ジェイセン・アーバン(32)
ジェイセンは、二十二歳。ラヴィーネよりも四歳年上だ。
公爵の爵位を継いだのは彼が二十歳の時。父公爵が病で亡くなったためである。
このとき縁談がいくつか出たらしいが、彼はそれを全て断っている。アーバン公爵は女嫌いという評判が広まったのはこの時からである。元々、社交の場にほとんど顔を出さなかったことも、この噂に拍車をかけた。
たまに王に呼ばれて顔を見せる彼の心を手に入れようと、貴族の子女たちは躍起になったそうだ。
彼は逞しく、若くそして麗しい。そんな彼に言い寄り、結局歯牙にもかけられなかった女性たちが、悔し紛れに『女嫌い』という噂をばら撒いた──というようなことをも、使用人たちの会話からそれとなくラヴィーネは聞いていた。
確かにジェイセンとは、絵画に描かれた英雄のように美しい容姿をしている。
寡黙で人を寄せ付けない雰囲気も相まって、人ではないなにか別のもののように見える時さえある。
ラヴィーネは彼に近づくことができない。彼が公爵家にいたとしても、食事さえ別々なので遠くから見る程度の関係でしかないが、それでもジェイセンの顔立ちぐらいは覚えている。
ラヴィーネを抱いて、心配そうに、そしてやや興奮気味に宝石のような瞳を輝かせながら食い入るように顔を覗き込んでくる男は、ジェイセンによく似ているが、別人である。
癖のない金の髪はジェイセンよりも長い。切ることを忘れたかのように、背中まで伸びている。
余計な肉を全てそぎ落としたような精悍な顎に高い鼻梁、筋肉質で大柄な体を、黒い軍服に包んでいる。その姿はラヴィーネの知るジェイセンと相違ないが、髪形が違う。顔立ちも、違う。
有体に言えば、老けているのだ。
老けているといっても、年老いたという感じとは違う。今のジェイセンよりも、精悍さを増している。
年齢が彼の美貌に深みを加えており、迫力と雄々しさと、渋みが増して──ラヴィーネが戸惑いながらも見とれてしまうほどに、彼は美しかった。
「あぁ、ラヴィ……っ、無事でよかった、私の可愛いラヴィ……会いたかった、君に、とても……っ」
「……え、あ、あの」
ジェイセンではない、知らない人だと、ラヴィーネは確信した。
彼はラヴィーネを『ラヴィ』などと、愛しげに呼ばない。
それに『私の可愛いラヴィ』と言われたことはないし、彼は己のことを『俺』と言う。
「あ、あなたは、どなたですか……ジェイセン様の、お兄様……?」
それにしても顔立ちが似ているのだ。ジェイセンに兄がいると聞いたことはないが、もしかしたら前公爵が外で作った子がいるのかもしれない。
ラヴィーネが遠慮がちに尋ねると、彼は両腕で抱いたラヴィーネを、骨が軋むほどにきつく抱きしめた。
情熱的な抱擁に、ラヴィーネは目を白黒させる。
貴族たちは広間にいるとはいえ、城の大階段で見知らぬ男に抱きしめられている。
ラヴィーネの、アーバン公爵夫人としての評判は地に落ちているが、それ以上の醜聞が流れてしまう。
ジェイセンに、とても顔向けできない。
愛はないものの、妻としての立場はある。もし、ラヴィーネが不貞を働いているという噂が流れたら、彼はきっと激怒するだろう。
抱きしめてくる男の体から、胸を押して離れようとする。
けれど、その分厚い胸板も力強い両手も、ラヴィーネ程度の力ではびくともしなかった。
「助けていただいて、ありがとうございます。ですが、お願いです、離して……」
「なんて可憐な声なんだ……君は今、十八歳か」
「そうですけれど」
「そうだな、君が階段から落ちたのは、私と君が結婚して半年後。私は、王妃主催の夜会に君が参加しているとも知らずに、アーバン公爵領で魔物の群れの討伐をしていた。君を助けることができて、よかった」
「なにをおっしゃっているのか、私にはよく……」
ジェイセンによく似た男は、ラヴィーネを離すことなく立ちあがる。
見知らぬ男に抱きあげられて、ラヴィーネは体を硬くした。
元々、他者の体温に慣れていないのだ。母にさえ、抱きしめられたことはない。
ジェイセンには、手を触れられたことさえない。
男の体は硬く、温かい。ドレス越しに触れる手の感触に、ラヴィーネは困り果てて眉を寄せる。
ラヴィーネを抱いているというのに、まるで重さを感じさせないしっかりとした足取りで、彼は大階段を降りていく。
そこでラヴィーネは、不思議なことに気づいた。
ラヴィーネは大階段の上段から落ちた。ここには、ラヴィーネ以外にだれもいなかった。
それなのに男は、ラヴィーネが転げ落ちる前にその体を抱きしめて、ラヴィーネを守ったのだ。
階段に、男が唐突に現れたとしか思えない状況である。
もしかして夢を見ているのかもしれない。
現実のラヴィーネは、大階段から転げ落ちて、意識を失い──意識を失っただけならまだいい。
打ち所が悪くて、命を落とした。
だから、死ぬ間際の夢を、見ているのだろうか。
ジェイセンに優しくされたかったという、夢を──。
「ラヴィ、帰ろう。私たちの家に」
「あなたは、何を言って……これは、夢、ですね。あなたは、私の願望がつくりあげた、理想のジェイセン様……」
「違う。……私は君を、傷つけ続けているのだろうな。記憶にある。よく、覚えている」
彼は階段から降りたところで足を止めて、ラヴィーネを覗き込む。
真摯な瞳が、ラヴィーネの顔を映した。
「私は、ジェイセン。今から十年後の、ジェイセン・アーバン。未来から、来た」
この人は──何を言っているのだろう。
ラヴィーネの頭は疑問符でいっぱいになる。まだ、腹違いの兄と言われたほうが信用できる。
だが、確かに彼はジェイセンに似すぎているのだ。
まさか冗談だろうと、すぐに否定できないほどに。
「待ってください、あなたは……っ」
「戸惑う君も、可憐だ。この腕に、十八歳の君を抱ける日が来るとは。あぁ、なんて可愛いのだろうな、私のラヴィは」
いや、別人だろう──と、ラヴィーネは眉を寄せる。
ジェイセンに似た男は浮かれたようにそう言って、にこにこ笑った。
「ジェイセン様はそんなことをおっしゃいません……っ」
「あぁ、そうだな。この時代にいる私は愚かな屑だからな」
「お願いです、離して……」
「離さない。私のラヴィ。君は私の、大切な妻だ」
大階段から降りて、アーバン家の馬車に彼はラヴィーネを乗せた。
そして自分も隣に乗りこんで、御者に「妻を迎えに来た。夜会は終わりだ、戻る」と、命じる。
御者はジェイセンの様子に違和感を覚えていないようで、やや驚きながらもなにも言わずにそれに従う。
暗がりでは、ジェイセンが別人だということに気づけないのだろう。
その声も、口調もジェイセンと同じだ。
ラヴィーネはどうしていいのかわからずに、ジェイセンの隣で震えている。
ジェイセンはそんなラヴィーネの頬に触れると、「本当に無事でよかった」と、何故か瞳を潤ませた。




