妻の不貞、もしくは危機
◇
ジェイセンは、何度か呼び鈴を鳴らした。だが、王都のタウンハウスに通じている呼び鈴は、鳴らしてもなんの反応もない。
どくん、どくんと、耳の奥で心臓の音が鳴り響く。
ラヴィーネを娶ってから──彼女に冷たくしていたという自覚はある。
そもそも貴族女性を筆頭に女性という生き物が嫌いなジェイセンは、誰を娶ったとしても優しい夫になどなるつもりはなかった。妻は道具である。そこに感情など必要ない。
政略結婚など、そんなものだ。
その上、ラヴィーネは伯爵家からの手紙によれば、強引にジェイセンの妻の座をアイビーから奪い取ったという。
社交界の噂には興味がないが、ロアンの報告でも同じだった。
『蛇毒は、婚約者を捨てて公爵夫人の座を選んだ』
そう、皆が言っている。ロアンは「女のせいで、アーバン公爵家の評判が落ちるのは、許せませんね」と苛立っていた。真面目な男である。ジェイセンは「どうでもいい」と、それ以上の調査も報告も求めなかった。
やるべきことは多くあるのだ。領民たちの食糧難を解決することや、休む暇もなく湧き出る魔物の討伐。それ以外にも──ともかく、ジェイセンには妻のことで頭を悩ませている暇などなかった。
ラヴィーネには不自由しない程度の金を渡している。公爵家には侍女たちもロアンもいる。
評判の悪い女の待遇としては、十分すぎるものだろう──などと、考えていたのだ。
愛よりも権力を求めるような女は、そのうちジェイセンを裏切るだろう。
男を連れ込むか、外で浮気をする可能性もある。彼女との間に子がなければ、どちらにせよ問題は起こらない。
そのうち、ラヴィーネという妻が公爵家にいることさえ、頭の中から抜け落ちるようになった。
それほど──ジェイセンは、ラヴィーネに対して興味がなかったのだ。
別に、彼女だけではない。ジェイセンは基本的に、女性に興味がない。ジェイセンの頭の中は、いつも義務と仕事で埋め尽くされている。
「……どういうことだ」
だというのに、今のジェイセンは、ラヴィーネのことでいっぱいになっていた。
まともに話したことさえなかった彼女の口調は、遠慮がちで弱弱しいものだった。
ジェイセンを騙すためにそれを演じているのかとも考えたが、そんな様子はない。その声音は、気づかいに満ちていた。
その言葉もまた、慈愛にあふれるものだった。
彼女に残酷な言葉をぶつけたジェイセンに礼を言っていた。それはまるで、今生の別れのようだった。
家を出ていくつもりか。それともなにか、彼女の身に危険なことが起こっているのか。
遠く離れた場所では、言葉は交わせるものの、彼女になにが起こっているのかまではわからない。
いったい何があったのかと、ジェイセンの中にはじめて彼女に対する感情が生まれた。
命の危険に晒されているのではないか。公爵領には魔物が多い。公爵邸が襲撃される危険も、もちろんある。
警備兵は残しているが、魔物討伐の際にはジェイセンも騎士団もいなくなる。
もしかしたらと、不安が腹の底から湧きあがってくる。
いくらラヴィーネが噂通りの最低な女だとしても、死んでいいとは思わない。
それに──ラヴィーネの口調や言葉は、ジェイセンが彼女に抱いていた印象とはまるで違うものだった。
「あの男は、いったい誰なんだ」
ラヴィーネは、十年後の未来からジェイセンが来たという。
なにを言っているのか、さっぱりわからなかった。
それに、王家の夜会に一人で参加したなんて、ジェイセンは知らなかった。
公爵夫人が夫を伴わずに夜会に参加するなど、皆からの嘲笑の的になるのは目に見えている。
従者がいればまだいいが、そんな立場の者は、ラヴィーネにはいない。
必要がないと考えて、手配もしなかった。侍女がいればそれでいいだろうと思っていたのだ。
彼女は恥を顧みず、アーバン公爵夫人として夜会に出たのだ。
なぜ、そんなことを。そこまでして、権力を得た自分を皆に見せたいのか。
などと、彼女と話す前のジェイセンなら思っていただろう。だが、ジェイセンに勇気を振り絞ったような声で礼を言うラヴィーネは、そんな女ではないように感じている。
ともかく彼女は困り果てている。そして、自分に冷たい夫に、連絡をしてきたのだ。
他に頼る相手もなく、ジェイセンが彼女を嫌っているのを承知で、助けを求めてきたのである。
ほんのわずかに、胸の奥が締め付けられるような気持ちになった。
この気持ちはなんだと考える暇もなく、男の嘲るような言葉が呼び鈴から響いてきた。
ジェイセンと男は同じ人間だから、ラヴィーネを男が愛するのは問題がないという。
「未来から来た? 同じ人間? そんなわけがないだろう……!」
ラヴィーネの身に、危険が迫っているのではないか。
見知らぬ男が、ラヴィーネの傍にいる。そして彼女は、助けてと、ジェイセンを呼んでいる。
ジェイセンは身支度を整えた。すっかり日が落ちているが、夜駆けができないというわけではない。
休まずに馬を駆けされれば、明日の朝には王都まで辿りつけるはずだ。
「ジェイセン様、どちらへ?」
宿の一階にある食堂で酒宴に興じていたデュオリードが、軍服を着てマントを羽織り、剣をさげているジェンセンの姿を見て驚く。
「王都に向かう。魔物討伐はもう終わった。あとの処理は、お前に任せる」
「王都に!? なにかあったのですか?」
「ラヴィーネが、呼んでいる」
そう短く言って、ジェイセンは宿を出る。説明する時間が惜しい。
今すぐラヴィーネの元に行かなくてはいけない。
彼女が、見知らぬ男に傷つけられていることを思うと、苛立ちと苦痛がジェイセンの心をぎりぎりと鉄の鎖で締めあげた。
それは──ジェイセンにとって、はじめての感覚だった。




