ジェイセンの困惑
◇
ジェイセンに、連絡しなくては──。
そう思い、ドレスから寝衣に手早く着替えたあとに、ラヴィーネの寝室のソファに座って足を組みくつろいでいるセインに「湯あみをしてきます」と告げた。
フリルのついたネグリジェに着替えたラヴィーネを目にしてセインは愛おしげに目を細めると、「その姿も可愛いな、ラヴィ。手伝おうか」と言う。
とんでもないと首を振り、ラヴィーネは急いで部屋から出る。
扉を閉じて廊下の壁にもたれかかり、早まる心臓を両手で押さえた。
セインという人が未来から来たジェイセンだと信じるとして、いや、ラヴィーネの本当の立場を言い当てた以上信じるしかないのだが、あまりにも刺激が強すぎる。
その深く低い声で名を名を呼ばれると、心がざわつく。
年上の男性が好き──と強く感じたことはなかったはずなのに、その仕草や表情、顔立ちや声音、大人の男性特有の色気のようなものにあてられて、息が詰まりそうになる。
夫のジェイセンはラヴィーネを嫌っているが、セインはラヴィーネを愛している。
十年後の自分はきっと幸せなのだろう。
そんな未来が自分に訪れるなんて、とても思えないが。
ともかくやるべきことをしなくてはと、ラヴィーネは首を振った。
ジェイセンに自分から連絡したことなど一度もない。それどころか、『お前とは子を作らない』というようなことを言われたきりで言葉さえ交わしていない。
果たして彼はラヴィーネの話を聞いてくれるのだろうか。
目の前が暗くなるような不安と緊張に苛まれながら、ラヴィーネは音を立てずに慎重に公爵家の中を歩いて呼び鈴が置かれている執務室に辿り着く。
ジェイセンと繋がる魔道具があることを、ラヴィーネは知っている。念のためと、家令が教えてくれたのだ。
化け物から身を隠すようにさっと執務室に入り、扉を閉める。
月明りを頼りに暗い部屋を探り、机の中から呼び鈴をみつける。
それは普通の呼び鈴と同じような形をしているが、魔物の素材から作られている。魔素を宿しているので、薄ぼんやりと青色に輝いていた。
慎重に細く白い指でそれを手にして、ラヴィーネは呼び鈴を鳴らす。
『どうした』
すぐに、呼び鈴から声が聞こえてくる。
ジェイセンの声だ。セインの声とよく似ている。セインのほうが、やや声が低いだろうか。話し方も穏やかだ。ジェイセンの声はどこまでも冷たい。その声だけで肌に傷がつきそうなぐらいに、冷酷な響きがある。
「や、夜分遅くにもうしわけありません、ジェイセン様……」
なにを言おうか悩んで、とりあえず挨拶をした。どうしても声に怯えが混じってしまう。
未来からもうひとりのあなたが来た──なんて言ったら、気が触れたとでも思われるだろう。
どう説明したらいいのか事前に考えておけばよかったと後悔しながら、ラヴィーネはなんと言おうかと必死に考えた。
『ラヴィーネ、か?』
「は、はい。お仕事中に、それに、こんなに遅い時間に、突然の連絡もうしわけありません」
『謝罪は聞き飽きた。要件を言え』
「ご、ごめんなさい……」
明らかに不機嫌そうな声音に萎縮しながら、もう一度謝ってしまう。
ラヴィーネは心を落ち着かせるために深く息を吐くと、覚悟を決めた。
どうせ、嫌われている。ラヴィーネがおかしなことを言っても、更に嫌われるだけだ。
言わないでいたら、嘘をついた、隠したと、叱責されるかもしれない。伝えておけば、その事実は残るのだ。
「ジェイセン様、お話が、あります」
『だから連絡をしてきたのだろう。そんなことはわかっている』
「あっ、あの、討伐、大変でしたでしょう……? お怪我はありませんでしたか? いつも、皆のためにありがとうございます」
これは先に言っておくべきだと、ラヴィーネは彼に礼を言った。
