秘密の恋人のように
アーバン家のタウンハウスに近づくにつれて、ラヴィーネの顔色はどんどん悪くなっていく。
タウンハウスには侍女や使用人たちがいる。
暗がりのために御者は彼がジェイセンではないと気づかなかったが、家に戻ったらそういうわけにはいかないだろう。
そもそも──彼が未来から来た夫だという話を、どうしたら信じられるというのか。
そんな奇跡みたいなことが、起こるはずがない。
「信じていないと言う顔だ。だが、それでもいい。君を救えたのだから、それで」
「あなたは……私が大階段から落ちるのを知って、あの場所に?」
「あぁ」
「未来から来たのが本当だとして……その、お戻りにならないのですか」
いったい自分は何を言っているのかと思いながらも、ラヴィーネは尋ねる。
助けてもらったことはありがたいが、なぜ共に馬車に乗って家に戻る必要があるのかがよくわからない。
「夫婦とは、一緒にいるものだろう?」
当たり前のように応えられて、返答に窮した。
どうするべきかと悩んでいる間にも容赦なく馬車は進み続けて、あっという間に貴族街に到着してしまう。
立派な邸宅の前で馬車は停まり、堂々と降りていこうとするジェイセンに似た男に、ラヴィーネは彼の羽織っているローブのフードをぐいっと被せた。
「どうした?」
「あ、あなたが、誰のかわかりませんが」
「ジェイセンだが」
「ともかく、助けていただいた以上、お礼はしなくてはいけませんし」
「そんなものは必要ない。夫は妻を守る。当然だ」
「ジェイセン様とは髪形が違いますので、フードで隠せばなんとか誤魔化せるかもしれません……できる限り目立たないように家に戻って、どうすればいいのかを考えなくては……」
彼は未来からきたジェイセンです──などと説明したところで、家の者たちが納得するとは思えない。
奥様が見知らぬ男を連れ来んだと大騒ぎになり、ジェイセンにそれが伝わってしまう。
ラヴィーネは不貞を働いた妻として仕置きを受けるかもしれない。
それだけならまだいい。離縁を切り出される可能性もある。
でも、と、ラヴィーネはそこでふと気づく。
愛されていないのに、これから愛されることもないのに、離縁を恐れる必要があるのだろうか。
未来からきたというジェイセンの存在はあるにしてもないにしても、ジェイセンはラヴィーネを嫌っているのだ。
「……あなたが私の浮気相手だと思われれば、離縁をしてもらえる……?」
「しない」
「っ、い、今のは聞かなかったことにしてください」
無意識のうちに呟いてしまった言葉をジェイセンに似た男に聞かれてしまい、ラヴィーネは大きく首を振った。
男はラヴィーネの両肩を掴んで、暗い影のある瞳で射るようにラヴィーネを見つめる。
にこにこ笑ったり、甘い言葉を口にしていたのに、雰囲気が唐突に変わる。
それは、威圧的で迫力のあるラヴィーネの知るジェイセンの姿と同じだった。
「離縁など、しない」
「そ、それは、未来のあなたの話で、今のあなたは、私を嫌っていて」
「それは二十二歳の私が愚かだからだ。そのせいで……いや、なんでもない。ともかく、離縁などはしない。私の愛するラヴィ、なにも心配する必要はない。ジェイセンとは私なのだから」
フードは被ったままだが、男は馬車から降りて、ラヴィーネに手をさしだす。
こうしてエスコートしてもらうのははじめてだと、ラヴィーネはぼんやりと考える。
現実逃避である。あり得ないできごとに、頭がパンクしかけている。
こうして優しくエスコートしてもらうのは、ラヴィーネのささやかな夢だった。
まさかこんな状況で叶ってしまうなんて……と、素直に差し出された手を取った。
「さぁ、帰ろう。今日は疲れただろう。一人きりで夜会に参加させてしまい、すまなかったな。もう二度と、君を捨て置くようなことはしないから安心していて欲しい」
家の扉を馬車から降りてきた御者が開く。
だがそこには誰もいない。ラヴィーネが戻ってきても、侍女も使用人も出迎えたりはしない。
いつものことだ。彼らはラヴィーネをお飾りの妻として小馬鹿にしている。
それが虚しくもあり、今日はかえってありがたくもあった。
「主人が戻ったというのに、出迎えもしないのか」
「いつものことですので」
「……全員解雇するべきだな」
「い、いえ、いいですから、そんなことをしなくても……はやく部屋に行きましょう、あなたの姿を見られてしまう前に」
ラヴィーネは、男の手をぐいぐい引っ張る。
彼はやけに嬉しそうに口元を綻ばせて「秘密の恋人のようで、いいな」と、緊張感のないことを言う。
ラヴィーネは静まり返った公爵邸の自室へと、のんびり歩く男を引っ張って連れて行き、ぐいぐいと中に彼を押し込んでぱたんと扉を閉めた。
扉を背にして深い息をつくラヴィーネを尻目に、彼はは勝手知ったるかのように戸棚からマッチ箱を取り出して、ランプに火をつけていく。
ラヴィーネの部屋を、灯りが照らす。
ばさりとフードつきのローブを外した男が、ランプの灯りに照らされている。
やはり彼は、ジェイセンによく似ている。
背が高く足が長い。鍛えられた腕や胸板は筋肉が張っていて、軍服がやや窮屈そうに見える。
長い金の髪が彼の持つ退廃的な美しさに拍車をかけている。
「十年したら、若造のジェイセンは私のような姿になる。君はまだ私を信用していないようだが……まぁ、それもそうだろうな。未来から来たと言われてすぐに信用する者などいない。信じて欲しいとは思わない。ただ、君は私の妻だ。その事実は変わらない」
一歩、ジェイセンに似た男はラヴィーネに近づく。
ラヴィーネは部屋の空気がやけに重たく、そして熱く感じて、後退りをする。
こつんと、背が扉にあたった。




