がくることなど、ラヴィーネはとっくに諦めてしまっていたのに。
「おはよう、ラヴィ」
なかなか起きあがる気に慣れず、ベッドでぼんやりしていると、甘ったるい声が聞こえた。
砂糖を煮詰めた上に蜂蜜とメープルシロップを入れてぐずぐずに溶かしたような、低く甘い男性の声である。
その声がラヴィーネを一気に現実に引き戻した。
夢よりもあり得ない現実など、ありはしないだろうと思っていたのに。
ラヴィーネの目の前には、昨日と同じ──いや、昨日よりもさらに魅力的な、ジェイセンの軍服を完璧に着こなしているセインがいる。
だが、ジェイセンはいつも一糸乱れぬ姿をしているが、セインは軍服の首元を開いていた。
白いシャツと首筋が露わになっており、長い髪と相まってどこか怠惰な美しさを感じる。
朝の光以上に眩しいセインの笑顔に目を焼かれそうになりながら、ラヴィーネはがばっと起きあがった。
ラヴィーネに覆いかぶさって彼がなにかしようとしている気配を感じたからだ。
それは、困る。すごく困る。
「ま、まだ、いるのですね……?」
「いなくなって欲しいのか? つれないことを言う。それもまた可愛いな、私のラヴィ」
「ジェイセン様は、そんなことはおっしゃらないです……」
「十年後には言うようになっている。だが、後悔している。もっと早くに君を愛していれば……十年前の私は君を捨て置いていた。つまり、十八歳の君を堪能することができていない。十年後の君も本当に愛らしいが、今の君も可愛い。どの瞬間のラヴィのことも、私は愛している」
「ひぅ……」
妙な声が漏れてしまう。動機と息切れが止まらない。
ばくばくいう心臓を押さえつけて、ラヴィーネはベッドから立ちあがる。
寝乱れた寝衣をいそいそと直して、それでも心許なかったのでガウンを羽織った。
セインの視線がいたたまれない。
というか──今、彼は扉から入ってこなかっただろうか。
つまり、部屋の外にいたということだ。
ラヴィーネはぎぎぎと、音がしそうなほどに緩慢に、部屋の時計に視線を向ける。
規則正しい時を刻む手巻き時計は、午前十時を示している。
完全な寝坊だ。その上、使用人たちはとっくに起きて働いている時間だ。
「セイン様、誰かに見られたのでは……!?」
がばっとセインを振り向いて、ラヴィーネは彼に一歩踏み出した。
セインは距離を近づけたラヴィーネの手を取り、腰を引き寄せると、ダンスを踊るようにラヴィーネと体を密着させる。
「それが、どうした?」
「ど、どうした、ではありません……っ、あなたと不貞を働いていると、思われてしまいます……」
「ラヴィは、いい子だな。使用人とは所詮使用人。私が金を払っている、雇用関係にある。彼らの視線を気にする必要も、機嫌をとる必要もない。人には人の立場というものがある。君のほうが、立場が上だ」
「そんな風には、思いません……」
「とても貴族とは思えない考えかたをする、私のラヴィは、本当に優しくて……愛しい」
耳元で囁かれると、恐怖とともに甘ったるさが体をさざめかせた。
彼の思考も言葉も怖いのに、それだけではない甘さがある。ラヴィーネのことだけを大切にしてくれているような、妙に自尊心が満たされるようななにかがある。
頭ではいけないとわかっているのに。
「食事にしようか、ラヴィ。こちらにおいで」
セインはラヴィーネを有無も言わせずに抱きあげて、部屋を出る。
見られてしまう。ラヴィーネは使用人たちから嫌われているが、さらに立場が地に落ちるだろう。
ジェイセンに構われないために、彼に似た容姿の男を連れ込んだ最低な女だと──。
しかし、廊下に出たラヴィーネを待っていたのは、ずらりと並んだ侍女たちだった。
「セイン様、ご用意ができております」
「ラヴィーネ様、こちらに」
深く頭をさげて、彼女たちはセインとラヴィーネを出迎えた。
セインは彼女たちに視線も送らずに、ラヴィーネを連れて食堂に向かう。
呆気にとられたラヴィーネが見たものは、深く頭をさげる侍女たちの手の震えだ。彼女たちは怯えている。通り過ぎる使用人たちもまた、セインにひどく怯えたように頭をさげる。
「なにをしたのですか……?」
「なにも」
「嘘です、皆、あなたを怖がっています……」
「そうかな? 私は君以外はどうでもいいんだ。怖がられようが、どうしようが、知ったことではない」
ラヴィーネが寝ている間に、なにかがあったのだろう。
今のセインは、完全にアーバン家を掌握している。
にこやかにラヴィーネを見つめる男の心の奥にあるものが、ラヴィーネはおそろしい。
でも──やはり、そこには抗いがたい甘さがある。
このままこの腕の中で、何も考えないでいたくなるような、そんな欲求が首を擡げそうになってしまい、ラヴィーネは眉を寄せた。
この優しくて恐ろしい男をどうすればいいのか、ラヴィーネにはこれっぽっちもよい考えが思い浮かばなかった。




