優しくて情熱的で少し怖い
扉際に追い詰められたラヴィーネは、獲物を追い詰めるように近づいてくる男の高い位置にある顔を見あげて身を竦ませる。
大きな手が顔の横に置かれる。身を屈めて、彼はラヴィーネの顔を覗き込む。
呼吸が触れ合ってしまうほどに距離が近く、頬が勝手に染まっていく。
ジェイセンや、彼に似たこの男に恋をしているというわけではない。
そうなるには、ジェイセンとの距離は遠すぎる。顔のよく似た見知らぬ男に対しては恐怖心のほうが強い。
いくら助けてくれた恩人とはいえ──強引すぎるだろう。
そうは思えど、金縛りにあってしまったかのように動けない。
その瞳は激しい熱を帯びている。切なく寄せられた眉が、頬を撫でる優しい手つきが、ラヴィーネが愛しいと告げている。
見知らぬ男だと自分に言い聞かせるのに、誰かの体温をこれほどまで求めていた自分に気づいてしまう。
「……ラヴィ、君の顔をよく見せてくれ」
「……困ります、こんな」
「優しい夜のような黒髪も、雪のような白い肌も、金色に煌めく星のような瞳も──ラヴィの姿を、目に焼きつけさせてくれ」
「お願いです、離れ、て……」
目じりを指先が辿り、唇に触れる。
触れることに慣れている仕草だ。そうするのが当然のように、唇の柔らかさを堪能した指先が首筋を辿る。
ラヴィーネの背筋に、ぞくぞくとしたなにかが走る。染まった頬を見られたくなくて俯くが、すぐに顎を軽く掴まれて、視線を合わせられる。
「ラヴィ……可憐だ。会いたかった、君に、ずっと……」
「ずっと……?」
「ん……? あぁ、未来からこちらに来るまでに、長く時間がかかった。君に会いたい、君を……あの怪我から救いたいと願い続けて、ようやく、会いに来ることができた」
「その話、信じなくてはいけませんか」
「信じなくても、事実だ。その証拠に君のことならなんでも知っている。……長年、君の妹によって君が貶められていたことも。君の妹が私との結婚を拒絶し、君は身代わりとなって私の元にきたことも」
「それは……でも、誰も、そんな風には思っていないのに」
はじめてだ。誰かに、気づいてもらえたのは。
アイビーは周到で、執拗だった。彼女の嘘がいつからはじまったのかはよく覚えていない。
それはごく幼い頃だったように思う。
そもそも母は、義母に似ているラヴィーネの容姿をあまり好んでいなかった。
幼心にはよくわからなかったが、義母と母の関係はうまくいっておらず、そこには互いに憎しみに近い感情があったようだ。
そのため、黒髪や赤褐色の瞳のラヴィーネを『お義母様に似ている』と、母は睨むときがあった。
アイビーは、母に似ている。だから母は手放しで可愛がった。
物心ついたころだろうか、アイビーと二人で子供部屋で遊んでいると、彼女が急に泣き出した。
些細なきっかけだったように思う。
『おねえさまが、あいびーのおにんぎょうをとったの』
そう拙い声で泣くアイビーを母は庇い、ラヴィーネを叱った。
そんなことをしていないと言っても母は信じなかったし、実際アイビーの可愛い少女の姿の人形はラヴィーネの部屋からぼろぼろになって出てきたのだ。
誰がそれをしたのか、ラヴィーネは知らない。アイビーは五歳か、その程度だったような気がする。
そんな小さな子供がそこまでするとは思えない。
だが、ラヴィーネが母にきつく叱られている姿を見て、アイビーは味を占めたのだろう。
同じようなことが何度も繰り返され、それは成長するごとにどんどんエスカレートしていったのだ。
『公爵夫人になりたいがために、婚約者を捨ててアイビーから無理やりジェイセンを奪った』
そういう噂がすでに広まっている。知らなかったのはラヴィーネだけだ。
今日の夜会の様子では、その話を知らないもののほうが少なかっただろう。
ジェイセンの耳にも届いているかもしれない。
ラヴィーネを嫌うはずである。アイビーがジェイセンに嫁ぎたくないと言ったことなど、所詮は密室での出来事だ。それを知る者は、両親とラヴィーネしかいない。
サイアスとアイビーの浮気も同じだ。
ラヴィーネは知っていたが、両親は気づかないふりをしていたし、社交会に噂が広まらないように当然隠していた。
アイビーの『慈愛の天使』の言葉を、皆が信じてしまう。
だというのに、目の前の男はラヴィーネだけが抱えている真実を口にする。
未来のジェイセンは、ラヴィーネを信じてくれたということだろうか。
彼はラヴィーネを信じ、愛してくれた。
今のジェイセンがどうしてそんな風に変わってくれたのかなど知る由もないが、ラヴィーネの知らない十年間の間に、なにかが起こったのかもしれない。
「……あなたは、本当に、ジェイセン様……?」
「あぁ。ジェイセンが二人いるというのはややこしいだろう。だから君は私を、セインと呼ぶといい」
「セイン様……」
素直に、呼んでしまった。
その名はラヴィーネの中に、染み入るように馴染んでいく。
彼は嬉しそうに微笑んで、そっとラヴィーネの髪を撫でた。
「私のラヴィ、今日はもう疲れただろう。ゆっくり休もう。寝支度を手伝おうか。ドレスのままでは苦しいだろう」
「ひ、ひとりで、できます……っ」
本当に手伝う気なのだろう。ドレスの背中の紐を緩めようとしてくるジェイセン──セインの胸を、ラヴィーネは押した。
すぐに戻ると言って、慌ただしく衣裳部屋に駆け込む。
ドレスや衣服がしまわれている衣裳部屋の中で一人きりになり、ラヴィーネは激しく高鳴る胸を両手でおさえる。
「どうしよう……ジェイセン様に、連絡、しないと……」
セインは十年後のジェイセンの姿である。
それを認めるにしても、ジェイセンではない男を公爵家に連れ込んでしまったという事実は変わらない。
もう、ラヴィーネ一人では処理しきれない。
どう思われてもいい。この家の主人はジェイセンだ。彼に、伝えるべきだろう。