今まで伝えることができなかったが、ジェイセンとは多忙な男だ。家にいないのは、領地や国内の魔物討伐を彼が引き受けているからである。
ジェイセン以外に戦えるものがいないというわけではないが、ジェイセンは皆から頼られてしまうぐらいに、強いのだ。
半月も姿を見せないのは、騎士団を連れて討伐に出ているためだと知っている。
見送りもできず、声もかけることができなかった。
けれど──これから、彼にさらに嫌われて失望されるようなことを伝えるのだからと思うと、少し勇気が出た。どの道、セインについては伝えるのだから、その前にずっと言いたかったことを言えてよかった。
『……俺に媚びる必要はない。それとも、何か不足しているのか? 金が足りないのか』
「そういうわけではなくて……お金は十分足りています。もともとあまり使うような生活はしていないので……ただ、お礼を言いたかったのです。ジェイセン様が危険を顧みず、皆のために働いてくれていることを知っています。そんなあなたを、妻として支えるべきなのに。なにもできなくて、ごめんなさい」
評判の悪いラヴィーネを受け入れてくれただけで、ありがたいと思っている。
たとえ冷たくされようと、嫌われていようと。
サイアスと結婚していたら、きっともっとひどいことになっていただろう。
彼はアイビーと愛し合い、ラヴィーネを捨てていたはずだ。もしくは、ラヴィーネを使用人のように扱い仕事をさせて、搾取し続けていただろう。もしそうなっていたら、ラヴィーネは世を儚んでいたかもしれない。
この半年は、そんなことを考えていた。だから、公爵夫人として夜会に参加するべきだと考えたのだ。
少しでも、公爵家の役に立ちたかった。だが、それも恥をかいただけで終わってしまったが。
『一体、何なんだ。……突然連絡をしてきたと思ったら、何故、謝罪をする。……お前は今、どこにいる。何かあったのか、ラヴィーネ』
彼の声に、はじめて嫌悪以外の感情が籠った。
ラヴィーネの様子がおかしいことに気づいて、心配をしているようにも聞こえる。
皆のために働き、領民たちのためにラヴィーネを娶った男が、残酷な人間のはずがないのだ。
だから、まるで別人のようなセインが、ジェイセンの未来の姿だと思うことができた。
本来彼は──優しい人なのだろうと思う。
「王都のタウンハウスにいます。王妃様主催の夜会に出席して……そこで、あなたに会ったのです」
『何を言っている?』
「信じられないですよね。私も、混乱しています。十年後のあなたが、私の前に現れて、今も私の部屋に……私、どうしていいのか。あなたに嫌われているのに、もう一人のあなたは私に優しくて……本当に、どうしたらいいのか……」
『ラヴィーネ、どういうことだ。支離滅裂だ。もう少し、わかるように話せ』
きい、と、音を立てて扉が開いた。
明るい廊下の光が、執務室に一直線にさしこんでくる。
眩しさに目を細めたラヴィーネの元に、セインがやってくる。話し声に気づかれてしまったのだろう。
ラヴィーネは呼び鈴を持ったまま、身を固くした。
悪いことをしていたわけではないのに、何故か罪悪感と恐怖がせりあがってきて、背中が冷える。
「ジェイセンか。ラヴィーネを捨て置いている、愚かな時代の私だ。何も心配する必要はない。ラヴィーネのことは私に任せておくがいい。お前のぶんも彼女を愛そう。同じ人間なのだから、なんの問題もないだろう」
『は? なにを、言って……お前は誰だ。ラヴィーネ、返事をしろ、ラヴィーネ!』
ジェイセンの怒気が、空気を震わせた。
しかしセインはなんでもないように、ラヴィーネから呼び鈴を取り上げると、それをぱきんと折ってしまった。




