夫のような男と同衾してはいけません
◇
ぱきんと、セインは簡単に呼び鈴を折ってしまった。
ガラス製というわけではない。魔物の骨でできているもので、けして柔らかいというわけではないのだ。
ラヴィーネには手折ることができない。背筋が冷える。
セインに隠れてジェイセンに連絡していたことも、彼が呼び鈴を軽々と壊してしまったことも、どちらも──怖い。
「ラヴィ、ジェイセンに連絡を?」
「え、ええ、そう、です……黙っているわけには、いきませんので……」
「君のことを歯牙にもかけていない、残酷な夫だ。あんな男のことなど頼る必要はない」
「せ、セイン様は、ジェイセン様なのですよね……? ご自分のことを、そんなふうにおっしゃらなくても……っ」
一歩セインが進んでくるたびに、一歩後退りをする。
とうとう背中が壁にぶつかり、逃げ場を失ってしまった。
セインは未来のジェイセンだというのに、ジェイセンのことを小馬鹿にし見下し、嘲ってさえいる。
同じ人間ならば、敵対する必要はないのではないだろうか。
ともかくこれ以上近づかれたらよくないと思うのに、セインはラヴィーネの顔の横の壁に手を置いて、ぐいっと顔を近づけてくる。
ラヴィーネは俯いた。真っ赤に染まった顔を、見られたくなかった。
「あれは、私だ。過去の私だが……ここにもう一人の私がいる。同じ人間だが、厳密には違うのだろうな。十年分の経験が私にはある。ラヴィ、頼るのならば私に頼れ」
顎をもう片方の手で持ちあげられて、セインと至近距離で目が合う。
その瞳にある情熱に、体が焼かれるようだ。
こんな風に誰かに想われたことなど、ラヴィーネにはない。
血の繋がった家族にさえ──実の母にさえ嫌われている。
思えば、誰かに優しくされたのも、助けてもらったのもはじめてだ。
だからどうしても、彼を拒絶できない。ジェイセンに似た男は、ラヴィーネに対してどこまでも甘く優しく、そして恐ろしいほどの強い感情を抱いている。
それほどまでに愛されている十年後のラヴィーネは、なんて幸せなのだろうと少し羨ましくなってしまうほどに。
「あの男がここに来るとしても、早くて明日の朝だろうな。今日はジェイセンのことなど気にせずに休め、ラヴィ。湯あみがまだだろう。やはり手伝ってあげようか」
「い、いい、いえ、結構です……!」
本当にラヴィーネを抱き上げて浴室に向かいそうなセインの手から、ラヴィーネは急いで逃げる。
そして今度こそ、身ぎれいにするために浴室に向かう。
侍女が手伝いにこないのはいつものことなので、手早くドレスを自分で脱いで、いつもたっぷりと湯の張られている浴槽に入った。
元々、伯爵家でもラヴィーネは放置されていた。アイビーは多くの侍女を従えていたが、ラヴィーネには誰もいなかったのだ。自分のことを自分でするのは慣れている。
かえってそれでよかったように思う。どんな状況でもさほど困らないのは、ラヴィーネの強みだ。
それがいいか悪いかは別にしても。
湯につかり、ジェイセンとセインについて考える。
十年の間に、ジェイセンになにがあったのだろうか。
彼はラヴィーネを助けられてよかったと言っていた。
だからおそらく、セインと共にいるはずの十年後のラヴィーネは、城の大階段から転がり落ちて大怪我をしているはずだ。
軽い怪我ではすまなかったのだろう。
それぐらい、セインはラヴィーネを助けられたことについて、安堵していた。
「もしかして……私は、死んだのかしら」
大階段から落ちてラヴィーネが死んでしまったから、セインは悔いて──時を越えて助けに来たのだろうか。
それにしてはラヴィーネに対して気安い。ラヴィーネとの時間が彼には確かにあり、ラヴィと呼ぶようになり、大切にしてくれていたのだろうと思う。
怪我と、確かに彼は言っていた。
だとしたらなぜ彼は、ラヴィーネを助けにきたのだろう。
考えてもきりがない。侍女たちに怪しまれる前に部屋に戻らなくては。
そう思い、ラヴィーネは浴室を出て、身支度を整えて寝室に戻った。
おそるおそる扉を開くと、ラヴィーネが開くのと同時に内側からぐいっと開かれて、体勢を崩す。
扉を開いたセインは、転びそうになったラヴィーネを片手で受け止めた。
「お帰り。なかなか帰らないから、心配で、見に行こうかと思っていた」
「大丈夫です、湯あみをしていただけなので……」
「ラヴィ、よい香りがする。その姿も可愛いな。少々無防備だが、君によく似合っている」
セインはラヴィーネを抱きあげて、ベッドに運んでいく。
ラヴィーネは寝衣に着替えていた。ジェイセンはラヴィーネに金銭的な不自由はさせなかった。
そのため、今着ているクリーム色のシルクのネグリジェも、上質なものである。
艶のある生地が、ラヴィーネの体のラインを浮きだたせている。
布をおしあげる豊かな胸や浮き出た鎖骨に視線を落とされて、ラヴィーネは恥ずかしさに眉を寄せる。
セインもまた、着替えていた。衣裳部屋からジェイセンの服をあさってきたようだ。
黒いシャツとゆったりとしたスラックスは、有事の際にいつでもジェイセンが外に出られるように、寝衣代わりに着ているものである。
浮き出た胸板が逞しく、心臓がどくりと脈打った。
ベッドにそっと降ろされて、ラヴィーネは目を見開く。
頭の中で、まずい、よくない、いけない──という言葉がぐるぐると渦巻いた。
「君はまだ十八歳か……本当に愛らしい。罪を犯しているような、気になる」
セインの指が、体を緊張で強張らせているラヴィーネの唇に触れる。
ゆっくりと辿られて、ラヴィーネはシーツを強く掴んだ。
どうしようと、涙まで滲んでくる。
その涙を指で拭い、セインは赤い舌で舐めた。
「大丈夫だ、なにもしない」
「え……」
優しく、手のひらが頬を撫でる。
ラヴィーネは驚きと落胆が入り混じったような声を漏らしてしまったことを恥じて、セインから視線を逸らした。
「怖がらせにきたわけではない。愛しく思うが、必要以上に触れたりはしない。君がそうしてほしいというのなら、別だが」
「こ、困ります……私は、ジェイセン様の妻ですから……」
「あぁ、そうだな。……君が眠るまで、髪を撫でさせてくれ。それだけは、許してくれるか?」
ベッドサイドに足を組んで座り、セインはラヴィーネの髪を撫ではじめる。
それぐらいなら──と、ラヴィーネは頷いた。
本当はよくないのだろう。
けれどその手のぬくもりからは、どうしても離れ難く感じてしまった。
よくないことだとわかっているのに、母にあやされる幼子のように、ラヴィーネは目を閉じる。
きっと、ジェイセンは来ないだろう。
明日からセインの存在をどうすればいいのかと、頭を悩ませながら──やがて、深い眠りに落ちていった。




