魔物討伐者
上空から近づいてくるにつれ、ガーゴイルと呼ばれた魔物はラヴィーネが感じた以上に大きいことがわかる。
人間の背丈ぐらいと思っていたが、その倍はあるだろうか。手足の長い巨大な蝙蝠のような見た目の化け物は、真紅の瞳を爛々と光らせながらジェイセンの体を引き裂こうと、鷹が獲物を引きちぎるように一直線に、空から落ちるように飛来する。
ラヴィーネはその恐ろしさに、腰から下に力が入らなくなる。
エルーニャ家から外に出ることはほとんどなく、出たとしても王都への移動や夜会の会場に馬車で行く程度。その最中に魔物に襲われたというような記憶はない。
魔物に襲われるというのは、大抵の場合死を意味する。その場にジェイセンのような強い者がいるのなら別だが、人々は魔物に対抗する手段など持たない。
だからラヴィーネが例えばこの場に一人だったら、きっと簡単に命を刈り取られてしまっていただろう。
そんな恐ろしいものを相手に、ジェイセンはずっと戦っていた。
頭ではわかっていたが、実際に目にするとそれがどれほど勇敢なことなのかを思い知る。
ジェイセンは一歩も引くことなく、寧ろ自分から魔物に向かっていく。
構えた剣で魔物の爪を弾き飛ばす。振り抜いた剣を怯んだガーゴイルに向けて振り下ろす。
風ごと切り裂くように、目視できない速さで剣はガーゴイルの足を斬る。
煌めく白刃は凶悪だというのに美しい。まるで重さを感じさせず、簡単に黒い体毛に覆われた足が切り落とされる。
硫黄のような臭気が鼻につく。切られた足は黒い液体となりぼとりと石床を汚した。
断面から滴るのも、赤い血ではなく黒い粘着質な液体だ。
ガーゴイルはキ……キ……キ……と、嫌な音を喉からあげながら、翼を羽ばたかせて風を巻き起こす。
突風が石床を切り裂く。ジェイセンの腕に裂傷ができる。血が流れるのを見て、ラヴィーネは彼に駆け寄ろうとする。
それを、セインに止められる。
「ラヴィ、大丈夫だ。すぐ……終わりにする」
セインも己の剣を抜き、ガーゴイルに駆ける。
「手を出すな、お前はラヴィーネを守っていろ!」
「あれは、私が殺す。幾度息の根を止めても足りない。腹を切り裂き喉まで貫き、四肢を斬り翼を捥いで、命の欠片さえ残さないほどに、壊してやろう」
「邪魔をするな、セイン」
「引っ込んでいろ、若造」
セインはジェイセンの横を駆け抜けて、展望台の欄干に足を掛ける。
空中に、身をひるがえした。背に翼が生えているように跳躍し、空に浮かんだガーゴイルの翼を握り締める。
暴れるガーゴイルの背に足をかけ、翼を鷲掴みにしながら、背面に剣を振りあげる。
ためらいのない冷酷さと、震えるほどの冷静さで、剣を心臓に向けて突き刺した。
射られた鳥のように、ガーゴイルが墜落していく。
「セイン様……っ」
セインも共に、落ちていく。時計塔の、外側に。
ラヴィーネの手は彼に届かない。セインはガーゴイルに剣を突き刺したまま、ラヴィーネを見て微笑んだ。自分の役目は終わったとでもいうように。
「セイン、掴まれ! 何も言わずに去るな、この最低なクズが!」
「お前に、言われる筋合いはない」
「お前は俺だ、死を贖罪だと思うな。俺よりも先にラヴィを抱くのだろう! 許可などしないが、俺のラヴィーネの心を奪っておいて、勝ち逃げをするな!」
ジェイセンが欄干から身を乗り出して、セインに手を伸ばす。
セインはガーゴイルに突き刺さっている剣を足場に跳躍し、ジェイセンの手を握った。
彼の手をひきあげるジェイセンに駆け寄り、ラヴィーネもその体を支える。
セインを展望台に引きあげて、その勢いのままに石床に転がる。
ジェイセンの腕から流れる血が、ラヴィーネの頬を汚した。
荒い呼吸をついているセインとジェイセンを、ラヴィーネは押し倒すほどの勢いで抱きしめる。
「ご無事で、よかった……!」
涙をこぼすラヴィーネを、二人は同時に抱きしめ返した。
時計塔の下では、兵士が空から落ちてきたガーゴイルに驚きながら、処理をしている。
集まってくる人々に近づかないように言い、衛兵を呼んだ。
魔物の体液は土地を汚染する。腐った匂いや硫黄の匂いは、瘴気と呼ばれているものだ。
時に、それは人を病気にさせる、触れるべきものではない。
しかるべき処置をする──これは汚染物として焼却処理をするという意味だ。
聖別された炎で焼く必要がある。しかし時間が経てばそれも無駄になる。
アーバン公爵領の土地汚染は、魔物が多く浄化が間に合わないためだ。
「たった一匹の魔物で大騒ぎをする、王都は平和でいい」
ジェイセンが、人々の様子を眺めながら呟いた。
兵士から包帯をもらい、ラヴィーネは彼の傷にそれを巻いた。
魔物から傷を受けると、患部は腐り果てる場合がほとんどだが、ジェイセンはそうならない。
アーバン家の長い歴史の中で、その血には魔物に対する耐性ができているのだと、彼はなんでもないことのように説明してくれる。
ラヴィーネは包帯を巻き終えて、ジェイセンの指がきちんと動くか確かめるために、彼の手を握ったり開いたりする。
ジェイセンは心なしか幸せそうに、ラヴィーネのそんな様子を見つめた。
「ところでジェイセン、ラヴィを抱いていいとお前は言ったな」
「言っていない」
「ラヴィ、今日はどこかに泊まっていこう。夜景の見えるホテルなどがいい。少し酒も飲もうか、きっと楽しい」
「えっ、で、ですが、ジェイセン様は怪我を」
「だからジェイセンは家に帰そう」
「たいした怪我ではないし、俺は許可していない。俺の妻に触れようとするな」
「ラヴィは、私の幸せを願ってくれた。私の幸せは、ラヴィを腕に抱いて朝まで眠ることだが」
「お前はあのまま、助けずに落としていたほうがよかった」
ガーゴイルと戦っていたセインはどこか恐ろしかったが、今はいつもの軽やかさを取り戻している。
自分同士で言い合っているという不思議な光景を見ながら、ラヴィーネはくすくす笑った。
兵士たちが、王都に魔物が現れるなんて──と、話している。
それからラヴィーネたちのほうにやってくると、礼を言った。
「こんなに危険な魔物を倒してくださりありがとうございました。酷い被害が出るところでした」
「たいしたことはしていない」
「よろしければ名前を教えていただけませんか?」
「ジェイセン。アーバン。アーバン公爵だ」
言い淀むジェイセンの代わりに、セインが答える。
兵士たちが「魔物殺しの……!」「流石だ!」と、大きな声で言う。
人々の視線がジェイセンに向き、彼は深く溜息をつきながら「余計なことを」と、セインを睨んだ。




